第4話 人喰い熊 その二
龍郎が気づいたときには、あたりに青蘭の姿はなかった。熊もいない。
「青蘭……」
周囲を見まわすが、目につくところに恋人はいない。まさか、熊にさらわれたのか?
「青蘭! 青蘭、どこだッ?」
返事もなかった。
龍郎は立ちあがった。
肩口は痛むが、怪我をしているふうではない。
さっきの棒きれをひろって、廃屋をめざす。あの熊型の貪食は廃屋にひそんでいた。きっと、あそこがアイツの寝ぐらだ。
「青蘭!」
扉はとっくになくなっている。
その台形に歪んだ戸口を、頭をかがめながらふみこんだ。
すると、濃密な暗闇のなかに落ちていく。
落下感——
*
家のなかには年老いて、いつもすみっこで小さく丸く正座している祖母と、藁を編んで
囲炉裏に火は入っているが、煮炊き用の鍋はカラのままだ。今日も一日一食。薄いヒエの粥が一杯。冬が終わるまでは、この調子なのだろう。春にさえなれば、父が米を買って帰ってくるはず。
育ち盛りの熊吉の腹は、いつもグウグウ鳴っている。
冬は嫌いだ。春なら野にツクシやゼンマイや
冬は外に出ても何も見つからないし、熊吉はまだウサギやタヌキを狩れるほどには大きくない。
祖父が生きていたころはよかった。猟に出て、毎日とはいかなくても、たまには獣をしとめることができた。そんな日はご馳走だ。鳥肉や鹿でも手に入れれば、それから数日、たらふく肉が食えた。
また肉が食いてえな、と熊吉は思った。
一生に一回でいいから、もうこれっきり食えねぇってほど腹いっぱいになってみたい。
こんな貧しい炭焼きの家族に生まれたからには、そんなことはめったにないだろうが。
ぐううっと、また腹が鳴る。
ギュッ、ギュッと、重たいものが新雪をふむ、かすかな足音に。
ギョッとして、熊吉は明かりとりの小さな窓に目をあてた。
家の外を熊が歩いている。
なんで、この時期に熊が外をうろついているのだろうか。まだ冬眠していなかったのか?
「母ちゃん。外に熊がおる。食いもんを探してる」
あわてて母も外をのぞいた。
母の顔がみるみる青ざめていくのを、熊吉はながめた。
「熊吉。ありゃ、若い雄の熊だよ。今年、独り立ちしたばっかりかもしれんね。ナワバリ争いに負けて、寝ぐらが見つからんのか」
「襲ってくるかな?」
「くるかもしれん。今日は誰も外に出んようにな」
玄関の引戸につっかい棒をかけて、熊のようすをうかがった。熊はそこに食い物があることを知っているようで、家のまわりをいつまでもウロウロしている。
そのまま、数日がすぎた。
一家は困りはてていた。
熊が大きな音を嫌うので、鍋を叩いて撃退しても、それは一時的なものだ。そのすきに便所に行ったり、水をくんできたりはできるが、じきにまた帰ってくる。家のなかに備蓄した、わずかなアワやヒエ、大根や玉ねぎや芋の匂いのせいだろう。
冬が終わるまで、このままずっと熊につきまとわれているのだろうかと、一家は全員、神経をとがらせた。いつ、熊が本気になって襲ってくるかもわからない。
こんなことなら、じいが死んだときに、猟犬の太郎を親戚に譲らなければよかったと、熊吉は思った。父ちゃんは猟がヘタだから、猟犬は必要ない、毎日エサをやるゆとりもないからと、父が叔父の家に譲ったのだ。
太郎はとても勇敢な犬だった。太郎がいてくれれば、きっと熊だって追いはらってくれたはずだ。
だが、言ったところで、今、ここに太郎はいない。自分たちで、なんとかするほかない。
戦々恐々としながら、一家は冬をすごした。ある日、ついに恐れていたことが起こった。熊吉や母や姉は若いから、熊がいないすきを見計らって便所にも行ける。しかし、年老いた祖母はそうもいかない。まだ便所にいるうちに熊が帰ってきた。そして、外に出たところで、鉢合わせしてしまったのだ。
「あッ! ばあちゃんが!」
熊のほうも驚いたのだろう。
本来、熊は臆病だと、祖父が言っていた。だから野山でも人間と出くわさないように、向こうからさけてくれる。よほど食い物に困ってなければ、熊が人間のまわりをうろつくなんてことはない。
だが、出会い頭に人間と遭遇した熊は、いきりたって祖母を襲った。足腰の弱った祖母にどうしようがあったろうか。無抵抗で熊につきころがされる。
「やめろッ! こいつ、やめろッ!」
熊吉は鍋を
熊は逃げだしていった。
しかし、そのときにはもう祖母は死んでいた。腹を喰い裂かれていた。雪の上に鮮血がとびちっていた。
熊吉の全身がガタガタとふるえた。
熊の力の凄まじさをまのあたりにして、恐怖で足がすくんだ。
「熊吉。戻ってこい! おまえも喰われるぞ」
母の声で我に返った。
あわてて家のなかにとびこむ。
「ど、どうしよう……ばあちゃんが喰われた」
すると、母は長いこと考えこんだ。
やがて重大な決意を秘めた顔で口をひらく。
「熊吉。あいつは人喰いになった。人喰い熊はもう人間を恐れない。何度でも襲ってくるよ。あんた、叔父さんの家に助けを求めに行きなさい。あんたが一番、足が速い。叔父さんなら猟銃を持ってる。それに、太郎もおる」
「今から叔父さんの家まで行ったら夜になってしまう。戻れば明日の朝だ」
「でも、それしかないよ。このままじゃ、一人ずつ、あいつに喰われていくのを待つばっかりだ」
「……わかった」
熊吉は用心のために薪割のための
雪の積もった山中を休まず駆けた。日が暮れると、ますます心細くなった。
熊はつけてきていないか? 猪だって、出会えば充分に恐ろしい。
それでも、ただ家族のことを思って駆けとおした。
なのに——
「何? 熊? 熊がこの時期に出歩いてるものか。嘘なんかついて、どうする気だ? おまえの親父も嘘つきだが、おまえもやっぱり親父と同じ嘘つきだな」
叔父は以前、父が金を貸してくれなかったことを根に持って、助けてくれなかった。
「じゃあ、せめて、太郎を返してください。太郎がいれば、熊を追いはらえる」
「バカなこと言うな! 太郎はもう、うちの犬だ。誰が毎日、エサをやってると思ってるんだ。おまえらは勝手なことばっかり言いやがって。帰れ、帰れ! 二度と来るな!」
叔父の家を叩きだされてしまった。
くうん、くうんと、太郎は悲しげに鳴いていたが、叔父は太郎の縄をほどかない。
しかたなく、熊吉は山道を折り返した。母と姉が待っているはずの家へと——
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