第5話 新たな精霊

  1


「ちょっとジレッド! 大変、ジレンが大変なの!」


《過去転移》32回目。

 その日――フェロキア暦206年、シスター・ノアの叫び声が孤児院に響き渡った。


「どうした、何があった!? 熊はもう出たはず……!」


 何十回目の《過去転移》であろうと、ジレンの身になにかあっては一大事であり、俺は狼狽を隠せなかった。


 しかもシスター・ノアの返答は、数百年付き合ってきた中で初めて耳にするような突飛なものだった。


「ジレンが、ジレンが……浮いてるの!」


「はあ!?」


 俺はすぐさま外に飛び出した。

 3歳のティアナが「すごいすごーい」とのんきに空を見上げてはしゃいでいる。その視線の先には――なるほど、ジレンがふわふわ浮いていた。地の精霊や風の精霊の術を使えば一時的に浮き上がれはするが、あのように宙を漂うことはいかなる召喚士であっても不可能だろう。


「ジレッド! ぼく、重力の精霊と会えたよ! 力を貸してくれたんだ!」


 歴史上初の快挙を成し遂げながら、六歳のジレンはごく自然に言ってのけた。


  ◆


 今回、俺はジレンに特殊な教育を施していた。

『高い高い』という幼児をあやす方法がある。

 ジレンにそれをやって育てたのだ。ただし、規模は段々と大きくしながら。


 赤ん坊のころは通常の『高い高い』だ。このころの赤ん坊の脳というのは損傷しやすく、軽く体をゆするだけでも損傷を受けかねない。細心の注意が必要だった。


 首がすわり、ジレンが自分で飛び跳ねられるようになると、次の段階へ進んだ。俺がジレンをだっこして空高く飛翔し、風の精霊の力で真空の空間を作った上で地面に急降下するのだ。最初は教会の屋上ぐらいの高さからだったが、最終的にはちょっとした山ぐらいの高さから。


 大人だったら多分、高さと落下の感覚に絶叫していただろう。だが幼児ゆえか、小さいころからの教育の賜物か、ジレンはこの『超高い高い』が大好きだった。そして山のような高さから落下する度、ジレンに教えたものだ。


「ほらジレン、感じるか? これが重力だぞ」


「じゅーりょく?」


「そうだ。こうして地面に引っ張られる力のことだ、分かるか?」


「うん、わかるー。じゅーりょく、じゅーりょくー!」


 言っててなんだが、俺に重力というものは今一つ感じられない。今の俺にとって重力とはあまりに身近過ぎたのだ。


 だがジレンはその幼さゆえの素直さ、感受性の高さ、その他大人には分からない事情で感じることができたのだろう。重力という力を。


 俺にとってもっとも身近な精霊は地の精霊であったが、ジレンにとってのそれは重力の精霊だったのだ。それゆえ、ジレンは《融合契約》の仕方を知った後は、独力で重力の精霊と契約するに至ったのだ。


 つくづく召喚術とは奇妙なものだ。未だかつて誰も契約できないでいた精霊を、六歳の子供が簡単に見つけてしまったのだから。


 後にジレンと融合して分かったことだが、重力の精霊は、その真名をグラビトンという。時空の精霊クロノスのように、相当特異な精霊であることは間違いなかった。


 なにせ契約するために異界で出会った際も、召喚した後も、姿が見えない。確かにそこにいるとは感じられるのだが、姿形が存在しない。こんなことは召喚士の歴史上、初めてだろう。


 ただ、この世界すべてが常に重力という力にさらされていると考えれば分からなくもない。つまり重力の精霊は、どこにでもいる、もしくはすべてを覆い尽くすほど巨大なのではないだろうか。


 また、力が非常に弱い。ファノメネルは「重力の精霊とは局所的にそれほど強力な作用を持たないのでは」と零したことがあった。その推測は正しかったのだ。なにせ契約に成功したジレンには、ほとんど召喚酔いの症状が出なかったほどだ。


 しかも重力の精霊を用いてできることと言えば一つ、俺自身、あるいは俺が手に触れている物体にかかる重力を操作することだ。差し当り俺はこの術を《束縛解放》、《束縛増加》と名付けた。


 楽しい術であることは認める。《束縛解放》、すなわち自分にかかる重力を弱めると、全身が軽くなるのだ。最終的には地面から足が離れ、ふわりと浮き始める。このとき強く地面を蹴ろうものなら、かなり高く跳べる。モノを運ぶのも便利だ。


 ただ重力を強める、つまり《束縛増加》の術は使い道も見当がつかなかった。なにせ自分を重くしても辛くなるだけだし、直接手で触れる必要があることから、遠距離戦が基本の召喚士には戦闘でも使い辛い。大体、人間の体というのは意外としっかりしており、ちょっと他人にかかる重力を強めた程度ではそれほど動きが束縛されないことも分かった。


 ようするに俺には重力の力の使い方がよく分からなかった。火の精霊や水の精霊などの使い方は先人によって明らかにされており、《炎の矢》といった術名によって体系づけられてもいる。だが、なにせグラビトンはまだ誰も見つけたことのない精霊なのだ。


 時空の精霊クロノスがそうだったように、異界で出会って会話ができたのなら解明の糸口も得られたかもしれない。だがなにせ契約したのは俺ではなくジレン。すなわちグラビトンと会話できたのはジレンであって俺ではない。召喚した際に現れる精霊はただの分身でしかなく、会話などできない。


 とはいえ推測と研究の結果として、新たな精霊との契約ができたのだ。俺としては満足すべき結果であった。


 だからこの《過去転移》32回目の世界でも、俺は当然召喚術研究所に――ファノメネルに会いに行くこととなった。


  ◆


「今、私は重力という力について調べている。とはいえすでに実証もある程度済んでいる。恐らく存在するんだ、重力を司る精霊というものが」


 召喚術研究所の入所一日目。前回そうであったように、ファノメネルは重力の精霊の存在について語った。


「知ってる、こういう力のことだろう?」


 俺はグラビトンを召喚し――といってもその姿は見えないが――ファノメネルに《束縛解放》の術を使った。


 彼女の小さな体が、ゆっくりと浮き上がる。


「な、なんだこれは!? 体が軽い!? 重力が……軽減しているというのか!?」


 ファノメネルの狼狽ぶりは、かつて見たことがないほどだった。


「し、信じられない! まさかおまえは、すでに重力の精霊と契約しているというのか!?」

「そういうことだ」


 その後の展開は、わずかに面倒だった。

 ファノメネルがすっかり興奮してしまい、俺を質問攻めにしたからだ。


「全世界の研究所が! 長年かかってその存在を推測し! 未だ誰も契約できなかった重力の精霊を! なぜ十代の若造がいともたやすく契約している!?」


 俺は「そういうこともある」「たまたまだ」「学者ならまず結果を受け入れるべきじゃないのか」と言葉を並べてどうにかなだめなければならなかった。


「いいだろう、分かった、おまえはその年で多くの精霊と契約し、王国の窮地を救った希有な召喚士と聞いている。重力の精霊と契約していたとしても……まあ受け入れる他ない」


 最終的に、どうにかファノメネルはそう落ち着いた。


「それで重力の精霊の力はどうなんだ? さっきはわたしにかかる重力の力をある程度制御したようだが、他になにか特別なことはできるのか?」


「いや、それがそうでもない。重力はどこにでも存在する代わり、ひどく力が弱いんだ。せいぜい重量を軽くしたり重くしたりするぐらいしかできん」


「なるほどな。せっかく見つけたおまえは残念かもしれないが、わたしにとっては推測通りだ。恐らくだが、重力の精霊とは、いわゆる下位精霊――ウンディーネやシルフよりさらに下位の存在なんだろう」


 下位精霊のさらに下。言ってみれば最下位の精霊。


 苦労して見つけ出した精霊がその程度の力だと思うと残念ではあるが、言われてみれば確かにそうかもしれない。だから地水火風の精霊は、召喚したときぷかぷか浮いてられるのだ。重力を無視して岩や氷を投じたりできるのだ。


「戦いでは役に立ちそうにないか、帝国辺りが発見しないわけだ。だが日常生活では役に立つぞ。たとえば自分の体にかかる重力を弱めた状態で過ごすと、ほとんど疲れないからな」


「ほう、面白いな。考えてみれば我々は常に重力にさらされている。その力を弱めれば、体への負担が常に減るというわけか」


 ファノメネルはしばし考えこんでから言った。


「一つだけ助言してやろう。重力を弱めた状態で長い時間過ごすのはやめておけ」


「どうしてだ? せっかく手に入れた力だというのに」


「考えてもみろ、我々の体は一定の重力に慣れきっている。それがもし通常より弱い重力の中で生活すればどうなると思う?」


「……そうか。体の能力が低下する、ということか?」


「そうだ。体を支える骨はもろくなり、筋力も低下するはずだ。血液を送り出す心臓の機能も低下するだろう。寝たきりになった病人の体が急激に衰えることを考えても、まず間違いない。生命の体は基本的に環境に合わせて変化するようになっているからな」


 ファノメネルの助言は俺にとって有用だった。

 すでに今回の転移では、かなり長い時間、重力を軽減して過ごしてしまった。言われてみるといつもより筋肉の量が落ちてるような気もする。もっとも、再び《過去転移》してジレッドと融合すれば解決できることではあるが。


「あれ? 待ってくれ。じゃあ逆に……たとえば小さいころから、通常より強い重力下で生活してきたらどうなる?」


「決まってるだろう、そんなもの。急激な重力変化が身体にいいとは思えないが、成長に合わせて少しずつ重力を強めていけば、心臓に筋肉に骨、すべてが通常より強化されて育つはずだ」


 俺は衝撃を受けた。重力の精霊の力は思っていた以上に弱く、正直なところ持て余していた。


 だが、ジレンの育成に有効だとしたら? ジレンを幼い頃から強い重力下で育てれば? 間違いなくその影響は未来の俺に出る。そう考えると、どんな精霊よりも価値のある精霊と言えるかもしれない。


「なにはともあれ、こうして重力の精霊が存在することは実証できたわけだ。となれば次の説を検証していくべきだな」


「つ、次の説だって? つまりまだ知られていない精霊がいると考えているのか?」


「当然だ、わたしたちが知っている力なんてどれほどたかが知れていると思う? たとえば、おまえも雷ぐらい見たことはあるだろう?」


「もちろんだ。……あ」


「そうだ。自然現象として雷は誰でも知っている。だが雷を司る精霊というものは未だ確認されていない。召喚術で雷を起こすことはまだ誰にもできないだろう?」


「い、言われてみるとそうだ。雷なんてありふれた現象だというのに、なぜ雷の精霊は未だ見つかっていない……? 召喚媒体の問題か? 雷なんて一瞬で消えるわけだし」


「実を言えば推測はできている。多くの召喚士は間違っているんだ、雷という事象の捉え方を。あるいはおまえになら契約ができるかもしれん」


 この研究所で――いや、ファノメネルと共に研究を続けることは、俺が思っていた以上に有効のようだった。

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