第一章 Views Matiew Sees その眼に映る世界
第一章 1 生誕の記憶
どこまでも高く澄みきった空……
尖った山々に囲まれた広い草原……
色あざやかで圧倒的な風景――それが、初めて見た世界の姿だった。
つぎつぎ押し寄せてくる雲とともに、楕円形をした奇妙な物体も浮かんでいた。
今なら、あれは季節が夏から秋へ移りゆく頃の高原の風景だったのだとわかる。
夜来の雨が過ぎ去った後らしい、冷たく心地よい早朝の風が、初めて外気にさらされたほおをなぶって吹き過ぎたことを憶えている。
それをさえぎるように、突然、美しい姿をしたものがおおいかぶさってきた。
自分を優しく抱き上げ、この世界へと迎え入れてくれようとしているのだと本能的にわかった。
『マチウ』と呼びかけてきたその相手は、だけど、やっと『母親』だと名乗ったきり、力尽きてつっ伏してしまった。
その人を受け止めようにも、生まれ出たばかりの自分にはまだ指一本持ち上げる力はなかった。
そして、そこにぽっかり開いた視界の中に立っていたのが〝オヤジ〟だった。
その大きな身体を持ったものが、自分を迎えてくれるもう一人の存在だということがわかった。
でも……
見えたのはそれだけではなかったのだ――
「交代の時間だぞ、ゴドフロア。夜明けまでおれが見張りの番だ」
声が近づいてきた。不安定な足場を伝ってやって来たのはダブリードだった。
足場は焼け落ちた城門の残骸の上に応急に架け渡しただけのしろものだ。
焼け残った支柱の間には板切れがあちこち打ちつけられていて、見てくれは悪いが矢や弾からなんとか身を守れるようにしてある。
「もうか。月が隠れていて時の移ろいがわかりにくい。こういう夜がいちばん危険なんだ。おれももう少しここにいよう」
あたしの横に立つオヤジは板切れに手をかけ、グランディル川との合流地点の方角をにらみつけてつぶやいた。
「さあ、どうだかな。敵だって、おれたちの軍勢が一〇〇そこそこしかいないことくらい、とっくに気づいてるだろう。かんたんに蹴散らせるとたかをくくってるんだ。わざわざ夜襲をかけたりはしねえさ。真っ昼間に派手な甲冑を見せびらかしながら押し寄せてくるにきまってる。それがスピリチュアルらしさってもんだ」
ダブは口の端をひん曲げ、皮肉まじりに応じた。
オヤジは首を傾げた。
「それにしてもおかしい。城門が落ちてもう五日も経っているというのに、斥候の小舟ひとつ現れん。北方王国軍の襲来を警戒しているのはわかるが、それならなおのこと、機先を制して速攻でザールトを奪い返してしまうほうが理にかなっている。たとえ城門がなくても、この地形を利用して立てこもれば、一万の北方軍からだってある程度時間をかせげる。そうやって近衛軍なり友軍の救援を待てばいいのだからな」
「なあに、出遅れちまったのさ。ザールトの町の連中から聞いた話だと、この帝国北端のランダールを支配しているボルフィン公爵ってのは、学者肌でおまけに身体も不自由らしい。戦いには不慣れだろうし、ガラフォールへ派遣した分だけ人員も不足してる。きっとどうしようかと迷っているうちに、ズルズル時間が過ぎちまったんだ」
「だが、このままではこちらも苦しくなる一方だ。エリアスとすれば、おれたちが攻められて侵攻の口実ができるまで、麾下の大隊を送り込んでくる気はあるまい。トレブの百騎隊のほとんどが町民の監視に手を取られている現状では、いざ敵が襲来したときにすぐに対応できるのは、おれたちとガロウの仲間しかいない」
「そういや、町民どもの不満もくすぶってきてるしな。襲撃に合わせて騒ぎを起こされたら、前後から挟み撃ちされておれたちはひとたまりもねえぜ」
ダブリードはいらだたしそうに焦げた杭を拳でたたいた。
「ところで、その手に持ってるのは何だ?」
「ああ、これか。酒場の女に持っていけって押しつけられたんだよ。『この寒空にいたいけな子どもに見張りの手伝いをさせるなんてどうかしてる』ってさ」
ダブは、支柱のクギに引っかけたカゴに入っているあたしにむかって、手にした膝かけの毛布をむぞうさに放り投げた。
「おれたちの中で夜目も遠目もいちばん利くのがマチウなんだからしかたないさ。そんなことをいちいち説明してやる必要はないが、礼だけは言っといてくれ」
オヤジは、モソモソと毛布にくるまるあたしを見ながら言った。
あたしは自分の身体がすっかり冷えきっていたことに初めて気づいた。
「どうした、マチウ。眠いか? それとも具合でも悪いのか?」
あたしの様子を見て、オヤジは不審そうに眉をひそめた。
すると、ダブがバカにするように言う。
「オヤジって自称してるくせに、子どものことに関しちゃおまえはつくづく鈍感だな」
「そうなのか? おれは、酒場で働く母親に、酔っぱらいの男どもと娼婦がたむろしているまっただ中で育てられた。よその悪たれどもには仲間はずれにされるか、寄ってたかっていじめられたものさ。おれにとっての子どもっていうのは、ずっとそんなやつらのことだったんだ」
「ロクでもねえ境遇で育ったんだな。おれのまわりには兄弟や黒鷲団の子どもが何人もいたからわかる。そいつは眠いんじゃねえよ。そんなふうに髪の毛をかき回してるときは、たいがい子どもながらに何か悩み事をかかえてるんだぜ。ガキもいつのまにかそんくらい成長したってことだ」
オヤジがあらためてあたしの顔をじっと見つめた。
「言ってみろ。何かあったのか?」
あたしはどう答えたらいいかわからなかった。
そう、それはあの夜のことだった――
あたしたちは北方王国の騎馬軍団と協力し、難攻不落を誇ったザールトの城門を陥落させた。
町に潜入して門の内側から火を放った傭兵たちといっしょに、あたしはものすごい炎に包まれて燃え上がる巨大な城門と、川に飛び込んで命からがら逃げていくスピリチュアルやフィジカルの警備兵たちの姿を悠然と眺めていた。
一方、町民たちのほとんどは、怖れをなして建物の中に逃げ込んでいた。だから、後方の川岸にたった一人で呆然とたたずんでいる人影が、ふとあたしの眼にとまったのだ。
クルクルと巻いた長い髪は、どう見ても塩運びの人足や木こりらしくない。服も若い娘が着るようなふわふわした薄物で、小脇には楽器のようなものを抱えていた。
若者は盛大なたき火みたいになった城門からの明かりを真っ正面に受けていたから、あたしにはその表情がくっきりと見てとれた。
せいいっぱい見開かれた眼には大きな驚きが浮かんでいて、その視線はまっすぐあたしのほうへと向けられていた。
眼が合った、と思ったとき、あたしの中から突如として温かくて激しく波打つものが湧き上がってきて、たちまち全身をひたすのを感じた。
あたしは一瞬。自分がどうかなってしまったんじゃないかと思った。
(そんな……まさか……!)
その感覚は、馴染みのないものではない。いや、それどころか、オヤジの胸にしっかり抱えられるたびに心地よく感じるものだ。そして、〝母親〟である人の顔を思い浮かべさえすれば、どんなにつらいときでも心を優しく満たしてくれるものでもある。それは何より特別な感覚だった。
彼らはまちがいなく、あたしにとってかけがえのない二人だ。
毎日が旅暮らしだったあたしは数えきれない人たちと出会ってきたけど、確信に近いその思いが変わることはなかった。
なのに、あのとき感じたのは、たしかにそれと同じものだったのだ……。
オヤジは、あたしが生まれたときのことをあんまり話してくれない。
『おまえの母ちゃんはなあ、ふるいつきたくなるようなべっぴんだったんだぜ』
ダブリードが冗談半分に言いかけたことがあった。オヤジはいきなり短刀をダブの喉もとに突きつけ、恐ろしい声で『やめるんだ』と一喝した。
オヤジにとってはそれくらい大切な思い出で、他人に気安く触れられたくないものなんだとわかった。
それに、母さんとの関係には複雑な思いもあるにちがいない。
あたしにはまちがいなく〝父親〟と〝母親〟なのだけれども、その二人が〝夫婦〟じゃなかったということが、最初はどうしてもピンとこなかった。
だけど、少しずつわかってきたのは、母さんのカナリエルはスピリチュアルのお姫さまで、オヤジのゴドフロアは捕われて奴隷にされたフィジカルの傭兵だったこと。
そして、ブランカというスピリチュアルの都から逃げ出そうとする母さんを、雇われたオヤジが護衛する役目だったという。
身分も立場もかけ離れた二人の逃避行がどんな風で、どれほど大変だったかはよくわからないが、盗賊のダブリードたちに追われ、最後はスピリチュアルの追跡隊にも追いつかれて、その戦いの中で母さんは死んでしまったのだ。
その死のきっかけをつくってしまったダブを今では相棒のようにしているくらいだから、オヤジはあいつをそれほど恨んではいないのだろう。
それよりも、母さんを守りきってやれなかった自分自身をずっと責めているような気がする。
それくらい母さんのことを深く愛していたにちがいないし、だからこそ、あのときのことをうかつに言葉にすることがはばかられるのだろう。
あたしは最初からフィジカルの子どもとちがっていた。
生まれたばかりでなぜ母さんやオヤジの顔をはっきり記憶しているのかと聞くと、オヤジはしぶしぶながらスピリチュアルという人種の誕生の仕組みを説明してくれた。
スピリチュアルの赤ん坊は、カプセルから生まれ出たときに初めて眼にした人間を自分の〝親〟だと信じることになるのだという。
『あのとき、おれはカナリエルのすぐ後ろに立って、おまえが奇跡のようにカプセルの中で目覚めるのを茫然として見ていた。おまえが母親の顔をしっかり憶えているというのなら、おれはたまたまそのときおまえの視界に入っていたせいで父親になってしまったってことなんだろう』
オヤジは、そんな風に半分冗談めかした言い方をして、小さな苦笑を浮かべた。
あたしにはとてもそれが偶然の出来事だなんて思えないけれど、事実はまさにそういうことだった。
オヤジにしても母さんにしても、そうなることをあらかじめ望んで二人して〝親〟になったわけではなかったのだ。
そのことも、オヤジにはきっと深い悲しみになっているにちがいない。
オヤジが〝父親〟だってことは、あたしには疑いようのないことだ。
軽々と抱き上げてくれるしなやかな筋肉におおわれた腕や、いくらギュッとかじりついてもビクともしない太い首から、あたしは揺るぎない愛情が伝わってくるのを感じる。
だけど、それが唯一無二のものなのだろうかという恐ろしい疑いが、突然あたしの心をとらえたのだった。
気持ちをせいいっぱい集中するようにして生まれたときの記憶をたどり返してみれば、オヤジのむこう側にはたしかにまだ人影があった。
あれは、じゃあ、北方王国の村の酒場で出会ったフィオナが言っていた『ステファン』という人なのだろうか?
でも、あたしを悩ませているのは、その人がだれなのかってことじゃない。
信じて疑わなかった〝親〟というものが、なんともう一人いるとわかったことなのだ!
あたしを可愛がって守ってくれるオヤジは、まちがいなく唯一の存在だった。
ほかに替えなんてない、だからこそ迷わずすがりついていける相手だ。
なのに、そのオヤジと同じような身近さを感じてしまう存在が、いきなり眼の前に現れるなんて――
(どうしよう……どうすればいい……?)
黙っているのはオヤジの信頼に対する裏切りのような気がするし、かといって口にしてしまったら、今までオヤジが注いでくれた愛情をだいなしにしてしまうようにも思う。
あたしは、いったいどうすればいいんだろう……
頭を抱えてうつむいたあたしの眼から、ポタポタと涙がしたたるのがわかった。
「驚いたな。おまえの娘は本当に悩んでるみたいだぜ」
ダブリードがまぜっ返すように言ったが、声は笑っていなかった。
「どうした、マチウ……」
オヤジがあたしの肩に大きな手を置き、顔をのぞき込んで優しく呼びかけた。
と、そのときだった――
「て、敵襲だぁ!」
「スピリチュアルの戦闘艇が来るぞ!」
城門のあちこちから悲鳴のような叫び声が上がった。
「しまった。油断したぞ!」
オヤジの声も緊迫している。
ダブが剣を抜き放つサヤ鳴りの音がする。
あたしはあわてて涙をそで口でぬぐい、カゴから身を乗り出した。
灯火をすべて消した戦闘艇の黒々とした船影が、あたしの眼にはっきりと映った。
しかも三隻もいる。
(あたしのせいだ――)
傭兵や騎馬兵たちは今になってやっと気づいたのだ。
あたしがちゃんと注意していたら、こんなに接近される前にとっくに見つけていたはずだった。
あたしは思わず唇をかみ、こぶしをギュッと握りしめた。
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