第8話 痣人神社縁起 その五
龍郎の胸は異様にさわいだ。
愛しい人はたったいま、自分の腕のなかにいるはずなのに、さみしげな瞳のもう一人の青蘭が、救いを求めるように龍郎を見ていた。
あの千年の孤独に囚われたような暗い翳りは、初めて出会ったころに、青蘭に感じたものだ。あたりの景色を澄んだブルーにぬりかえてしまいそうな、深いメランコリー。
たまらなくなって、龍郎は腕のなかの青蘭を強く抱きしめた。
青蘭は嬉しげに龍郎の背中に手をまわしてくる。青蘭には、さっきのアレは見えなかったのか。
しかし、それどころじゃない。
亡者の群れが、こっちに向かって押しよせてきた。
「うわわ。来たぞ。どうするんだ? 君たちがやっつけてくれるのか?」
穂村が泣き笑いのような声で、「ひひひ」と笑いながらわめく。
神父は沈着だ。
「あれだけの数となると、ふつうのエクソシストじゃどうにもならないな。龍郎くんと青蘭なら、力をあわせれば、なんとか退魔できるんじゃないか?」
「バカなこと言わないでください。地獄の亡者なんですよね? こいつらを浄化したって、すぐにまたウジャウジャやってきますよ?」
「それはそうだな。じゃあ、行くか? 亡者を何人、
神父が聖職者とは思えない不謹慎な笑みを刻み、アクセルをふみこんだ。車体がまっすぐ、亡者の大群につっこんでいく。
「うわうわうわ」
「きゃあーッ!」
穂村や清美の悲鳴を聞きながら、龍郎は無言で前方をにらんでいた。
亡者を車で轢いたらどうなるのかわからなかったからだ。龍郎たちのように、霊体にふれることができれば、案外、ぶつかったときに、こっちにも衝撃があるんじゃないかと思った。
まもなく、亡者の先頭と衝突する。
スピードは時速百キロは出ていただろう。さすが高級車だけあって、性能がいい。龍郎の軽自動車では、ちょっとアクセルをふんだだけで、こんなに急発進はできない。
やがて、ぶつかった。
衝撃は——
(あれ……? なんとも、ない?)
衝突の感覚はなかった。
しかし、車は止まった。
無意識に目を閉じていたようだ。
龍郎が目をあけると、神父が吐息をついている。
「フレデリックさん?」
「相手は霊的な存在だから、物理的に轢くことはないみたいだ。ただし、これじゃ前に進めない」
神父が外国人らしい大仰な手ぶりで示す窓の外を見て納得する。ガラス窓のすべてのすきまを覆うように、ビッチリと亡者の群れが自動車をかこんでいる。これでは外が見えない。カーブの多い山道を目隠し運転で前進するのは危険すぎる。
「どうしますか?」
「ここで車を降りて、戦うしかないんじゃないか?」
「ですよね」
亡者たちは山道をくだりながら移動はしているようだ。が、数が多すぎて、車体のまわりからお化けが途絶えることがない。亡者の作る濃霧のなかにハマりこんでしまった。
「穂村先生と清美さんは、ここで待っててください。清美さんは何かあれば、ショゴスに命令して」
そう言いすてて、龍郎はドアをあけようとした。が、そのときだ。
ふいに龍郎は、ある気配を感じた。
清美の家のまわりで何かに見られているような気がした。あの視線だ。
(誰か、いる? 誰かというか、これは……?)
亡者ではない。
もっと清澄な空気だ。
言わば、神獣のような。
神域と同じような侵しがたい冷気を発している。
声が聞こえた。
——行きなさい。今こそ、この地にとどめられた多くの魂を救うときです。
あッと叫んだのは、清美だ。
「おばあちゃん!」
そうだ。この声、覚えがある。
以前、一度だけ話を聞いた。
そのときにはすでに、その人は
青蘭と清美の祖母、聖子だ。
——この地に残る、わたしのわずかな名残が、あなたがたを導きます。行きなさい。清美。そして、あなたの父母の仇を討ちなさい。
光を帯びた一陣の風が吹いた。
あいかわらず外には亡者が群れつどっていたが、その風が道を描きだす。それは山腹の車道をクリスマスのイルミネーションのように明るく照らしだした。
「行けるぞ! しっかりつかまってろ」
神父の声と同時に車が猛スピードで走りだした。時速百キロどころじゃない。へたをすると、その倍近く出ているのではないだろうか? もしも、ガードレールをつっきって谷底へ落ちたら一巻の終わりだ。
右に左にふられながら、龍郎たちはシートに体を押しつけ、歯を食いしばっていた。
行きは一時間近くもかかった道のりが、今は半分以下の二十分ほどで、ふたたび六路村の前まで辿りついた。あの六地蔵が立つあたりだ。
そこまで来て、しだいに光の風が薄れた。聖子の領域から離れてしまったのだ。かすれるような思念の声が、かすかに告げる。
——さあ、行って……今のあなたたちなら、きっと……。
やがて、光は完全に消えた。
「しかたない。今度こそ歩いていくしかない。青蘭、清美さん」
龍郎は声をかけたが、清美が何やら硬い表情をしている。
「清美さん?」
すると、清美はふだんとは別人のように真剣な声をしぼりだした。
「おばあちゃん、言いましたね。父母の仇をとりなさいって。それって、つまり、アイツがいるってことですよね?」
龍郎はハッとした。
たしかに、そうだ。
ここに、やつがいる。
しかも、そう考えれば、この
(アイツがいる。清美さんの家族を殺したやつ——ツァトゥグアが!)
了
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