第二章 Where They Have to Go 目指すべきところ

第二章 1 夢の遊覧飛行

 飛空艦プロヴィデンスは、アンジェリクから帰還した数日後、ふたたびブランカの広場に巨大な勇姿を現した。


「飛ぶ前に正直に申し上げておきます。寮母さまの夢をかなえて差し上げるなどとおためごかしの口実をもうけて、本当のところは自分の青くさい夢想を実現させようとしたのです。いい歳をしてお恥ずかしいかぎりですよ」

 艦長席のボルナーデが太い首をせいいっぱい横に傾け、乗組員たちの手前をはばかるように小声でささやいた。


 隣に臨時に設置された特別席で、ミランディアは優雅に苦笑した。

 もともと大きくてよく通るボルナーデのバリトンの声は、少々抑えたくらいでは狭い艦橋のどこにいてもはっきり聞き取れる。

 本人もそんなことは十分承知していて、ミランディアが搭乗してくる前にあらかじめ部下たちを集めて言い渡した。


『いいか、わしは今日、長年想いつづけてきたご婦人と夢のランデブーをする。おまえたちが見たら死ぬほど驚くようなお相手だ。わしはもう完全に舞い上がっておる。トチ狂ってどんなたわけた言葉を口走るかわからぬし、みっともない姿もさらしかねん。できるだけ見て見ぬふりをするのだ。わかったな!』


 艦長の愛すべき人柄と豪放な性格は乗組員のだれもが承知しており、だからこそ全幅の信頼と厚い尊敬を寄せている。

 その婦人がマザー・ミランディアであることはとっくに知れ渡っているし、艦長の冗談めかした言葉の意味するところはほぼ正確に伝わっていた。

 ようするに『今日の操艦はすべてまかせたぞ』と言ったのだ。


「まあ、そのようなことをお気になさっていたのですか。わたくしは嬉しさのあまり、生命回廊にもどってすぐに、シスターたちにみんな正直に話してしまいましたわ。『わたくしを飛空艦に乗せてやりたいと夢見て搭乗員になり、とうとう帝国一の艦長にまでなられた方が、なんとわたくしを空の旅に連れて行ってくださるのよ』と」

「そ、そんなにあけすけに……」

 ボルナーデは眼をむいて驚きと当惑の表情を浮かべ、マザー・ミランディアは少女のように純真な笑顔でこくんとうなずいた。


「でも、言ってから、しまったとすぐに気づきましたの。娘たちは幼年学校を出てすぐにシスターの仕事につき、陽も射さぬ冷え冷えとした地底で何年も暮らしてきた者ばかりです。彼女たちのうらめしそうな眼差しは、それこそ痛いほどでしたわ。それであわてて、シスターたちもいっしょに乗せてくださるようにあなたにお願いしたのですよ」

 もちろん、実際にはミランディアはシスターたちにそのような言い方をしたわけではなく、『飛空艦に乗せてもらえることになったから、みんなもいっしょに行きましょう』と提案したのだった。


 ようするにボルナーデもミランディアも万事心得ていて、あうんの呼吸でどちらも大人の行動を取っていたのである。

 ミランディアの頼みに、ボルナーデはしごくあっさりと応じた。

『プロヴィデンスは広くて居心地のいい展望室も備えておりますから。ほかにもお知り合いを誘っていただいてかまいませんよ』と。

 すると話はあっというまに広まり、希望者は一〇〇人を楽に超えて、ボルナーデはさらに二日間の追加の遊覧飛行を約束をするはめになった。


「あんなにたくさん集まってしまうなんて、わたくしには思いもよりませんでしたわ。でも、ブランカの女性たちは、飛空艦に乗ることはおろか、長い間外の土を踏むことすら許されなかったのですからね。彼女たちの気持ちは痛いほどわかります。ですが、艦長にはご迷惑をおかけしてすみません」

「かまいませんとも。ありがたいことに、ご婦人方のみに限ってくださった。私と搭乗員たちは当面ブランカにご厄介になるわけですから、これできっと快適で手厚い待遇を受けられることでしょう」

「ええ、それはもうまちがいありませんわ」

 二人は顔を見合わせて笑った。


 そんなことになることも、両者には最初から想定内のことだった。

 結局、自分たち二人の関係を適度に茶化すことで、異例な臨時飛行をみごとにだれも文句を言えない楽しい一大イベントに仕立て上げてしまったのだ。


「ところで、中にはご高齢のご婦人もいらっしゃるようですから、明日以降は無理をせずに近くの景色のいいあたりをゆっくり回るだけにしますが、今日は寮母さまと生命回廊の若いシスターたちが主要な乗客です。ちょっと冒険することにしましょう」

「まあ、それは楽しみですこと!」


 ボルナーデが経験上好天になりそうだと選んだその日は、晴天のうえにほぼ無風、まさに絶好の飛行日和となった。

 広場には皇帝の送迎時にもひけをとらない多数の見物人が集まり、大きな歓声を上げて見送った。

 浮かび上がったプロヴィデンスは、まず山肌にそってゆっくりと移動していった。

 ミランディアは通り過ぎていく風景に眼をキラキラと輝かせ、特別席から精いっぱい身を乗り出した。


 しかし、やがて前方に無数の白い点が整然と列をなして並んでいる光景が見えてくると、艦橋全体が粛然とした雰囲気になった。

「あれが墓地なのですね。あそこには、わたくしたちが最後まで育ててあげることのできなかった子どもたちがたくさん眠っているのです。この眼で見ることができるなんて……。感謝いたしますわ、ボルナーデ艦長」

 そっと涙をぬぐう気配に、ボルナーデは小さくうなずいた。


「なんの。素晴らしいのはここからですよ。ブランカの周辺でもっとも変化に富んだ地形が、つぎつぎ展開していきますぞ」

 ボルナーデの言うとおりだった。

 墓地の上を低くかすめるように通過すると、プロヴィデンスは一気に開けた宙空に飛び出した。

 船体下部のゴンドラからは、シスターたちが上げる悲鳴と甲高い歓声が入り混じって聞こえてくる。


 越えてきた背後の断崖は、ほぼ垂直に数百メートル下までなだれ落ちている。

 一面の草地かと錯覚しそうな眼下の緑は、針葉樹の広大な森だとわかった。

 雄大なパノラマを一度に視界にとらえる快感は、飛空艦からならではのものだった。


「あれが湖というものですか?」

 まるでミランディアの言葉に吸い寄せられるように、樹々に囲まれて青々とした水をたたえた神秘的な場所が近づいてくる。

「そうか。ブランカのご婦人方は、湖ですら初めてご覧になるわけですな」

「何という名前ですの?」

「なに、一○一・七・四・○三という味もそっけもない名です。一○一がブランカ、七が南西という方位、四が湖沼、○三が三つめという意味です。軍事上の位置を特定するための呼称にすぎません。湖ばかりでなく、スピリチュアルの地図には、山も川もよほど名の通ったものでないかぎり固有の名称はないのです」


「こんなに美しい湖に名前がないなんて……。わたくしたちスピリチュアルは、人間として何か大切なものを忘れているのですわ」

「長い間地中のブランカに暮らし、出てきたのは戦争をしに行くためでしたからな。しかたがなかったと言ってしまえばそれまでですが……」

「今の帝国が本当に平和になったのなら、きっと取りもどせるはずですわね」


 言葉少なになって一心に風景に見入るマザー・ミランディアを乗せ、プロヴィデンスはさらに先へと進んだ。

 水しぶきを上げて轟々と流れ下る滝、ゆったりと起伏する広い草原、そしてまた深い森、巨岩が群れをなす岩場――。

 やがてプロヴィデンスは、わざとのように左右に高い崖の迫る深い谷の間を遡上していった。

 張り出した木の枝がバシバシと容赦なく船体を打ち、シスターたちの悲鳴が岸壁に反響して艦橋へと絶え間なく届いた。


「ようやくわかりましたわ、艦長」

 ミランディアがポツリと言った。

「え?」

「あなたがわたくしをこの飛行に誘ってくださった意図がです。ボルナーデどのは、わたくしに娘のカナリエルがたどった道のりを見せてくださっているのですね――」

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