第2話 異界の異形は、底知れぬ

――眩しい。

意識が浮かび上がる。

それでも睡魔に抗えず、目蓋が持ち上がらなかった。

昨日はいつの間にベッドに横になったのだろう? 記憶がない。

ふと、自分の左脇と身体の間に、ふわふわした感触がある事に気が付いた。

すごく滑らかな癒しの手触りに、目蓋を閉じたままで思わず微笑んだ。

ああ、そうか。ここは実家で、手触りの主は飼い猫のチロに違いない。

思い当って安堵した。寝ぼけながらも、チロの丸い背中を手のひらで包むようにすると、囁き声が聞こえてきた。


『……意識を取り戻せたようじゃの。良かったの』


誰……?

問い掛けたくとも、思うように言葉を発せなかった。

微かに唇をわななかせるので、精一杯だ。


『いいか、落ち着いてようよう、聞けよの。そなたの身体は、異形に晒されて弱っておるのよ。思うように動けるようになるまで、今しばらく、かかるよの』


痛々しいの、と気遣う口調はまるで老人だったが、声音は高いソプラノで子供のようだった。全く記憶にない声に、疑問は尽きないが、とにかく耳を傾けた。


『そなたにはワシがついておるからの。心をしっかり保てよの。……よいか、大事なことを言うでよの。お主の名前は、わしが預からせてもらうよの。くれぐれも、鬼神に名を知られぬように、せねば、ならぬぞよ』


噛んで含めるようにゆっくりと、言い聞かされる。


(きしん……って、誰のことかしら?)


浮かぶままの疑問に、声は答えてくれた。


『あの、黒づくめよの。異界の異形は、底知れぬ。まるで見当がつかんのよ。ワシの手に余るよの。まいったのぉ……じゃが、黙っておる気はないからの。今しばらくは、様子見じゃの』


鬼神とは、異界の異形。

初めて耳にした単語が、これほどまでに背筋をざわつかせるなんて、思ってもみなかった。何だろう、ひどく胸騒ぎが起こる言葉だ。

身体が強張る。

そんな美鶴の様子に気付いて、優しい声の主は慌てたように、続けた。


『おお、おお、怖がらせたようじゃの。悪かったの、大丈夫、大丈夫よの』


傍らのチロは身体を擦り付けながら、小さな舌が頬を舐めてくれているようだ。

くすぐったくて、心地よい。

わかりやすい慰めの行為は、やっぱりチロに違いない。そう思った。


『大丈夫、大丈夫じゃからの』


何度も繰り返し、大丈夫だと慰めてもらったのなんて、いつ以来だろうか?


ここは実家だ。

きっと、そうだ。

こんなに安心できる場所は、それ以外に思い浮かばなかった。

本当は、チロはもういない。

実家もだ。

皆、美鶴を置いて、先に逝ってしまった。もう三年も経った。

そう頭では解っているのに、美鶴の心は、ここは故郷だと告げてくる。

きっとこれは、在りし日の記憶を辿っているのだろう。

(夢でもチロにまた会えて嬉しい)

頬を涙が伝った。

それもまた、チロがせっせと舐めとってくれる。


『おお、よしよし。そなたは、よう頑張っておるからの』


安心した美鶴は、再びそっと意識を手放した。

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