リクオは下界で稲垣祐一と出会う

視界が、まず明るく開けた。次に聴覚が刺激される。あまり良い刺激ではなく、どちらかというと耳障りな刺激だ。喧騒、という言葉が頭に浮かぶ。揚げ物の匂いと、都会によくある排気ガスの濁った匂いがする。

 目に映る風景には、様々な種類の店舗が向かい合い、軒を連ねていて、その間を歩行者や自転車に乗った人間が通る道がある。道には半円形の屋根がついていた。百円均一。スーパー。年配者向けの服屋。うどん屋。居酒屋。ジャンクフードなど。それらの店から流れる歌謡曲や店の宣伝が混ざり合い、反響し、耳に不愉快な音を流し込んでくる。めまいをしそうになった私はまず五秒ほど目を閉じ、また開けた。両手を上に上げ「うううんん」と声を出しながらゆっくりと伸びをする。

 今回の下界への入り口の扉は、小さな、でも活気のあるアーケードの商店街の中につながっていた。

 私は、まず、今回のターゲットである稲垣祐一に会いに行く前に、商店街内にあるスーパーマーケットに立ち寄った。ふらふら、きょろきょろと店内を物色しながら目当てのものを探す。乾き物がまとめて陳列されてある場所に、私の目当ての物はあった。私はそれを持ちレジに並び会計をすませ手渡されたビニール袋に入れビニール袋を右手に持ちスーパーマーケットを後にする。

 出ると、早速ビニール袋の中から目当ての物を取り出し、ふたを回して、開け、中から、スルメイカを取り出すと、スルメの足の部分から口にくわえて、かみかみ、噛み締める。

 私の天界での楽しみは、下界の書物を読み漁ること。下界での楽しみは、スルメイカを食べること。固いスルメイカを噛んで噛んで噛み続けると、だんだんと軟らかくなり、味も、辛みより甘みが増してくる。その、食感の変化と味の変化が最高だ。たまらない。クソうまい。変化していく過程が好きだ。私が下界にいるときは、ほぼ間違いなく、スルメイカを口にくわえている。空が青いように。犬がワンと鳴くように。ゴム人間の海賊が麦わら帽子を被るように。当たり前のように私の口には、常にスルメイカがくわえられている。

 そもそも、私が漫画とスルメイカを好きになったのには、ちゃんとした理由がある。私が神に創られてから一ヵ月が経過した頃のことだ。それが、私の初めての任務だった。佐山京平という者の魂の離脱、回収の任を受けた私は下界に降り立ち、佐山京平と接触した。佐山京平は、歳は二十三歳で、丸く太った体格をしていた。所謂ニートと呼ばれる存在で、四六時中家にいて、コンビニにおやつを買いに行くとき以外は外出することなく、ずっと家に閉じこもっているような輩だった。私は、そんな家に閉じこもりっぱなしの佐山京平を心配して訪問した友人という設定で、佐山京平の自宅を訪れた。もちろん私は佐山京平と友人だったわけではないが、事務員のクリコがそのあたりの記憶の操作をしてくれるので、私は佐山京平に友人として家の中に案内された。両親は、佐山京平の友人が家を訪ねてくることが初めてだったようで、喜び、私をもてなした。

当の佐山京平はというと、私の来宅をあからさまに嫌がり、私と会話すらしようとしなかった。「別に」が口癖のようで、何を言っても「別に」しか言わない。私は佐山京平と出会って五分もしないうちに佐山京平のことが大嫌いになり、すぐさま魂の離脱、回収をしてやっても良かったのだが、せっかくの初仕事、初下界ということもあり少し様子を見ることにした。仕方なく私は、佐山京平の部屋にあった漫画なる書物を手に取った。特に興味があったわけでもないのだが期日までまだまだ時間があり、暇だったので、佐山京平を観察することもせずに、私は漫画を読んだ。

これが、中々に面白かった。その漫画は、ドラゴンボールなる玉を集める少年の物語で、ドラゴンボールを七つ集めるとどんな願い事でも叶えてくれるらしい。私は佐山京平の存在など無視をして、期日の三日間、そのドラゴンボールにまつわる物語を読みふけった。その時に、「食べる?」といってだされたのが、スルメイカだ。その食感、味、風味、全てが初めての体験で、漫画のおもしろさとスルメイカの味が私の気分を、強く、強く、高揚させた。結局、期日いっぱいまで私はスルメイカ片手に漫画を読みふけり、佐山京平の魂を離脱、回収させて天界へと帰った。以来、私は漫画とスルメイカの大ファンとなった。

天界には下界の書物を置いてある図書館があり、私はそこで漫画を借りて読みふけっている。下界滞在時に漫画を読んでしまうと、もう任務どころではなくなるので自粛している。下界ではスルメイカのみである。天界にはスルメイカは存在しないので、下界のみでの楽しみとなる。

 今回も箱でスルメイカを購入したので、それを片手に稲垣祐一の居場所へと向かう。[行き紙]を取り出し、空いているほうの手で画面に触れて稲垣祐一の居場所を確認する。歩いて十五分程の場所に稲垣祐一は存在しているようなので、歩いて向かう。

 稲垣祐一の住宅は、二階建てのアパートの二階右奥に位置していた。築二十年、いやもっと。かなり古びたアパートだ。借金を背負った者が住みそうな、いかにも、といった造りのボロアパートだ。錆びてしまって赤銅色をしたアパートの階段を一歩一歩登るたびに、かん、かん、と妙に軽快で響く音が鳴る。玄関のドアの前に立ち止まり、チャイムを鳴らす。ピンポーン、ではなく、ビンボーン、と鳴る。チャイムまで貧乏アピールしなくても。少し稲垣祐一に同情しそうな気持ちになった。

 チャイムを鳴らし、少し待ってみたがまったく出てくる気配がない。稲垣祐一は姿を現さない。気配はする。ぼろい玄関のドアの向こう、稲垣祐一は存在している。私は死神だからわかる。[行き紙]も、稲垣祐一が室内にいると通知している。

 稲垣祐一はドアの向こう、自室にいるというのに、出てこようとする意思がないようだ。私がチャイムを鳴らしているというのに、だ。失礼極まりない。私は大変不愉快な気持ちになる。

 仕方なく私は、ドアノブを回す。鍵はかかっていたが、そこはもう、なんせ私は死神だから、ちょいちょいと[行き紙]を操作してやると鍵は開く。ドアノブを回すと、ドアは開く。

「ごめんくださあい」と、大きな声で呼びかけたが稲垣祐一の反応はない。

 室内は暗く、腐った生ゴミの匂いがしていた。玄関から廊下があり、廊下にキッチンが申し訳なさそうに設置されている。奥に狭い部屋がある。部屋の窓は斜光カーテンがかかっており、今は昼間だが、部屋の中は夜だ。稲垣祐一は、暗い部屋の隅にいるようだ。

 私は狭い玄関で靴を脱ぎ、ゴミとゴキブリだらけの狭い通路を進み、八畳ほどの部屋に到着する。壁のボタンを押して電気をつけた。

 足の踏み場がないほどにゴミで埋もれている部屋の片隅に、亀のように布団にくるまっている稲垣祐一の姿が露わになった。

 私は、無理矢理に布団を引っぺがした。そこに丸くうずくまっている白髪混じりの角刈りの男と目が合う。[行き紙]にあったムツミの資料では四十七歳だったはずだが、もっと上、還暦を越えているように見える。おそらく疲れきっている。稲垣祐一は実年齢よりも、かなり老けて見えた。

 布団を引っぺがされて、怯えた目を見せる稲垣祐一の前に屈みこむ。俗に言う、うんこ座りという姿勢になり、上目使いで下を向いたままの稲垣祐一の目をぐいっと覗き込む。

「おたく、稲垣祐一さんで間違いない?」私が聴くと、「人違いです」稲垣祐一は即答した。その答えを聞いた私の目と、口は、しばらく開いたままで、私と稲垣祐一の間に沈黙が流れた。そう来たか、と、私は完全に虚を突かれてしまう。

「うそでしょ」

「いや、ほんと」

「ほんとに稲垣祐一さんじゃないの?」

「はい」

「うそでしょ」

「いや、ほんと」

「いやいや、知ってるんだよ、こっちは。嘘ついちゃっても駄目だからね」

「はて、何を知っているというのでしょうか?」

「いやいや、あなたが稲垣祐一さんだって、知ってるんだからね」

「いやあ、でも稲垣祐一なんて名前、聞いたこともないですから」

「うそ」

「ほんと」

「うそでしょ」

「いや、ほんとですって」

……というやりとりを十五分ほど続けた結果……「はい。すいません。私が稲垣祐一です。すいません。嘘ついちゃって、ほんとすいません」稲垣祐一は、自分が稲垣祐一であると認めた。

「稲垣祐一さん、何で嘘ついちゃったの?」

「いやあ、私、お金、無いですから」へらへら、という表現がよく似合う笑い方をしながら稲垣祐一は言う。その、人をなめきったような笑い方が妙に癪にさわる。おそらく、なめているのではなく、あきらめているのだろう、と思う。稲垣祐一は、人生をあきらめている。そんな笑い方をする。きっと、魂を回収してあげた方が幸せなんだろうな、と思う。

「お金なかったとしても、嘘ついちゃ駄目でしょ」

「すいません。なんか怖かったものですから」

「そっか。怖かったのなら仕方ないな」借金をした者にとって、借金取りという存在がとても怖い存在だということを、神に創られてから五年と一ヶ月が経過した私はよく知っているつもりだ。

何となく、稲垣祐一を眺める。上から下まで。こういう人間の魂を今まで幾度となく回収してきた。指先は所在無く動き、目線も定まらない稲垣祐一を、人間を観察するというよりは、不思議な生物を観察するような趣で眺めている。こういう、人間から不思議な生き物に脱皮しそうな者は、魂回収のリストに乗りやすい。おそらく、きっと、本人も、人間であることをやめたがっているのだろう。事実、肉体から魂を離脱させた時にこういった者達の約半分は、そうか、死んだのか、と安堵の表情を浮かべ、ありがとうございます、と私にお礼を言う。辛い現実を終わらせてくれてどうもありがとう、という意味だ。それ以外の半分は、自分が死んだこともわからないままの状態で、私が問答無用に天界へと連れて行く。

「すいませんが」と稲垣祐一が口を開く。

「何」

「あの、初めてですよね」

初対面という意味だろう。「そうだけど、何?」

「どこの金融の方でしょうか?」

「あ、そうか。そうだよね。まだ名乗ってなかったよね」

脇に挟んだセカンドバッグのジッパーを開けて、名刺を渡す。

「私は、回収に来たんだ」借金じゃなくて魂の、とは口にしない。

 今回の私の下界での格好は、だぼっとした大きめのスーツに派手なシャツ、革靴。ブランド物のセカンドバッグ。黒いサングラスに髪形はオールバック。時代遅れの感じは否めないが、私の服装は、借金取りをイメージしたものだった。

 老眼なのか、稲垣祐一は名刺を持った手をなるべく離して、目を細める。

「氏神金融の田嶋陸生さん、うじがみ、と読むんですか?」

「そうだよ。本当は氏神じゃなくて死神なんだけど」

真実を告げたところで「はあ、そうですか」と、誰も信用しない。

「俺のことは、リクオって呼んでよ」

「あっ、じゃあ、リクオさんで」

「稲垣祐一さんがなかなか借金返さないから、俺のところに回収の依頼がきたんだ」

借金ではなく、魂の。

「あの」と、稲垣祐一が口を挟む。

「何?」

「何でスルメ食べてるんですか?」

「おいしいから」と私は答えた。

何を今さら。稲垣祐一は妙な愚問を口にする。下界に生きて、スルメのおいしさを知らない訳がないだろう。

「はあ」気の無い返事だ。

「稲垣祐一さんも食べる?」

「あ、じゃあいただきます」

「あげないけどね」

別に欲しいわけじゃないよ、といった稲垣祐一の表情がおかしくて、だから私は笑った。

「ところで稲垣祐一さん」

私は、周囲のゴミを手でどかし、開いた空間に腰を下ろして胡坐をかいた。

「はい」

「答えたくなきゃ話さなくてもいいんだけど」

「何でしょう」

「どうして借金したの?」

稲垣祐一が、どんな理由で借金まみれになったのか。そんなことは、正直どうでもいい。そんなことは魂を回収する上で知る必要もないのだが、私は質問した。仕事をきちんとこなすためには、そういう関係のない事柄も知っておいたほうがいいように思うのだ。だから私は、毎回、そういった質問をしている。

 稲垣祐一の目の焦点が一瞬合わなくなり、目線が右に左に所在無く動いた結果、私の膝あたりで落ち着いた。

「実はですね」暗い声のトーンだったが、顔はへらへらと笑っていた。「友人の借金の」急に真顔になる。借金をした経緯を思い出しているように見えた。「保証人になってしまったんですよね」

稲垣祐一は、淡々とした口調で話し始めた。身振り手振りというわけではないが、胸の前で両手を忙しなく動かし、斜め下の一点をずっと見続けながら話し始めた。

強弱のない話し方。細かく動く指先。動かない目線。へらへらした表情。そのアンバランスな稲垣祐一の雰囲気が、これまでの稲垣祐一の大変さを物語っているような気がした。

ここからは、稲垣祐一曰く、の話だ。

数年前まで彼は、ごく平凡なサラリーマンをしていたらしい。妻と娘が一人、三十五年ローンの庭付き一戸建てを購入し、順風満帆とはいかないまでも、そこそこの暮らしをしていた。

仕事は食品会社の営業。中間管理職だったようだ。厳しく辛い仕事だったようだが、稲垣祐一には愛する妻と娘がいた。思春期になっても、父親を邪険に扱うようにはならなかった娘。常に彼の体調を気遣い、夫の立場を立ててくれる妻。決して裕福ではなかったが、幸せだったという。

「残業、残業の毎日でね。いっつも終電ぎりぎりに乗って、疲れて家に帰るとね、でも女房は寝ずに私の帰りを待っていてくれるんですよ」稲垣祐一は嬉しそうに言った。

「『今日どうだった?』『忙しかった?』『お疲れ様』とか言ってくれてね。私の分の晩御飯を温めてくれるんですよ」

へらへらとした表情は、妻と娘の話をするときだけ引き締まり、口角の上がったきりりとした大人の笑顔を覗かせた。おそらく、本来の稲垣祐一の表情だ。すると、またすぐに表情は揺らぎ、唇をぎゅっと力強く結ぶ。そしてまた、へらっと崩れた。様々な感情がうごめき、そして全ての感情が諦めへと向かっている。

稲垣祐一曰く、そんな幸せだった生活はいきなり崩れ落ちることになる。

「中学の時、仲の良かった同級生からね、連絡があったんですよ。『久しぶりだな。今度飲みに行かないか』って」

当然、飲むだけで終わるわけはなく「『会社を立ち上げるんだ。顧客は掴んである。絶対成功する。ただ、先立つものがないんだ』」

そして「『保証人になってくれないか』」稲垣祐一の地獄は始まった。

 ふう、と吐いた稲垣祐一のため息は、深く、濃く、短かった。

 友人の立ち上げた会社は、始めは順調そうに見えた。しかし、見えただけだった。時代の季節は、冬だった。冬の時代。不景気。乗り越えれば春がやってくる。乗り越えることはなかった。桜舞う、明るい季節は目の前だったが、訪れはしなかった。

 友人と連絡がつかなくなったと同時に、借金取りにつきまとわれる生活が始まった。一呼吸、一呼吸をするたびに一つ、また一つ財産はなくなっていった。

 とはいえ、それでも稲垣祐一は諦めなかった。とてつもない額に膨れ上がった借金を、健気に払い続けた。愛する妻と、娘も、腐ることなく稲垣祐一を励まし、サポートし続けた。

 そして、後、一千万円。ついにそこまできた。しかし、そこからが辛かった。

「ないんです。もう、ないんですよ」

養育費、家のローン、借金の利息。払うべきものは垂れ流しの公園の噴水のごとくあるが、払う金は、ない。

 稲垣祐一に、魔が、さした。営業先から支払われた金を己の懐にしまいこみ、借金の利息の返済にあてた。少しの間だけ、間借りするつもりだった。しかし、甘い汁の味は中々忘れられない。人間は辛いより、甘いが好きだ。当然、稲垣祐一も甘いが好きだ。だって、人間だもの。それからは、ちょくちょく、そして頻繁に、会社に支払われるべき金を横領し、借金の返済に、時には自分の娯楽のために費やした。会社から間借りするつもりだった金額は、コップに注がれたビールの泡のようにじょわじょわと溢れ、己の罪悪の心がトイレットペーパーほどの薄さになったころ、稲垣祐一は上司に呼ばれ、解雇を言い渡された。借金は増え、仕事はなくなった。それからすぐに、妻と娘もいなくなった。

 友人。借金。仕事。妻、娘。家。借金の順番だ。稲垣祐一の前から友人がいなくなり、借金が増え、仕事を失い、妻と娘がいなくなり、家も失い、最後には借金だけが残った。

帰りを待ってくれる人のいないボロアパートで、日雇いの仕事をしながら払えない額の借金の利息の一部を支払いながら、死んだように生きている。

「もうね。何もないんです。私には何もない。生きる価値どころか、息を吸う資格すらない。死んだほうがいいんです。死んだほうが、世のため人のためになるんです。すいません。ほんと。ほんとすいません」

稲垣祐一は喋り終えると、顔をくしゃりと歪ませて泣いていた。同情を誘うためだとか、そんな小細工は一切なしの、どうしようもない現状を前に何もできない自分がいかに無価値な人間であるかを悟り、悟った上で解決策がないことも悟り、ただ生きることしかできないから生きている、そんな自分に対しての涙だった。

その涙を流す稲垣祐一を見て、なんと、不覚にも、私の中で感情の高波のようなものが起こり、大きな波となったその感情は、私の両の目に強い勢いで押し寄せてきて、沢山の涙の粒を降らせた。

「なんで」稲垣祐一が言う。「リクオさんが泣いてるんですか」

「うるさい」と、私は稲垣祐一を邪険に扱う。

「すいません」といった声は、途中で頭を垂れるように、しゅんと消えた。

ゴシゴシと瞼をこする。一通り涙を流した後に、無断で稲垣祐一の部屋のティッシュを拝借して鼻をかむ。ずぶうんと音が鳴った。鼻をかんだティッシュは部屋のそのへんに捨てた。スルメイカがしょっぱいのか、涙がしょっぱいのか、もはやわからないほどに私は泣いた。

「リクオさん、借金取りが借金の回収に来て、同情してちゃ駄目でしょう」稲垣祐一は少し笑っていた。

「うるさい」私はなおも横柄な態度で挑む。

「鬼の目にも涙、ってやつですか?」

「うるさい」

稲木祐一は笑っていたが、泣いてもいた。笑いながらも、目に涙を滲ませている。目に溜まった涙が時折、頬を通過していった。稲垣佑一は、その度に涙をぬぐった。悲しいのか嬉しいのか、おそらく両方だ。この男は、久しぶりに人の温かさに触れたのだろう。身の上話に同情して涙を流してくれる親しき者は、おそらく周囲に存在しない。

 私に涙しながら話したことで、心の靄は少し薄れ、私が涙したことにより、稲垣祐一は人の温もりを感じた。残念なのは、私は人間ではなく死神で、鬼の目ならぬ、死神の目、だったわけだが、それは稲垣祐一にとってそれほど深刻な問題でもないだろう。

 この男は、何と悲しいのだろうか。と、私は稲垣祐一に同情する。

真面目で、誠実で、しかし弱く、儚く、脆い。可哀相だ。稲垣佑一は、可哀そうだ、と私は思う。なぜそうなった。なぜこうなった。稲垣祐一は悪いのか? 否、悪くない、と私は思う。善人が報われ、悪人が罰せられる世界ではないことは百も承知だ。稲垣佑一は、懸命に生きていただけなのに、ただ、流れに翻弄されて、知らぬ間に沼へと落ち込んでしまった。稲垣佑一が悪いわけではない。では、誰が悪い? 稲垣佑一の責任でないのなら、誰の責任だ? そんなものは決まっている。

「稲垣さん」

「何でしょう」

「教えて欲しいんだけど」

「はい」

「稲垣祐一さんが保証人になってあげた友人の名前、教えてくれるかな?

「え?」

稲垣祐一は怪訝そうな表情をする。

「だから、名前だよ、名前」

「訊いて、どうするんですか?」

「訊いてから考えるよ」

へらへらとしていた稲垣祐一は、難しそうな顔をして、それから答えた。

「鈴田竜太郎です」

「わかった。あ、それと」危ない忘れるところだった。「ちなみに、稲垣さんの好きな漫画、何?」

「え?」

「漫画、好きな漫画」

「ええと、ジョジョでしょうか」

稲垣祐一は、ジョジョなる漫画についての説明をした。

「特に、第三部がいいですよ。おすすめです」と稲垣佑一は言った。稲垣祐一の説明が興味のある内容だったので、私は頭の片隅にその言葉を記憶させる。今度また天界の図書館で借りよう、と心に誓う。

「ええと、友人の名前は鈴田竜太郎だったね」と、最後に確認をしてから、私は立ち上がり玄関の方に向かう。靴を履いてドアを開け、稲垣祐一の部屋を後にした。後ろから「どうするんですか」という稲垣祐一の声が聞こえたが、無視をした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る