第15話 みんなの罪を数えろ

 敵が相手を憎めば、相手も敵を憎む。

 漢の宮廷は大混乱に陥っていた。


 黄巾族討伐の責任者にして中華の軍の大半を指揮する何進から十常待を弾劾する檄文が届いたためだ。

 十常待にとって「自分を殺害し国政をもてあそんだ十常待を討伐する」という何進の檄文はだった。

 彼らは生前敵同士だったし互いに殺しあいをした。

 だが、その次に書かれていた言葉は予想外だった。

「そして宦官と共謀し、自分を謀殺した」と書かれていたからだ。

 これには当事者である十常待だけでなく、何皇后も仰天した。

 何将軍は元々、妹が皇帝の妃となったので抜擢された男である。その幸運がなければ大将軍と言う地位にも就けなかっただろう。

 それが何故、身内であり何進将軍の権力の源である彼女を憎むのか?

 それは次のような事情による。


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 さて、ここで一度何進が殺害された経緯を、本作独自の解釈を交えながら見てみよう。


 189年4月に霊帝が亡くなり、5月頃、何皇后の息子、劉弁が後の献帝を押さえて皇帝となった。

 これで何氏は「幼い皇帝の外戚として政治をお助けする」という独裁の名目ができたのだ。

 これに連動して何将軍の知人たちが「」と言い出した。


 これに驚いたのは何皇后だ。彼女は181年3月に献帝が生まれたのに怒り、母親の王美人を殺害してしまった。

 これは霊帝の逆鱗に触れ、何皇后はあわや廃位という所まで来た。このときに仲介に入りとりなしたのが宦官だ。

 彼女にとって宦官は恩人であり、宮廷で権力を振るうための便利な道具だった。

 そうでなくても男子禁制の後宮で宦官の支援がなければ生活自体がなりたたない。そのため皇后は両者の和解に奔走し、何とか思いとどまらせようとした。

 何進としても、これから甥が政治を行うのに戦争など始めては国が混乱するので避けたい。かといって部下の手前強気にダメというのも気が引ける。

 そこで何進と宦官のトップ同士で調整が行われた。


 とりあえず8月に蹇碩けんせきという宦官が何氏に殺害される。

 これは何進将軍の宦官抹殺計画の一端と現在では伝えられるが、彼は霊帝の肝いりで西園軍という皇帝直属の軍を指揮し、後の献帝を庇護、次期皇帝にしようと画策していた。

 このため何進は彼と交渉を積み重ねたが、結局うまくいかず結果的に『皇帝と何氏の権威を脅かす人間』として彼を殺害したのだ。

 つまり、宦官憎しではなく自分達の地位を守るための自己防衛、少帝 対 献帝の派閥争いの結果だった。

 あとは部下の袁紹が勝手に呼んできてしまった各地の豪族たちの武力を背景に少しだけ権力をもらって「悪い宦官を懲らしめたぞ!我らの勝利だ!」と言って手打ちにする算段だった。

「大将軍が自分の人徳で兵を集め、悪いかんがんをこらしめた」

 という構図を作ることで宦官側に敗北を認めさせ、権力の一部を穏やかに奪う、いわば出来レース。

 トップ同士でシナリオ付きのプロレスを行っているつもりだった。


 何進が死ぬ前に宦官のせん滅に及び腰だったり、宮廷に呼び出された際に少数の供しか連れなかったのもその証拠だろう。


 要は何進も宦官のトップも、殺しあうつもりは毛頭なく、互いのメンツを潰さないように調整をしながら手打ちとしようとしていたのだろう。


 ところが「妹様がお呼びです」と言われて何進が向かった先では宦官が自分を殺すために待ちかまえていた。



 何進はそう思った。

 妹と甥のために宦官が独裁を振るいすぎないよう、ちょうど良いバランスとなるよう動いたつもりだったのに、

 失意と怒りの中、武器を持たない何進は自分の甘さと妹や仲間だと思っていた宦官の裏切りを呪いながら殺された。


 これが何進からみた自分の殺害に関する出来事だ。



 何進としては宦官とは程良い関係を保つ予定でもあった。彼らは妹の味方でもあり、後宮の事は彼らが担当していたからだ。

 かといって霊帝時代のように専横をふるわれても困る。

 そのため袁紹が提案した各地の武力勢力を集めて脅しをかける案に賛成した。


 こうした認識だったのだが、誤算だったのはことだ。

 袁紹は何進に内緒で大将軍の文書を偽造し、各地の群雄を集め事後承諾的に何進に兵力を集めさせた。

 この偽書状の情報をつかんだ宦官は当然警戒した。

 過去に弾圧を受けた士大夫と宦官は互いを信用してない。むしろ互いをゴミ以下の存在として排除したがっていた。

 そこへ来て蹇碩の殺害と兵力の集合である。

 トップ同士は本気で争うつもりはなくても、仲間を殺害された末端の宦官にとっては宣戦布告にも等しい。それを袁紹たち過激派があおる。

 たちまち何進将軍排斥の派閥が生まれた。


 そして段桂という十常待の一人が偽の使者を送って何進に

 そう伝えた。


 手紙には偽造された皇后の印鑑でも使われたのかもしれない。

 宦官が呼んでも来ないだろうが、肉親なら誘いにのるだろう。という目算と「仮に暗殺に失敗しても兄妹どうしで共倒れすれば良い」という計算があったのかもしれない。

 結局、何進は誘いに乗って単身で宮殿に訪れた所を殺害された。

 偽の伝令を聞いた将軍は死亡し、引くに引けなくなった袁紹袁術のコンビによって偽の伝令を発した宦官も皆殺しにされたため、何皇后は兄の死に自分の名前が利用されたとは思いもしなかったのだ。


 皇后は急いで兄の誤解を解こうとしたが、さらに手紙で段桂との共謀を疑われた。

「この兄殺しが!」という強い言葉により、事件の全容を知る事となったのだ。

 死んだあとに自分の嘘がバレて恐ろしい事態になるなど段桂は思いもしなかっただろう。たちまち仲間からも事の次第を追及され牢屋おくりとなった。


「大将軍は軍を率いてこちらに進軍中です。いかがいたしましょうか?」との問いに皇后は十常待を招いて相談した。

 何皇后は権力はあるが自身が指揮できる兵力は少ない。


 今から10年後には皇帝を取り換え、元国母に手をかけるという大罪ですら平気で行う人間だっていたのだ。この宮廷で宦官と敵対するのはまずい。

 そう判断した何皇后は両者の和解を計画した。

「段桂は何将軍が劉弁(少帝)のために蹇碩を排除したのを、自分たちの排除を計画していると誤解し、自分の書状を偽造して呼び出したのです」と書状を書いた。


 辛抱強い交渉の末、妹に対する誤解は解けたものの

 結局 何皇后は何進に殺意は抱いていなかった事は理解してもらえた。だが、何進を殺した宦官への怒りは収まらなかった。

 おまけに袁紹が「自分は15年、群雄として組織を率いたので宦官抜きでも後宮の運営ができる」などと煽ったため、何進は宦官の排除に後腐れがなくなった。

 ほんとうによけなクソバイスだけは得意な男である。

 何進「段桂はじめ自分の殺害に関わった者たちの首」を要求し、宦官は「袁紹・袁術を処刑しろ」と要求。平行線となった。


 宦官は単なる文官ではない。後宮を自分で警護したり、かつて後漢を欲しいままに操った外戚 梁冀を排除したり、党錮の禁で士大夫を処刑台に送ったりもした武力勢力である。

 このままでは黄巾の反乱を後目に王朝を二分する戦いが始まってしまう。

 事態を重くみた宦官は、何皇后に次のような手紙を書かせた。

「このままでは、賊のために何将軍が使えるべき漢が滅びてしまいます。それを避けるため、遺恨は忘れ目の前の敵を取り除く事からはじめましょう」と。

 ここまでは鼻で笑っていた何進だが、次の文面に顔が凍り付く。

「そして、何よりも董卓が私と皇帝陛下の正式な子供である劉弁を暗愚として排除し、終いには殺害した事に私は憤怒しております。これは漢と何一族への侮辱です。お兄さまにおかれましては、一族の真の敵である董卓を速やかに討伐し、一族の恨みを晴らしていただきたく存じます」


 他では意見が一致しなかった何皇后と袁紹だが、この点で意見が一致した。

 さて、三国志一の悪党にして暴虐の象徴たる董卓はこの頃いかにしていたのだろうか?

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