第二章 5 従士トマ

 山岳地帯に踏み込んでからすでに丸二日が経過した。


 新しく切り開かれた街道は険しい登り下りのくり返しで、荷馬車がやっとすれ違えるほどの道幅しかない。

 切れ目なくつづく隊列はあちこちで渋滞を起こし、行程は遅々としてはかどらなかった。


 マレンガとガムディアの間で戦闘が本格化するまで、ほとんど猶予がないことはわかりきっていた。

 派遣軍の首脳たちは、山越えの道中で野営することをとうとう断念し、各軍が交替で小休止を取りながら一気に山脈を踏破してしまうことにしたらしい。

 すでに真夜中を過ぎているはずだが、行軍の音は絶えることなく続いている。


 エルンファードは雨と暗闇に閉ざされた眠気を誘うような単調な騎行をつづけ、グランディル沿いの小国であるラホール軍の横をすり抜けようとしてた。

 すると、隊列をふらりと離れた一騎が、エルンファードの背後にピタリとついた。

 すぐ横は漆黒の絶壁だ。軽く突かれただけで谷底まで真っ逆さまに転落してしまうだろう。

 エルンファードは、とっさに鞍にくくりつけた短剣に手を伸ばした。


「おっと、やめてくださいよ。おれです」

 相手が笑いを含んだ小声でささやいた。

「なんだ、トマか。こっそりおれの背後に忍び寄るほうが悪いんだ。しかも、そのマントはラホール軍のものじゃないか。勘ちがいされて当然だぞ」

「じゃあ、いかにもあなたの従士ってツラをして横についていればいいんですか? ご主人こそ、いつもおれのことを無視して、ふらっとどっかに行ってしまうくせに」


「まったく、口の減らないやつだな。そのマントはどうした?」

「たぶん、さっき休憩したところにでも置き忘れたまぬけなやつがいるんでしょう。陰ながらご主人を守るには、敵の中に紛れるのがいちばんですからね。ほら、ほかの軍のもいろいろそろってますよ」

 トマは得意そうに鞍の後ろのふくらんだ袋をたたいた。


 スピリチュアルには、旧帝国軍時代から、兵士個人が専属の部下をかかえるような習慣はなかった。

 貴族制に移行して、とくに騎士の数が少ない国などでは、つねに身近で補佐する者が必要とされる事態も生じただろうが、皇帝府軍には圧倒的多数の騎士がいることから、彼らのめいめいが従士などというめざわりなものを連れ歩くことはとうてい考えられなかった。


『古い騎士道物語に出てくるような騎士には、たいがいお付きの者がいるものですよ。あなたにもそういう人が必要でしょう』

 そう言い出したのはマザー・ミランディアだった。

 ガラフォールの大集結へ向け、ブランカ駐留の近衛軍に加わって出発する間際のことだ。


『身の回りのことくらい自分でできます。それに、そんな者を連れていては自由に動けないし、いざってときにはこっちが守ってやらないといけなくなるかもしれません』

『そのような心配はいっさい無用な者を一人知っているんです』


 エルンファードは驚いた。

 いくら形式上はブランカの支配者となったとはいえ、ミランディアがブランカ駐留軍の兵士個々のことまで知っているとは思えない。

 ましてや従士にするとなれば、その男とはフィジカルのことだろう。


『ああ、あの青年のことですね。彼ならたしかにうってつけですわ』

 妻のアラミクまでが賛同する。

 自分が世話の焼ける若造だと思われているような気がして、どうにも不愉快だった。


『あなたは皇帝陛下のお気に入りのようですね。巡検使とかいうお役目をおおせつかったりしたし、これからも単独で指名されるお仕事がたびたびあることでしょう。特定の軍に所属していないのだから、信頼をおけて手足となって動いてくれる者がいれば、何かと便利なのではありませんか?』

 言われてみれば、窮地におちいることこそなかったものの、手分けする仲間がいてくれればもっとうまく対処できたはずの場面はいくつも思い浮かぶ。


 ミランディアが推薦したのは兵士ではなく、あちこちの部署に物資の運搬などをする雑役夫だった。

 エルンファードは抜け目ない快活そうな眼をしたその青年と会い、結局従士に採用することに決めた。


 個人の用だけをさせるわけにはいかなかったから、形式上はフィジカルの歩兵隊に組み入れて必要なときだけ呼びつけることにしたが、トマは機敏に立ち回ってつねにエルンファードが眼で合図するだけでわかる位置にいてくれるし、気がつけば影のようにすぐ近くに寄りそっている。


『どうしてマザーがおまえなんかのことを知っていたんだ?』

 ガラフォールの天幕でふと気になって聞いてみた。

『実は、生命回廊に忍び込んだことがあるんですよ』

 トマはこともなげに答えた。

『なんだと、男子禁制の回廊にか? それは重罪だぞ!』


 三年前のブランカの事件では、ミランディアみずからが〝男子禁制〟は根拠のない言い伝えにすぎないと主張し、奴隷のゴドフロアを生命回廊に引き入れたことを正当化したし、ロッシュの侵入はむしろミランディアの危機を救うことになった。

 しかし、スピリチュアルの聖域である生命回廊への無断侵入が、重罪であることには変わりない。

 エルンファードが驚くのは当然だった。


『もちろん知ってますとも。でも、おれはどうしてもやってみたかった』

『なぜ処罰されなかったのだ?』

『さあ……』


 聞けば、トマはロッシュが生命回廊までたどり着いた険しい道程に強い興味を惹かれたのだという。

 エルンファードはロッシュに同行したアラミクから詳しい話を聞いていたから、その道行きがいかに困難なものかはよく知っている。

 トマが巨大な地熱発電所を見とがめられずにすり抜けるだけでも大変だったにちがいない。

 注意深い観察と緻密な計算、それに周到な準備も必要だったことだろう。

 そして何よりも、絶対にやりとげるという強靭な意志だ。 


『寮母陛下には、そりゃあ厳しい顔で問いつめられましたよ』

 ボロ雑巾のようになってフラフラと生命回廊に現れたトマはシスターたちにあっさり捕まり、寮母の前に引きすえられた。

 ところが、トマが正直にすべてを打ち明けると、ミランディアは最後にはいかにも愉快そうに声さえあげて笑ったという。


(なるほど、マザーはこいつの度胸と才覚を買ったのだな)

 エルンファードは納得し、軍監として東部派遣軍に同道することになってからはトマを自由に行動させることにした。

 従士というより、実質的にはエルンファード専属の密偵となったのである。



 山塊が左右からせまる合わせ目に、いかめしいタロスの城砦が高々とそびえていた。

 エルンファードがはね上げ式の柵をくぐって洞窟のような長い通路を進んでいくと、突然、視界いっぱいにあふれる光に眼を射られた。


 久しぶりに見る美しい朝焼けだった。

 陽光が立ちこめるもやを輝かせ、それがさらに水面に映ってまばゆいばかりの光を放っている。

 河口に近いこのあたりまで来ると、大河グランディルの川幅は数キロに及んでいて、これが伝説に聞く〝海〟というものかと錯覚してしまうような光景だった。


 川岸の狭い斜面に建設された街の通りは、細い小路にいたるまで、先着した派遣軍でごった返していた。

 道の前方から、トマが人垣をかき分けながら現れた。

 こんどは皇帝府軍の伝令であることを示す白い軍帽をかぶっている。

 あれなら見とがめられずにどこでも行けるし出入りも自由だ。

 エルンファードはトマの機転にあらためて感心した。


「サー・エルンファード。まさにあなたの予想どおりでしたよ。渡し船が一艘も見当たらなくて、兵はみんなここで足止めをくらっています」

 川面には何本もの浮き桟橋が伸びている。

 これほどの規模の渡しで、一方の港から船が完全に出はらってしまうなどということはふつうありえない。

 城砦の頂上でさかんにまたたいている光は、対岸の双子都市ハロビングにむかって急いで船を寄こすように催促している投光器のものだろう。


「で、例のものは確保できたか?」

「もちろん、抜かりはありません。馬は乗り捨てておれについてきてください」

 トマは得意そうに言い、まるで住み慣れた街であるかのようにためらいのない足取りで家々の隙間を通り抜けていく。


 街はずれの岩場に小さな釣り舟が係留されていた。

 トマが船賃をたっぷりはずんだらしく、ヒゲ面の漁師が愛想よく二人を乗船させた。

「タロスで聞き込んだ話だと、渡し船はすべてガムディア軍に調達されてしまったそうです。後を追わせないためでしょうね。マレンガの領地は川沿いですから、自国の船を呼び寄せたにちがいありません」

「では、いずれにしても、それ以外の国から代わりの船を調達するまでは、派遣軍は身動きがとれないってことだな」

 エルンファードはこうなっていることを予期し、トマに先回りさせて小舟を用意させたのだった。

 先行してガムディア、マレンガ両軍の動向を偵察するつもりだった。


 川霧はなかなか晴れず、抜け駆けするエルンファードたちの姿を都合よく隠してくれたが、大きな中洲や小島がいきなり出現して行く手を阻んだ。

 漁師は長いさおを巧みに操り、慣れた様子で右へ左へとそれを迂回していく。

「待った。止めてくれ」

 舟先に陣取ったトマが手を上げて漁師を制した。


「何だ?」

 エルンファードはトマが指さす方向へ眼をやった。

「見えますか? あそこの小島の陰から舟が出てきたんです」

 たしかに別経路で対岸を目指している一艘の小舟が見える。

 エルンファードと同じことを思いついた者がいるらしい。


 しかも、あの派手な軍装は……

 エルンファードはスピリチュアルの中でも抜きん出た視力の持ち主だ。

 舟の中央に悠然と座を占めている若者の横顔を見まちがえるはずがなかった。

「やはり、アントワンだったか――」

 そっと口の中でつぶやいた。


 皇帝から軍監を命じられてすぐ、エルンファードはロッシュあてにその任務のことを言づけた。

 折り返し届いた返事には、驚くべきことが記されていたのだ。

《アグレリオの殺害犯は、クリスタン軍の中に潜んでいる。アントワンの動向からけっして眼を離さないでくれ ――ロッシュ》

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