第三章 Princess in Black ―― 女公爵の翳り

第三章 1 探しもの

 その日は結局森に入ることはできなかった。


 朝から降りだした雨がどんどん激しくなり、川面が白く粒立つほどになった。

 初冬によくある〝しぐれ〟というものらしい。

 このまま降りつづくと川が増水し、城門の一部が崩れかねないとわかり、そちらの補強作業を急ぐ必要があったのだ。

 それに、こんな荒天をついて不案内な深い山に分け入るのは危険でもあった。


 ゴドフロアには、そうなったらそうなったで休息しているひまはなく、積極的に協力してくれるようになった町民や兵士たちに立ち混じり、防御柵の設置や物見台の建造を指揮するのに忙しく働かなければならなかった。

 そんな作業にはあたしはぜんぜん役に立たないし、敵は敗走したばかりでしばらくは見張りに立つ必要もない。

 子どもには作業現場は危険だからと、城門付近に近づくことすら禁じられてしまった。


 そういうわけで、することもなく、宿代わりに使っているガランとした塩の貯蔵庫の二階の窓から、一人でぼんやりと外を眺めていた。


 カンカンと景気のいい槌音が街じゅうに響きわたり、重い木材を持ち上げる威勢のいい掛け声が聞こえてくる。

 そういうものに人はどうしても引きつけられるものらしく、降りしきる雨の中でも雨ガッパをかぶったりして見物している人影がちらほら見える。

 あたしと同じように窓から身を乗り出して眺めている人もいる。

 出稼ぎや流れ者の労働者の多い街だから、子どもや老人はほんのわずかだ。

 そうやって見物しているのは、たいがい女たちだった。


(そうだ――)

 思い立つと、じっとしていられなくなってすぐに外に出た。

 裏通りや細い小路にはまったくひと気がなく、雨だれの音だけがしている。

(男の声が聞こえるとしたら、それは……)


 最初あたしは、一軒一軒窓からそっとのぞいたり、戸に耳を当てたりしながら人の気配を探っていった。

 そのうち、家族者が住むような家は見込みがなさそうだと見切りをつけ、街のあちこちにいくつかある人足たちの宿舎へ向かった。


 製塩作業の再開が認められたが、雨天では仕事にならず、城門に手伝いに行けば日当をもらえるということもあって、人足たちもすっかり出はらっていた。

 扉はどこも不用心に開けっぱなしで、何の苦労もなく入り込めた。

 やたらに衣服が脱ぎ散らかしてあり、汚れた食器がテーブルのあちこちに放置されていたりして、すえたようなひどい臭いが充満している。

 そんなのは傭兵たちで慣れっこになっているが、ここでは壁や床にまで染みついていて、とても長居する気にはなれない。

(こんなところにいるわけないな)


 家族者の住宅ではないと判断したのは、あの男には決まった住居や家族など似つかわしくないと直感したからだった。

 でも、考えてみれば、額に汗して働くなんていうのはもっとありえそうにないことだ。

 だからこそ、男たちがほとんど不在のこのときを見はからって探しに出たのだった。

 あたしは自分のまぬけさに気づき、頭をコチンと小突いて無人の宿舎を後にした。


 宿屋を兼ねた酒場は街で唯一の四階建ての大きな建物だった。

 地下室もあって、そこにゴドフロアを捕らえたことのある男が潜伏していたのだ。

 酒場の上階は客室になっているにちがいない。

 けど、宿泊客だとも思えなかった。


 建物の狭い隙間に入り込んでいくと、厨房の窓からいい匂いが漂い、城門で働いている者たちに出す食事の準備でおおわらわのようすが伝わってきた。

 その奥は主人一家の住まいだろうと見当をつけたとおり、遊んでいる子どもの声がした。

 裏手に回り、いちばん奥まった部屋の高い窓に飛びついた。


 そこは物置きらしく、雑多なものが積み上げられていたが、一方の壁際に片寄せて粗末なベッドが置かれている。

 壁のフックには、年季の入った肩掛けの革カバンや実用的とは思えない大きな三角帽が掛かっていて、あのヒラヒラした女物みたいな服もあった。

 やっぱり、男は酒場で歌をうたうような仕事をしているにちがいない。


(やっとみつけた!)

 胸がギュッと締めつけられるような感情が込み上げてくる。

 しかし、そこにも探していた男の姿はなかった。

 考えよう。よく考えてみるんだ……

 あたしは精神を集中して、記憶の中に必死に手がかりを探った。


 生まれたときの草原の光景は、ありありと憶えている。

 そう、あの革カバンを下げている姿も記憶にある。

 誕生したばかりのあたしを見て驚く大きな眼――。

 城門が炎上したときも、ちょうどあれと同じ、クルクルとよく動く眼をしてあたしのほうを見つめていた。

 炎に照らし出された、ふわふわした巻き毛と呆然とした表情も眼に浮かぶ。


(そうだ、手に持ってたのは楽器だった――)

 そう思い当たったせいだろうか、降りしきる雨が激しく地面をたたく音に混じって、空中を漂っているようなかすかな音が聞こえた気がした。


 あたしは迷わずひさしに飛びつき、物干しざおや窓わくを足がかりにして登りはじめた。

 上に行くにつれ、心地よい音と音の断片がだんだんとつながり、心に染み入るようなきれいな調べになっていく。

 隣の屋根にはい上がると、身を伏せて音のしているところを探した。


 そこは酒場の四階だった。

 どの窓にも明るい色や花柄のカーテンが下がっている。

 酒場で働く女たちの部屋なのにちがいない。

 音は、ひとつだけ半開きになっている窓からもれてきていた。

 そちらへそっと移動していくと、カーテンの隙間からベッドにもたれて楽器をつま弾いている若い男が見えた。


「……あなたは城門に働きにいかないの? 現場で働くことになった多勢の人たちが酒場に集まって、酒も料理も景気よく飛ぶように売れるだろうけど、傭兵や北方の騎馬兵なんかがあなたの歌を聞きたがるとは思えないわ」

 女の声も聞こえてきたけど、ここからではその姿は見えない。


「そりゃそうだろうね。ぼくの極上の演奏も歌声も、あんな下品で荒っぽい連中のためのものじゃない。たとえ店主に頼まれたって店に顔を出すつもりはないさ」

「だったらどうやって食べていくのよ。わたしだって助けてあげるのは限界があるし、あなたを独占してるって、ほかの女の子たちにうらまれるのもイヤよ」

「なら、毎晩別の子のところを泊まり歩くことにするよ。きみがそれでかまわないなら」

「もう。いじわるねっ」

 髪の長い娘が男の上にのしかかっていくのが見え、あたしはあわてて眼をそらした。

 女の上半身は裸だったのだ。


 しばらくしてまた会話が聞こえてきた。

 あたしは首を引っこめて声だけに集中した。

「……たしかにあなたには肉体労働なんて似合わないわ。けど、それだけが理由じゃないんでしょ? わかるわよ、城門が落ちた夜からずっと、酒場へはおろか一歩も外に出てないし、真っ暗な顔をしてふさぎこんだままじゃない。あいつらがそんなに怖いの?」


「ま、まさか……」

「わかった。あの背が高くて丸刈りの、凶暴そうな男でしょ。店で演奏してたとき、あなたが窓際のあの男のほうをチラチラうかがっているのがわかったわ。あなたの眼はけっして嘘をつけるようにはできてないのよ」

「ちがうよ、ちがう。あいつじゃない。……いや、最初はあいつが怖かった。ぼくが旅で出会ってきた中で、いちばん恐ろしい相手かもしれないんだ。でも、だんだんわかってきた。ぼくが恐れているのは、本当はちがうんだって……」


「じゃあ、あいつがいつも横にくっついてるとんでもない大男のほう? でも、あの男はかわいい子どもを背中のカゴに乗せていっしょに連れてるわ。かわいがってるようにはとても見えないけど、きっと根は優しい人なのよ」

「そう、女の子を……ね。実を言うと、ぼくは本気であの子の父親になってもいいって思ったことがあるんだ。けど、生まれたとたんに離ればなれになってしまった。そして、ぼくはそのときの気持ちをふっ切れず、心のどこかにわだかまるものをずっと抱えて生きてきた。その上、そんなぼくを励まして、頼りにしてくれた人さえ裏切って逃げ出したんだよ」


「まあ、そんな過去があったの?」

「ぼくはいつもそうさ。ためらったり、さけたりしてるうちに、大切なものがどんどんぼくの手の届かないところに行ってしまう。ぼくの人生は後悔ばかりなんだ……」

 男がしょんぼりした声でつぶやく。

「でも、この街でもう一度やり直そうって思ったんでしょ」

「ああ。ここにたどり着いて、いやなことはすっかり忘れてしまえると思っていたんだよ。そしたら、なんと……。あの男と女の子が突然眼の前に現れた。ぼくは戸惑ったよ。あの子の顔をまっすぐ見ることができないんだ。そうなると、大男のほうもきっと、責めるような眼をしてぼくを見つめてくる気がする。あの二人のけっして切れないきずなみたいなものを見せつけられるたびに、今さらぼくなんかがしゃしゃり出ていく資格はどこにもないんだって思えてくるんだ。ああ、いったいどうしたらいいんだろう……」


 あたしがおそるおそる視線を元にもどすと、男が巻き毛の頭を両手で抱えてうつむいたところだった。

「なんだ、またふさぎこんじゃったの。あたしじゃ、どうにもしてあげられそうにないわね。愚痴くらいなら聞いてあげるから、またいらっしゃい」

 女は男に背を向け、大きな乳房を揺らしながら視界から消えた。

「ああ、そうさせてもらうさ……」

 すねたように言う男の声は、消え入るようにか細かった。


 彼らに気づかれないように、あたしはそっと反対側の壁を伝いおりた。

 彼は、ゴドフロアとはまるで正反対のように弱々しく、意気地のない男に見えた。

 その姿は、抱えこんだ悩みの大きさ以外に他人に誇れるようなものをいっさい持っていない、そんな皮肉な存在にさえ思えた。


 だけど、あたしにははっきりとわかった。

 あれはまちがいなく『ステファン』だ。

 そして、オヤジには一度として感じたことのない気持ちだけれども、あの人の栗色の巻き毛をギュッと抱きしめ、思いきり泣かせてあげたいと思った。


 北方王国のフィオナは、ふさぎこんだステファンを救うことができずにとうとう去られてしまったという。

 今いっしょにいる酒場の女の子にもきっと無理だろう。

(だけど、あたしにならできる。だって、あたしは……あの人の娘なんだ!)

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