第二章 4 雨中の山越え

 東方山脈を越えるヴィスカ街道は、進むにつれて山岳特有の気まぐれな天候にたたられることになった。

 断続的に降る雨は濃い山霧を発生させて行軍を渋滞させ、断崖に当たって逆巻く突風は道の端を歩く兵士を何度も谷底へ突き落としかけた。


 東部地方と大陸中央部を結ぶ幹線道路でありながら、ここはただひとつ人の名がついている。

 かつて、ヤギさえおびえて進むのを渋ったという危険な山あいの細道を、困難な大工事の末に大陸有数の交通量を誇る大動脈に変えた英明な王がいた。

 その名にちなんで名づけられたものである。


 紫色のガスに取り囲まれて〝大陸〟という領域が生まれてから、すでに一〇〇〇年以上の時が経過している。

 その間には英雄と呼ばれるにふさわしい業績を残したフィジカルも、確実に存在したことになる。


(われわれはその最後に現れた者にすぎないのだ――)

 黒い岩肌には、まだはっきりそれとわかる人の手による掘削の跡が残っている。

 エルンファードは顔を濡らす雨粒に顔をしかめながら、その痕跡を横目で見上げた。


 大陸の東部は、南北に連なるついたてのような山脈によって、長らく他の地方と隔てられてきた。

 グランディルがもたらした肥沃な土壌に恵まれ、侵略されにくい立地条件にも助けられて、かつては強大な統一王国が栄えたこともある。


 しかし、やがて産業が発達して交易が活発になると、東方山脈をぐるりと迂回する大河グランディルの水運でしか他とつながることのできないこの地方は、しだいに世の流れに取り残され、衰退の一途をたどった。

 とくにグランディル川が紫色の瘴気の底になだれ落ちていく〝河口〟付近は、もっとも豊かな土地でありながら、東部の諸地域の中でもさらにひどい苦境に立たされてきた。


 そのような僻遠の地に生まれたヴィスカ王は、東部の南半分の領有に成功したとき、意を決して東方山脈を貫通する道路の整備に乗り出した。

 新街道は、通行を阻んできた山脈に大きな風穴を開け、大陸全土の流通の中心地であるキールまでわずか一〇日ほどで達することを可能にした。


 だが、東部全体にもたらした大きな恩恵にもかかわらず、ヴィスカ王の死後、まもなく彼の王国は無残に崩壊してしまうことになる。

 街道に入るには、山裾を流れるグランディルを渡らなければならない。

 その渡河地点を守るために両岸に建設したタロスとハロビングの城塞都市は、たちまち東部諸国による争奪の的となり。王国はその防衛に疲弊して滅亡した。

 皮肉なことに、そのことによって「ヴィスカ」は伝説の英雄の名となり、かつて〝極東街道〟と通称されていた街道全体が、現在では「ヴィスカ街道」と呼ばれている。


 豊かな土地柄であるがゆえに、国境紛争や水利権の奪い合いなどといった問題はすぐに先鋭化し、戦争へと発展する。

 そのたびに、共通の利害で結ばれた数か国が、対立する数か国と戦うという構図になる。

 国の組み合わせは問題の数だけあった。

 そうやって東部の小国家群は離合集散をくり返してきた。


 その歴史が現在につながっている。

 スピリチュアルの統一によって、グランディル河岸の二つの城塞都市をめぐる争奪戦こそ絶えたものの、紛争の火種はつねにくすぶりつづけている。

 それは領主個人の身勝手な領土的野心などに終わらず、多くが民衆にとっての死活問題であった。

 新しい支配者であるスピリチュアルより、人民であるフィジカルのほうがむしろ戦闘的なほどだった。


 新帝国になって三年、最初に動乱が起きるとしたらそれは東部だろうとは、多くの者が予想するところだったのである。

 ガムディアの後継者アグレリオの暗殺は、たちまちガムディア対マレンガの衝突へと発展した。


 ガラフォールにおける帝国軍集結の最終日、紛争解決のための東部派遣軍の打ち合わせが終わり、さらに北方ザールトへのベルジェンナ軍派遣が決定した後、オルダイン皇帝は天幕の奥の居室にエルンファードを呼び寄せた。


「そちはラスムートに従って東部へ行くのだ」

 皇帝は、声を低めて言い渡した。

 執政マドランもすでに退出しており、そこにいるのは皇帝一人きりだったにもかかわらず。

「では、軍監の一員として、紛争の解決を見届けてこいと……」

「そのとおりだが、そのほうの役目は少しちがう」

 皇帝は秘密めかした言い方をした。


〝軍監〟とは、フィジカルの軍隊では〝目付〟とも呼ばれた役職である。

 戦闘には直接参加せず、戦いの経過を記録し、各部隊の戦功を客観的に評価したり、軍規違反などが行われないよう監視して、結果を皇帝へと報告する役目のことだ。


 ラスムートは、将軍だった頃のブロークフェン侯オリアスの副官をつとめ、冷静沈着な分析と的確な判断力に絶大な信頼を置かれた。

 皇帝の眼の代わりとなる近衛軍の軍監には、これ以上ないうってつけの人物だ。


「ラスムートは、各軍の戦いぶりだけでなく、調停交渉の成り行きの評価もすることになっておる。そのほうは表向きその補佐をする一人ということになるが、見てきてもらいたいのは別のことだ」

「と申しますと?」

「巡検使として、そのほうほど諸国の国状をつぶさに見てきた者はいない。そういう眼に、いったい何が映るのか……。余が知りたいのは、このたびの紛争の本当の意味、裏に隠された真の意図なのだ――」

 漠然とした命令に面くらうエルンファードの長身を見上げ、皇帝は謎めいたかすかな笑みを片頬に浮かべた。



(本当の意味……真の意図……か)

 エルンファードは、皇帝の言葉を反芻しながら、ヴィスカ街道のぬかるんだ険しい道に難渋する派遣軍の隊列の横を進んでいた。

 軍監は、軍事行動の妨げとならないかぎり、どこで何をしようと規制を受けることはない。

 彼はそっと他の軍監たちから離れ、単独で馬を歩ませていた。


「おい、そんな軽装で戦うつもりか? だいいち雨に濡れて風邪をひくぞ。なんなら、わが軍自慢の行軍用マントを貸してやろう。おぬしにはまちがいなくお似合いだ」

 背後から声をかけられ、エルンファードはおもむろにふり返った。

 馬を寄せてきた相手のほうこそ、紫色の大胆な縞模様を胸に入れた派手なマントが周囲のだれより似合っていた。


「いや、申し出はありがたいが遠慮しておこう。まちがって標的にされてはたまらんからな。おれは、貴公らのみごとな戦いぶりを遠くから見物させてもらうよ」

「水くさいことを言うな。カナリエル救出作戦ではいっしょに戦った仲じゃないか。おぬしには軍監などという役目は退屈なだけだろう。我慢できなくなったらいつでも言うがいい。甲胄でも武器でも、好みのものをすぐに用意させるぞ」

 本音とも冗談ともつかない軽口をたたくと、相手はカラカラと笑いながら自軍の隊列の後尾へと馬を返した。


(アントワン……)

 エルンファードのほうも、同年輩に対するぞんざいな口調で〝貴公〟と皮肉を込めた呼び方をしたように、アントワンは大国クリスタン公国の継承者である。

 選帝官を務めていた名家にあって、凡庸な父親は早くに戦没していたが、かつて急進派の将軍として知られた祖父の公爵は、先帝時代には政・軍両面で隠然とした権勢を誇っていた。

 その後、若いオルダインが皇帝に登極するにあたって、選帝会議で大きな力を及ぼしたともいわれている。


 アントワンはその祖父に可愛がられて育ち、幼少のころから優れた能力を発揮してつねにひときわ目立つ存在だった。

 最近ではほとんど寝たきりと聞く老公は名ばかりの領主であり、アントワンがクリスタンの実質的な支配者となっている。


 彼が奇しくも口にした『カナリエル救出作戦』に参加したのは、いずれも若い年代を代表するエリート将校たちだった。

 選抜したロッシュにとって、アントワンは、エルンファードのような信頼のおける友人というより、むしろ〝外すことがはばかられた〟ライバルの一人だった。


 むこうのほうでもロッシュや自分をライバル視していることは、エルンファードはずっと肌で感じてきた。

 だが、それはあくまでも個人としての技量や才覚に関してである。

 軍事体制下の帝国ではそれが最大の価値基準だったし、同世代となればどうしてもそういう眼でおたがいを見てしまう。

 しかし、今やそこに身分の違いや保持する権力の差が生まれた。

 そして、おそらくスピリチュアルとして生きることの目的でさえ……。


(あいつは何を求めているんだろう?)

 エルンファードは、いかにも貴族らしく品よく整ったアントワンの顔がフィジカル歩兵たちのかかげるタイマツの炎に映えるのを、そっと横眼でうかがった。

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