第九話 蝦蟇仙人
第9話 蝦蟇仙人 その一
村に瘴気が満ちている。
もう間違いない。
邪神だ。
クトゥルフの邪神の一柱であるツァトゥグアが、この地で目覚めたのだ。
「いいか。降りるぞ。誰もはぐれるな」と、神父が車を路肩に停めると、全員の目を順番に見ながら言った。
「待ってください。穂村さんは運転席側からフレデリックさんについていけば問題ないでしょう。清美さんはおれと青蘭についてきて。でも、そうすると、前部と後部の座席で降りる方向が逆になる」
「まあ、そうだな」
「この村にはツァトゥグアがいます。蝦蟇仙人が言ってた井戸の底の大蝦蟇というのが、おそらく……」
「ツァトゥグアか」
神父のドライビングテクニックは超一流だが、エクソシストとしては邪神を倒せるほどではない。
いや、そもそも人間が退魔できるような代物ではないのだ。できるほうが、おかしい。
「残念だが、私では力不足だな。だが、龍郎くん、青蘭。君たちの援護にまわる」
「そうですね。お願いします」
「ところで、井戸の底というのは、どの井戸のことだ?」
問われて、瞬時に一つの光景が浮かんできた。
庵の裏手の竹林の奥深くにあった、あの井戸。
六郎たちが、かつて住んでいた住居の近くにあった井戸だ。
ひとめ見たときから、とてつもなく禍々しい邪気を放っていた。
龍郎はその場所を説明した。
「ここから言えば、ちょうど、まっすぐ北です。山裾の近くまで行ったあたり。六郎神社から言えば東」
「なるほど。もしも、はぐれたら、その場所で集合だ」
「はい」
村の北側だから、ほんとなら運転席と同じ側から出たほうがいい。が、あいにく、龍郎が助手席側のうしろに座っていた。清美をまっさきに車外へ出すわけにはいかないので、龍郎から降りる。
「おれは青蘭の手をにぎってるから、青蘭は清美さんの手をつかんでて。絶対に手を離さないように。外へ出たら、おれと青蘭が前になる。清美さんはおれか青蘭の服をにぎって、ついてきてください」
「うん。わかった」
「わかりました」
清美がまじめで気持ちが悪い。
ムリもない。
両親を残酷な方法で殺害した相手がすぐ近くにいるのだ。龍郎だって、清美の立場なら怒りにふるえる。
慎重にドアをあけ、車道に降りたつ。
ほぼ無限と言っていいほどの亡者が、ぞろぞろと歩いていた。何を目的に、どこへ向かっているのかもわからないが、気をつけないと波に飲まれそうだ。
龍郎は悪魔退治のなかでも、とくに霊体の調伏に特化している。そのせいだろう。外に出た瞬間から、じっさいに生者とぶつかるように、衝突時に物理作用が働いた。端的に言うと、亡者たちの進む方向に押し流されていく。
「龍郎さん。向こうの熊退治したときの細道に入ろう。あっちには亡者が少ないみたいだ」
青蘭に言われて、チラリとそっちを見る。たしかに六地蔵のよこから雑木林のなかへ入っていく脇道には、チラホラとしか亡者が見えない。そっちなら押し流されることはない。
ジリジリと流される力を逆に利用して、自動車の真うしろにまで下がった。車が霊体をよける奔流のなかの岩のようになってくれた。そこに、龍郎、青蘭、清美の三人が入りこむ、
「フレデリックさんと先生は?」
「姿が見えないよ」
「流されたかな?」
「それか、さきに脇道に入ったか。二人は運転席側だったから、僕たちより脇道に近かった」
「そうだな」
それにしても、すごい数の亡者だ。
何千何万といる。次々にどこからか湧きだして、絶えることがない。
昼なのに空は暗雲に覆われ、黒雲が大きな渦となって、たちこめている。異様だ。渦の中心には細い竜巻が発生しかけている。そして、その竜巻の位置は、ちょうどあの井戸があるあたりだ。
(ツァトゥグアの姿は……まだ見えない。でも、いるはずだ。もしかすると、あの井戸の底か?)
ながめていると、竜巻がだんだん大きくなっていく。
自然現象ではないだろう。
ゲートがひらかれた影響だ。
急がなければ、もっともっと悪いことが起こりそうな予感がする。
こうなれば、亡者を浄化しながら進んでいくしかない。
龍郎がそう決心したときだ。
「龍郎さん。青蘭さん。あそこ、見てください!」
清美が前方をさして叫んだ。
停車した車体のななめ前十メートルほどのところだ。何かが倒れている。そして、亡者にふまれ、もみくちゃにされ、そのたびにギュウギュウと鳴いている。動物だろうかと龍郎は思ったが、亡者の灰色の足のあいだから、水かきのある手が見えた。
「えーと……カッパ?」
「ガマちゃんです!」
「ああ」
「お願いです。ガマちゃんを助けてあげてください」
龍郎は青蘭と目を見かわした。
(どうする? 清美さんは、ああ言ってるけど)
(ガマガエルなんて、ほっとこうよ。ガマは可愛くないんだから!)
(いや、そうは言ってもさ)
恋人だからこそできるアイコンタクトで語っているうちに、清美がすっくと立ちあがった。
「いいです。わたしが行きます!」
「待ってくれよ。清美さん!」
龍郎がひきとめるのも聞かず、清美が走りだした。
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