第5話 盲夏候の憂鬱
所変わって、沛国で5千の兵が一人の男を取り巻いていた。
「おい!隊長のいとこ!これはどういうことだ!」
「おい!隊長のいとこ!俺たちは隊長の指示に従いたいのだがどうすればいいんだ!」
曹操が置いていった大量の兵士を前に夏候惇は頭をかかえていた。
夏候惇
曹操のいとこにして、一番の信頼を得ていた男である。警戒心の強かった曹操の下で唯一寝室に入る事が許されたという逸話が、彼に対する曹操の信頼を裏付けている。
時間は一刻前にさかのぼる。
「左目が見える…」
死んだと思っていた自分が生きているのを確認したとき、世界は輝きに満ちあふれていた。
あわてて鏡をのぞき込むと、そこには失われていない、かつてあった左目がらんらんと輝いていた。
夏候惇は戦いで左目を失い盲夏候の称号を持っていた男である。
彼は正史だと曹操が挙兵した頃から従っていたというあいまいな記述しかないので、本作では演義の反董卓連合で曹操が兵を集めていた時に参加していた説でいく。
つまり大将軍として覇を唱えていた彼も、今は市井の人にいたのである。
「父上!母上!失った肉体が戻りました!」
そう言うとかつての大将軍は涙ながらに自分の左目を見ていた。
夏候惇は両親から貰った肉体を失った事を悔やんでおり、かつて矢で左目を射られた時に「父の精!母の血だ!」といって目玉を飲み込んだ男である。
その肉体が戻ったのだ。
その喜びは想像もできない。
そんな喜んでいる彼に
「すまん。惇。少し人材を集めてくるので部下を頼む」
と言う声が聞こえた。
非常に懐かしい声。
外にでると馬で走り去っていくいとこと5千人はくだらない兵士たちがいた。
兵士たちは一様に驚いた顔をしている。町の人間も急に大勢が来た事に驚いている。
…………彼は自分のいとこが急にやってきて、何の説明も無しに兵を置いていった事を理解した。
「………やっかいごとをおしつけていきやがった…………」
以上がかつてともに死線をくぐり抜けた元上司にして、いとことの短い再会であった。
こうして、何が起きたのか分からない兵士からの質問攻めである。
曹操は恐ろしい位、全く何も説明をしていなかったようだ。
夏候惇は親族の夏侯淵を呼ばせると曹操の兵に向かって言った。
「えー、諸君も分かっていると思うが、どうやら我々は黄巾の乱の頃に戻ったらしい。ちなみに曹操が死ぬまで生きていた者はいるか?」
兵士から手は上がらなかった。
「ふむ」
惇はうなずくと
「ではこれから10年以内に死亡した者はいるか!」
こちらは半数以上だった。
董卓との戦いで死亡したものがほとんどだろう。
「では建安6年(201)まで生きていた者は?」
そういうと全員が首を傾げた。190年頃に死んだ人間にとって、新しい元号を知っているはずがない。
どうやら嘘はついてないようだ。
惇は思考する。
「兵糧は何日ある」
「はい、3か月分です」
「よし、ではここで陣をとり、屯田で食料の確保を行いながら孟徳の帰還を待つ」
度々の兵糧不足で痛い目を見ていた惇は自給自足で活動できるように曹操の父の土地を耕す事にした。
「戦乱が起きているのに、農業ですか?」
「うむ、未来の記憶が残っている今、都では何進将軍と宦官の争いが起こるであろう。あれに巻き込まれてはかなわん」
三国時代は裏切りの時代でもある。
今頃、呂布は義父だった丁原と争うだろうし、大将軍何進は自分を殺害した十常待と争いとなるのは必至である。
おまけに黄巾賊討伐の将軍もどう動くかは分からない。
不確定要素が強い中で、大勢がどう動くか分からないのに都に戻るのは危険である。
「なお、これから我が軍は曹操のいとこ、夏侯淵を旗頭にここに駐屯する」
寝耳に水とばかりに夏侯淵が驚く。兵士たちも「そんな聞いたことの無い男に従えるか!」と反発が起こる。
そんな時に「黄巾族が攻めてきた!」という知らせが来た。
その数5万。
自分達の10倍の数だ。兵士たちは慌てて退却をしようとした。
だが惇はこれを奇貨とした。
「諸君、武器を取れ!我が指示に従え!我が輩と淵は今から30年後には将軍の任について10万の兵を率い平原を縦横無尽に駆け巡っていたのだ。何だあの程度の烏合の衆。我が輩たちが戦った正規軍はもっと強かったぞ!あの程度でうろたえるとはそれでも官軍か!」と一喝した。
そう言うと惇は左目を布で覆って見せた。その特徴あるいでたちに一人の兵が叫んだ。
「もしかして、あなたは夏候惇将軍か!」
この回答に一部の兵が湧きたつ。彼らの世代でも惇をかろうじて知っている人間がいたようだ。
「いかにも。我が輩は夏候惇である。今より40年の経験を積んでいる。下手な君主に仕えるよりよっぽど役に立つぞ」
そういうと未来の魏王朝の軍事最高位 大将軍夏候惇は不敵に笑った。
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