第10話 轆轤の井戸 その五
やはり、ただの人間が太刀打ちできるようなものではなかったのか。
さらに絶望するようなことが起こった。
ツァトゥグアの体から、弾丸のように何かが飛ばされてくる。
よく見れば、蝦蟇だ。
体内にめりこんだ蝦蟇が次々、巨体から発射され、龍郎に襲いかかってきた。長い舌で龍郎をとらえようとする。捕まれば、硫酸を体内に流しこまれる。
けんめいに剣をふるった。
無我夢中で赤い舌や、蝦蟇の頭を切り落とす。そのたびに小悪魔たちは青い炎に焼かれたが、ツァトゥグアの体のイボは、一匹の奉仕種族を吐きだしてもすぐにまた新しい蝦蟇が頭を出し、盛りあがった。キリがない。
「龍郎さん! 危ないッ、うしろ!」
青蘭の声を聞き、かえりみると、すぐ真うしろに蝦蟇の顔面が迫っていた。硫酸を吐く舌が目の前にある。
ああ、ダメだ。おれ、ここで死ぬんだ——と、冷たい感覚で龍郎は悟った。
ところが、その瞬間に、黒い影が龍郎の前をよこぎった。肉の焦げる匂いがたちこめる。龍郎は自分がやられたのかと思ったが、違っていた。龍郎の前にとびこんできたものが、身代わりで酸を受けていた。
蝦蟇仙人だ。
一匹だけ着物を着ているから、ハッキリとわかる。
「蝦蟇仙人!」
「い……今のうちじゃ。頼む。わしを自由にしてくれぬか」
どう見ても、蝦蟇仙人はツァトゥグアの奉仕種族だ。ツァトゥグアの体内に埋まってるやつらと同じもの。
おそらく、いつの時代にか、ツァトゥグアの体から吐きだされたあと、この地にとり残され、独自の自我が芽生えたのだろう。
蝦蟇仙人は仲間の酸を浴び、体の半分が焼けただれながらも、自らも酸を吐いて対抗していた。自分の種族に対して、たった一人で反抗している。
しかし、それもつかのまだった。
そのうち、グラリと横倒しになると、そのまま動かなくなる。
「ガマちゃん……」
どこからか清美が現れた。
蝦蟇仙人についてきたのだ。
倒れて動かなくなった蝦蟇仙人を抱きしめ、肩をふるわせる。清美の瞳から涙がこぼれおちた。
龍郎は怒りで頭が爆発しそうだ。
なぜ、こんな小さな生き物一つ、守れなかったのだろうか?
清美の両親の命を奪った邪神に、またもや清美の大切なものを奪われてしまった。
「ゆる……さない。おれは、絶対に、ゆるさない!」
龍郎は自分の右手が燃えるような感覚をおぼえた。そして、左手の薬指からは、ドクドクと力がこみあげてきた。
快楽の玉だ。
共鳴している。
神剣をふりあげると、かつてないほどまぶしく輝き渡った。
ツァトゥグアの攻撃がやむ。光に圧迫されるように、おとなしくなった。
ツァトゥグアの体から放出された奉仕種族は、いっきに浄化された。一陣の煙となって、かき消える。
——龍郎さん。
——ああ。やろう。二人で。
離れているのに、青蘭の心の声が聞こえる。すぐとなりに青蘭がいて、手を重ねているみたいだ。
龍郎は退魔の剣を邪神の腹にぶちこんだ。サクサクと刃はどこまでも進んでいく。切りながら光に分解していく。
邪神は光の粒子となり、青蘭の唇に吸いこまれた。
*
黒雲が消え、明るい空がもどってきた。
白い雲のふわふわ浮いた、優しいベビーブルーの空。
禍々しいものはすべて消滅し、のどかな小鳥の鳴き声さえ聞こえる。
壊れた井戸さえなければ、さっきまでのことは夢だったのかと思える。
「ツァトゥグアを……倒した」
「うん。倒した。あいつはクトゥルフみたいに分身しないから、確実に本物を倒したよ」
龍郎は歓喜のあまり、人目もはばからず、青蘭と抱きあった。しっかり抱きしめると、まださっきの共鳴の余韻を感じる。
そして、青蘭のなかにある快楽の玉の力がまた増したことも、なんとなくわかった。
(いつも邪神や魔王を倒すと、青蘭の口に吸われる。それって、快楽の玉がやつらの力を吸収してるからだ。つまり、魔王クラスのやつを倒すたびに、快楽の玉は強力になるってことか)
今まで、あまりそれについて案じたことがなかったが、それもアンドロマリウスの企みの一環ではないかと思うと、にわかに不安になる。
とにかく、早くアンドロマリウスの計略を阻止するすべを見つけなければ。
龍郎は不安を払拭するために、別の話題をもちだした。
「今度こそ、この村は解放された。もう神隠しも不思議なことも何も起こらない。村の人たちは安心して暮らせる」
「そうだね」
でも、犠牲はあった。
千雪は帰らぬ人となった。
そして、蝦蟇仙人も。
「ありがとう。蝦蟇仙人……」
龍郎はささやきかけたが、とっくに蝦蟇仙人が絶命していることは見てとれた。
清美の流す涙が、とめどなく、蝦蟇仙人の頰を照らす。
青蘭が急に首をかしげた。
「あれっ? ねえ、なんで蝦蟇仙人は浄化されなかったんだろう? ほかの蝦蟇は全部、浄化されたよね?」
神父が答える。
「彼の心が死ぬ前に浄化されていたからだろう。悪魔ではなくなっていた」
そのとおりだ。
蝦蟇仙人には、ただの悪魔とは違う“心”があった。
「清美さん。蝦蟇仙人のお墓を作ってあげよう。次に生まれてくるときは、きっと彼は別の何かとして生まれ変わるよ」
龍郎が肩を叩くと、清美はつぶやいた。
「……わたし、また何もできませんでしたね。おばあちゃんは、わたしに仇をとってこいって言ったけど、けっきょく、わたし、泣いてるだけだった」
「それは違うよ。清美さんがいたから、蝦蟇仙人はおれたちに心をひらいてくれた。蝦蟇仙人が助けてくれたからこそ、おれたちはツァトゥグアを倒せた」
「そう……なのかな? わたしにも悪魔を倒す力があれば、ガマちゃんも死ななくてすんだかもしれないのに」
青蘭が腰に両手をあてて言い放った。
「清美」
「はい?」
「おまえは美味しいプリンを作っていれば、それでいいんだよ。愚民は愚民らしく、悪魔退治は僕たちに任せておけ」
龍郎はあわてたけれど、青蘭の顔を見つめたあと、清美は微笑んだ。たぶん、青蘭の頰が照れたように赤くなっていたからだ。なんとも不器用な慰めかた。それだけに、青蘭の本心がうかがえる。
「そうですね。じゃあ、プリンを食べに、わたしのうちへ帰りましょう」
ようやく、涙も晴れた。
今日の優しい青空のように、澄んだ風が吹いた。
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