第二章 2 カナリエルを射った者

「……娘には、棺に入って埋葬人の傭兵とともに墓地へ向かうようにと言いました。あの断崖絶壁の下に隊商の若者が待っていて、道案内してくれる手はずになっていたのです。そこを渓流ぞいに下れば湖、そして湖を対岸に渡れば草原……あの子は、連れの二人とともにこの光景の中を逃げてきたにちがいありません」


「さすがは寮母さま。ええ、そのとおりです。不幸にして男ばかりの仕事場で過ごしてきた私には、大切な娘御を失った母親がどのようなお気持ちで終焉の地をご覧になるのかなど、想像すらつきません。出過ぎたまねをしてしまったのなら、お詫び申し上げます。そして、ただちにブランカへ引き返します」

「いいえ、そんな必要がないことは、ボルナーデどのがとっくにご存知でしょう。わたくしが格納庫に出向いたのは、娘の最期の瞬間に居合わせていらっしゃったあなたに、あのときのお話をいくらかなりとおうかがいできればと思ったからですわ。最初からそれをお察しでしたのね」

「あ、いや……」

 ボルナーデは、はにかむようにつるりと鼻のあたりをなでる仕草をした。


「ですが、私が寮母さまにして差し上げられることは、これくらいしかありませんから。しかし、実際の経路がこのとおりだったとすれば、あのときここへプロヴィデンスを導いたのは私ではありません。私は、飛空艦を乗っ取ってまで婚約者の後を追おうとした若者の言うとおりに飛ばしたにすぎないのですよ」

「ロッシュが……」

「そういう名の青年でしたな。私の長い飛行歴の中で、あのときほど危険と緊張感に満ちて胸がおどった体験はありません。彼は、飛空艦乗り冥利につきる名指揮官でしたよ」


 ミランディアは、その言葉を深く噛みしめるようにうなずいた。

 彼女の横顔を見て同じようにうなずいたのは、ボルナーデから操艦の全権をまかされた若い副官のウルワースだった。

 彼は一等航空士としてロッシュの追跡行を共にした。

 彼がほとんど指示を出さなくても正確にその経路をたどれているのは、乗組員の大半も貴重な経験を鮮明に記憶しているからだった。


 ウルワースがミランディアにむかって言った。

「寮母陛下、しっかりおつかまりください。艦は急上昇に移りますので」

「どうして? ロッシュはずっとカナリエルの後をたどって行ったのでしょう?」

 ボルナーデが深く噛みしめるような声で言った。

「何かを予感したのかもしれませんな。彼はここから一気に尾根を越えるように命じました。それが運命の別れ道になったのです――」


 加速の荷重が全身を見えない力で押さえつけ、窓の外の景色がどんどん眼下に吸い込まれていく。

 立っている乗組員たちは、懸命に手近な手すりにすがりついた。

 それは急斜面を登りきるまで延々とつづいた。

 フッと身体が楽になったと思うと、眼に映るものすべてが一変していた。

 ブランカから延びる尾根の上に出たために、そのむこう側にまったく様相を異にする地形が広がっているのが見渡せるようになったのだ。


「これが、ブランカの裏側なのですか?」

 ボルナーデがうなずく。

「そのとおりです。ご覧ください。開けた草原が北方山脈までつづいています。小高い丘の上に見える廃墟はケルベルク城といって、フィジカルが北方王国からの侵攻にそなえて築いた城塞都市です。おそらくご息女の一行は北方王国へ逃れようとしていたのでしょう。ところがケルベルク城で運悪く盗賊の一団に遭遇してしまったようです。われわれがまず眼にしたのは、北方山脈にむかってひた駆ける三〇騎ほどの野盗の群れでした」

 マザー・ミランディアは思わず胸に手を当て、下方に広がる草原に視線をさまよわせた。

 彼女の眼には、この美しい風景がとたんに緊張感をおびたものに見えてきた。


「ロッシュはすぐさまやつらがご息女たちを追っているのだと判断し、私に地上すれすれまで飛空艦を降下させるようにと申しました。なんと、滑空している飛空艦から騎馬で地上に飛び降り、盗賊どもと戦うというのです」

「そんなことが――」

「ええ。長年飛空艦を操艦してきた私にも、そのような危険きわまりない飛び方をした経験はありません。いえ、いまだかつてない前代未聞の作戦行動です。しかも艦そのものが戦闘に巻きこまれかねない。私も乗組員も、全員が仰天し戦慄したものです。大胆不敵な作戦をとっさに思いつき、有無を言わさず実行させようとする若者にも、心底驚かされました。私は思わず『貴官はそのうち、飛空艦の役割や飛び方まですっかり変えてしまいそうだな』などとほざいてしまったほどですよ」

「まあ……」

 ミランディアは素直に驚きの眼をみはった。


 飛空艦はそのときの場面を再現するように草原へと急降下していく。

 みるみる地上が迫り、下部のゴンドラの腹が草の穂先をこするほどの低空飛行に移ると、事情を知らないシスターたちはこんどこそ全員が盛大な悲鳴を上げた。

 ミランディアは、猛烈な速度で飛び去っていく風景の中に、荒々しい盗賊たちとロッシュ率いる追跡隊が並走する幻影が見えるような気がした。


「騎馬隊を降ろした後、さらにあの若者が残した指示どおりに飛空艦は盗賊どもの前に回り込み、援護射撃に移りました。盗賊どもはご息女たちを追うどころではなくなり、騎馬部隊との乱戦に突入していきました。若者の作戦はみごとに成功したわけです」

「では、なぜ……?」

 問いかけるミランディアの声が細くなり、その眼が不安そうにボルナーデに向けられた。


 ボルナーデは唇をかみ、一呼吸おいてからおもむろに口を切った。

「マザー・ミランディア。ここまでお連れしておきながら、私は残酷な事実をお伝えすべきかどうか、まだ迷っているのです。戦闘では何が起き、どうしてそのような結果が生じたかは、実際わからないことのほうがずっと多い。ご息女が亡くなられたのは、まさにそういう混乱の真っただ中でした。つまり……」


「思いもかけないような、理解しがたいことも起こるというのですね。ええ、わかるような気がしますわ。ですが、わたくしは、その残酷な事実をこそ知りたいのです。それをどうとらえるかは、わたくし自身の問題です。ボルナーデどの、どうかお気遣いはご無用に願います。実際にあったありのままのことを教えてください」

 落ち着きはらったよどみのない声でミランディアが懇願すると、艦橋には粛然とした空気が張りつめた。


「よろしい。では、証言してくれる者を呼びましょう」

 ボルナーデは重々しくうなずき、手を上げてウルワースに指示をあたえた。

 ウルワースが出ていくと、ボルナーデは氷結したようなその場の空気をなごませようとするように笑みを浮かべて言った。

「陛下。実は、これから現れる青年は、なんとわれわれに銃を突きつけて脅迫したことがあるのですよ」

「いったいどういうことですの?」

 ミランディアは当惑の表情で尋ねた。


「追跡隊を率いていた若者は、私に頭を下げて飛空艦を貸してくれと丁重に頼みこんできたのですが、そんな生ぬるいやり方ではだめだと、過激な仲間たちが武器を手に突入して強引に乗っ取ろうとしたのです。ここはあやうく血の海になるところでしたよ」

 ボルナーデは豪快に笑った。


「そのような者が、どうしてここに?」

「追跡隊はあの同世代の選りすぐりの優秀な若者ぞろいでした。その青年は飛空艦乗り志望で、プロヴィデンスの構造も知りつくしているからと、先頭に立って乗り込んできたというわけです。貴族制が施行されることに決まると、こんどは『自分は近衛軍に入る気も、貴族に仕える騎士になる気もない。どうかプロヴィデンスで仕事をさせてほしい』と私に熱っぽく訴える手紙を寄こして売り込んできたのです」


「どこまでも一本気な青年ですのね」

「まったくです。熱意に負けて面接してみたら、なんとあのときの若者ではないですか。『閣下とはまんざらご縁がないわけではないと思って、無理なお願いをすることにしました』などとしゃあしゃあと言うのですからね」

 ミランディアはオホホホホと愉快そうに笑った。


 緊張した空気がほどよく薄れたところに、ウルワースに伴われて小柄な青年が艦橋に入ってきた。

「寮母陛下。二等機関士のリドレイと申します。三年前にご息女の捜索隊に参加し、プロヴィデンスに搭乗しておりました。なんなりとお聞きください」

 歯切れよく言上したが、利発そうな眼が緊張のせいで落ち着きなく動いている。

「わたくしがカナリエルの母親で、寮母でもあることなどすこしも気にすることはありませんよ。どうぞ遠慮なく、あなたの見たままを話してくださればよいのです」


 ミランディアが優しく語りかけると、リドレイはゴクリとツバを呑み込んで言った。

「本官は騎乗はあまり得意でないのでゴンドラに残り、援護射撃を担当していました。プロヴィデンスが前に立ちはだかったことで盗賊の勢いがそがれ、騎馬隊と乱戦になりました。われわれ射撃隊も戦闘に参加すべく、地上に降下することになりました。その準備をしようと、ちょうど立ち上がりかけたときでした。飛空艦が急停止したために、ガクンと強い揺れがきました。わたしはよろけて反対側の窓――つまり、北方山脈が見えるほうの窓のところまで後退してしまいました」


「そこにちょうどカナリエルたちが逃げていくのが見えたのですね?」

「ええ、四頭の馬があの小橋をめがけて疾走していました」

 リドレイが前方の山脈のふもとのあたりを指さした。

 今はもう崩れ落ちてしまっているが、たしかに吊り橋のようなものの痕跡がある。


「あそこを先に渡って橋を落とされてしまえば、盗賊も捜索隊ももはや手が届かなくなります。飛空艦では険しい断崖に接近できません。ご息女たちを逃してしまわないためには、ただちになんらかの手を打つしかない――わたしはそう思いました。だからこそ、次の瞬間に起こったことの意味がわかったのです」

「カナリエルが――」

 ミランディアの声がうわずった。


「肉眼ではそこまでは見てとれませんでした。いきなり馬がもんどりうって倒れ、巻き込まれてもう一頭も倒れました。すぐに馬を返して駆け寄る者の姿も見え、異変が起こったのは明らかでした。乗り手が撃たれたのです」

「銃弾はどこから放たれたのだ?」

 ボルナーデが思わず前に身を乗り出してたずねた。

「ゴンドラ内にはまだ援護射撃をつづけている者もいましたから、銃声を聞き分けることは不可能でした。ですが……」

「何か?」


「飛空艦は盗賊と騎馬隊の行く手をふさぐ位置にありました。ですから、山脈近くまで追いついていたのは、先頭を切っていた一頭の騎馬だけです。乗り手は銃をかまえており、その銃口からはたった今発砲したとわかる硝煙がたなびいていました」

「そ、それは……」

 ミランディアは特別席のひじ掛けを握りしめ、消え入るような声でつぶやいた。


「われわれ捜索隊を率いていたロッシュです。同世代ばかりの異例の作戦行動をともに経験して、彼の能力の高さには素直に驚かされましたし、カナリエルを思う気持ちの強さも感じました。それがわたしたちを結束させ、思いがけない信頼関係や、奇妙な仲間意識さえ生まれかけていました。だから、とても信じる気になれないのですが……」

 リドレイは視線を下に落とし、声をつまらせた。


「そうです……やはり、彼が撃ったにちがいありません。寮母陛下」

 その言葉が発されたとたん、マザー・ミランディアのきゃしゃな身体が、宙に舞う羽根のように座席を離れ、床の上に崩れ落ちていった。

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