第1話 ごきげんよう、異世界の魔女殿
突然、暗闇に覆われた視界に、立ちくらみを覚える。ほんの瞬きの間、視界が揺らいだ。疲労からくる眩暈を覚悟して、迷わず瞳を閉じてやり過ごそうとした。
いくらなんでも、今日は無理をし過ぎたかもしれない。
お客様の予約は重なるもので、朝から施術しっぱなしで、食事も合間にどうにか流し込んでしかいない。
気力だけでやり抜くと、気が抜けるせいか、お客様が帰った後に疲れがどっとくる。
(今度からは食事の時間だけは確保しよう)
そう反省しながら、何度目かになる誓いを立てたが、遅かったようだ。
視界がぐるぐる回る。立っていられなくなるレベルの眩暈に、美鶴は強く目蓋を閉じて、浮遊感が収まるのを待った。
★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
しんと静まり返った場に、コツコツといやに響く足音が近づいてくる。
(足音……?)
マンションの一室ではありえない。違和感に振りかえれば、目を疑った。
真っ先に目に飛び込んできたのは、石造りの壁面だった。
もちろん、見覚えは全くない。
インテリア用の西洋お城風、イミテーションなんてちゃちな石壁ではなく、ガチの石の塊は岩と呼んでも差し支え無さそうだ。
美鶴は石造りの高い壁に囲まれて立ち尽くし、かろうじて蝋燭の明かりで照らされている。
足元も石畳で、じわじわとつま先から体温を奪って行く。スリッパくらいでは太刀打ちできないほど、冷え切った夜の石畳だ。
外国の洒落た路地裏を思わせる石畳に、スリッパというミスマッチ感が、妙にリアルさを突き付けてくる。
まるで映画で見た地下の牢獄のよう。
見知った一室の風景とは、あまりにもかけ離れている。
まるきり理解が追いつかないまま、辺りを見回した。
美鶴はひっと小さく息を呑む。
見上げるほど高い人影が、こちらを見ていた事に、まるで気が付けなかったのだ。
「……誰!?」
用心深く、慎重にと思うのだが、それ以外の言葉が出てこなかった。
得体の知れない男と、いつのまにか対峙しているのだから当然だ。
人影は細身であるが、肩幅と身体のラインから、男性であると見て取れた。
重々しくマントを羽織っており、顔はフードで覆われているため、服装はおろか表情さえ見えない。それでもかろうじて口元だけは窺えた。
真っすぐに引き結ばれた唇は、厚さも血の気も薄い。
足元はきっちりと編み上げられたブーツで、これならさっきの異常なまでに響く靴音にも納得できた。
かろうじて見えている口元が、ゆっくりと笑みの形をとると、声を掛けられた。
「やあ、ようこそお越し下さいました。我らが魔女殿」
「魔女って……もうハロウィンは終わったと思うけど。何のパリピのコスプレ会場ですか?」
美鶴は痛み出した頭に、眉をしかめながら答えた。
「ははは……。何を仰っているのか解りませんね」
乾いた笑いを響かせながら、男がフードを外した。
黒髪がこぼれおち、長い前髪の、その間からこちらを探るような視線を寄越す。
二重のほりが深く、切れ長の瞳は、同じく闇色で、漆黒という表現がぴったりくる。
濃いめの目鼻立ちが、明らかに異国を思わせる。
妙に落ち着き払っているが、思いのほか、若かった。
どことなく、頬やあごのラインに丸みが残っており、成長途中の少年を思わせる。
もしかしたら、自分よりも、年下かもしれないと美鶴は見当つけた。
「さすが、異界からの魔女殿は違う」
しぶとく続く言葉に耳を疑い、次いでこの若者の神経も疑った。
ヤバイ。ヤバイ奴だ。違いない。
誰に言われずとも、本能という部分の警鐘が鳴りやまない。
「ここ、どこ?」
「ここ? ああ、この国はルデ・ナルダ公国になります。只今の国王は、ハーリナム・ルデ・ナルダ14世の御世。魔女殿にはハーリナム14世のご息女であらせられます、ソフィアランテ・ルデ・ナルダ姫様の家庭教師としてお迎えした次第で……。」
「淀みなさすぎない!?」
べらべらと設定を述べる若者に、美鶴は意味不明なツッコみをしてしまった。
だが、怯んでいる場合ではない。
とにかく、この訳の分からない状況に流されてなるものか。
取りあえず、話は鵜呑みにしないのが、社会人としての美鶴のモットーなのである。
数々のトラップ(言った、言わない、行き違い、ドタキャン等もろもろのトラブル)をくぐり抜けてきたおかげで、何にせよ念には念を入れて確認しまくるクセがついている。要は、軽く人間不信であるように思う。
今日はスムーズに事が運ばない日だった。
そういう日は、働いていれば、ままある事なのだ。
誰だってそうだ。そこで腹を立てて全てを放り出せたら、丸く収まるものも収まらない。そう言い聞かせて、今日という日を乗り切った。
だから最後の最後に、こんな訳のわからない仕打ちが待ち受けてるなんて、夢にも思わないとはこのことだろう。
「誰が、魔女……っ……。」
誰が魔女か。
美鶴がそう抗議するよりも早く、唐突に、辺りは闇に包まれていた。
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