第4話 人喰い熊 その三
*
夜が明けた。
熊吉が実家に帰ったとき、そこに待っている人は誰もいなかった。
外になげっぱなしだった祖母の遺体はもちろん、母も、二人の姉も人喰い熊に殺され、喰い荒らされていた。
今まさに母の腹に首をつっこんで、はらわたをむさぼる熊を見て、熊吉は怒りに我を忘れた。
背後から近寄り、熊の頭に思いっきり手斧を叩きこんだ。
熊は雄叫びをあげて反撃してきた。ふらふらしながら、爪をふりおろしてくる。
一瞬、胸が熱くなった。焼けるような痛みが広がった。それでも、とびつくようにして、熊の首に斧をふるった。何度も。何度も。
「よくも、よくも……母ちゃんを……姉ちゃんたちを。ばあちゃんを。死ね! 死ね! 死ねェーッ!」
死闘だった。
そのうち、熊は倒れた。
でも、熊吉も
あーあ、これじゃ今年の冬は越せないなぁと、おぼろに思う。
どうして、おれは死ぬんだろう?
熊のように大きく強い男になれと、熊吉と名付けられた。でも、本物の熊にはなれなかった。しょせんは、ひよわな人間だ。
おれも熊に生まれてくればよかったなぁ。もっと大きく、もっと強く。そしたら、家族も守れたし、獲物もとれたし、あの憎らしい叔父なんか、ひとひねりにできたのに。
チクショウ。死にたくない。
一度でいいから、腹いっぱい食いたかった。こんな腹ペコのまま死ぬのは嫌だ。
飯が食いてえ。白い飯が。
鴨の肉はうまかったっけな。
じいちゃんが生きてたころは肉が食えた。おれがもっと、じいちゃんにちゃんと猟を習っとけば、こんなことには……。
チクショウ。あの熊公。母ちゃんの肉を食いやがって。
おれも肉が食いてえ。
おれも熊になりてえ。
おれも、熊に……。
トロトロと命の流れていく音を聞いた。
もう何も考えられない。
熊吉の十四年の生涯は、そこで終わった。
終わった、はずだった。
気がつけば、餓えていた。
目の前には肉があった。
自分を殺した熊の肉と、柔らかい女の肉が。
こんな腹ペコで死ねない。
腹いっぱいになるまで死ねない。
だから、喰うことにした。
*
龍郎が目をあけると、そこは薄暗い土間だった。囲炉裏のある板の間が一つあるだけの貧しい家のなかだ。起きあがろうとするが、体が痺れて動かない。
その板の間に、ソイツがいた。
貪食だ。熊のような人間のような、熊と人間が合体したような異様な姿の人喰い。
貪食は青蘭を囲炉裏のそばに寝かせて、
青蘭を喰うつもりだ。
グ、グ、グ、と喉の奥から変な音を発する。
「グ……ググ……きれ……これ、喰えば、腹いっぱい……」
青蘭は気を失っているようだ。
が、貪食のヨダレが頰にかかり、うーんとうなると、目をあけた。自分の現状を見て息を呑む。起きあがって、あとずさろうとすると、貪食が両手で押さえこんだ。
「きれいな肉……喰う」
ざらりと長い舌が、青蘭の白い肌を這う。
カッとなって、龍郎は叫ぶ。
「やめろッ! 熊吉!」
名前を呼ばれると、熊吉はその瞬間、ビクッと体をこわばらせた。自分の名前を、まだどこかで覚えているのだ。
「熊吉。おまえは熊じゃない。人間だ。そうだろ?」
熊吉は硬直したまま、グルグルと獣のように喉を鳴らしている。
なんとか改心してくれないかと願ったが、ゆっくり肩ごしに龍郎をかえりみた目つきは、やはりギラギラ光る野獣の双眸だ。
「おれ、熊……母ちゃんの肉、食った。姉ちゃんも。うまかった。でも、満腹ならない。叔父も食った。叔父とこの従姉妹も。うまかった。でも、まだ足りない……」
「人の肉を食っても餓えはやまないよ」
「肉が食いてえ……肉……女の肉……この人間、今まで見たことない……きれい。食ったら、腹いっぱい……」
話してもムダだ。
やはり、それはもう人ではない。
永遠につきない飢餓感に脳髄の芯まで支配された、貪食の悪魔にすぎないのだ。
龍郎はよろめきながら立ちあがった。右手に力をこめる。すっと青い炎が上がり、ゆるゆると刀剣が形をとる。
そのときだ。
ワンワンと激しく吠える声が聞こえ、どこからか一匹の芝犬が現れた。
あの犬だ。
午前中、龍郎たちのあとをついてきた人なつこい犬。
芝犬はまっすぐ貪食めがけて、とびついていく。その喉笛にかみついた。
犬は熊の天敵だ。
貪食の動きが鈍る。
すかさず、龍郎は上がり框をかけあがり、退魔の剣をふるった。
醜悪な貪食の巨体が白い光に焼かれる。ボロボロと熊の毛皮が崩れおちた。
すると——
「……太郎? 太郎か? 助けにきてくれたのか?」
つぎはぎだらけのすりきれた着物を着た少年の姿が、うっすらと光のなかに浮かぶ。
芝犬は尻尾をふって、少年にすりよった。
「太郎。おいで。いっしょに行こう」
くんくんと鼻を鳴らす太郎を抱いて、少年は微笑みながら消えていった。
*
少年が消えると、いつのまにか、まわりの景色が荒廃していた。屋根には大きな穴があいている。熊吉の結界が消滅したのだ。
(熊吉。君は勇敢だった。あの恐ろしい熊に、たった一人で立ち向かい、やっつけたんだから)
でも、飢えや死ななければならない無念さや、叔父に裏切られた悔しさや、いろんな思いがこみあげて、悪魔になってしまったのだろう。
これでようやく、熊吉も安らかに眠れる。村の若い女が神隠しにあうこともなくなるだろう。
「青蘭」
全裸で倒れている青蘭を抱きしめる。
青蘭の反応がないので心配した。
「青蘭? 大丈夫?」
再三、呼びかけると、やっと、ちろりと龍郎を流し見る。
「どうしよう。龍郎さん」
「ケガしたの?」
「そうじゃなくて……」
熱っぽくうるんだ瞳で龍郎を見つめてくる。
「えっ、まさか?」
「うん。来て……」
龍郎の目の前で服を奪われ、喰われそうになって、気分が高揚してしまったらしい。
「ここで?」
「うん。ここで」
「それは、さすがに……いつ崩れるかわからないし」
「じゃあ、外までつれていって」
「うん」
お姫様だっこでつれだした。
たまには大自然のふところに抱かれるのも悪くない——と、龍郎は思った。
了
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