第44話 ハミガキやばい

 旧友との思いがけない再開は、エイデンを新たな心境へと導いた。負けん気にも似た想いが、胸中で熾火のように熱く燃え、自身の役目に一層精を出す。もちろん育児が9割9分であり、取り立てて新たな仕事に手出しはしない。動機は常に一貫しているのだ。


 そんなエイデンの父親歴も2年を過ぎた。右往左往するばかりの当初とは違い、今や動きに澱みなど見られない。


「シエンナァーー! ニコラがぁーーッ!」


 躊躇なく叫ぶ。考える前にとりあえず呼ぶ。それがエイデンの考え出した結論であった。


 間を置かず、扉がけたたましい音と共に開いた。現れたのはもちろんシエンナだが、服は普段着に着替えていた。風呂上がりで濡れた髪を乾かす暇もない呼び出しに、彼女はすこぶる不機嫌だ。とうとう扉を蹴破ってしまったのも無理からぬ事である。


「すごっ……本当にシエンナさんが来た。私、初めて見ましたよ!」


 これが噂のと言わんばかりに、メイは瞳を輝かせた。


「ふふっ。見事なものだろう。さすがは我が家自慢のメイドよ」


「何を誇ってんですか。ブッ飛ばしますよ?」


 駆け付け2発、龍の拳。その鋭さは魔王すら手傷を負わせ、口の端に流血を見る程であった。ひとしきり『通過儀礼』が終わると、シエンナは呼吸を整え、用件を促した。


「んで、今度は何があったんです?」


「今日のお題はこれだ」


 エイデンが木の棒を掲げながら言った。それは桐の短い棒だ。先端に植え付けられた無数の毛は、アークホースのたてがみを使用しており、程よい弾力を持っていた。


「もしかして歯磨き、ですか?」


「そうなのだ。泣いて暴れるので手がつけられん」


「これはまた難問ですね」


「近頃は甘味を口にするのも珍しくない。当然虫歯にもなりやすくなった」


 エイデンたちはチラりと部屋の隅を向いた。そこには泣きじゃくるニコラと、庇うようにして立つマキーニャの姿が見える。シエンナは眺めただけでも面倒だと察し、実際その通りであった。


「エイデン様! 御子様がここまで泣かれているのです、今日ばかりはご容赦いただけませんか!」


 まさに猛抗議。何も取って食おうという訳でもないのに、この言われ様である。ただでさえニコラが非協力的であるのに、難物までもが立ちふさがっているのだから、事態を一段とややこしくしていた。


「邪魔よマキーニャ。ちょっと退いてくれない?」


「フン。ようやく尻尾を出しましたか。御子様に害をおよぼす豚足の化身めが」


「微妙に何言ってんのか分かんないけど、ケンカを売られたのは理解したわ」


 危うく殴り合いになりかけるが、エイデンが身体ごと割って入る事で止めた。さすがのマキーニャも拳を下ろすしかなく、睨み返すに留まった。しかし引き下がる気までは無いようで、踏みしめた足はそのままにしている。今日はいつになく頑迷だ。固執する理由に察しがつかず、本人に直接問いかけるしかなかった。


「マキーニャよ。そもそも不思議なのは、なぜそこまで入れ込むのか、だ。突き詰めて考えれば、お前には関係の無いことだろうに」


「言うまでもありません。御子様の幸せこそ、私の幸せであるからです」


 この予期せぬ回答にはエイデンも首を捻った。マキーニャはこれまで幾度となくニコラに対して執着したものだが、それはあくまでもシエンナを意識しての事だったはずだ。あくまでも、オリジナルの存在を凌ごうと血気に逸る形だったのだ。それが今は対立軸なしに動いている。なぜ、どうしてと考えるうちに、閃きにも似た思考が脳内を駆け巡った。


「なぁシエンナ。もしかするとマキーニャの反抗は、ニコラの見えざる特性が絡んでいるのではないか?」


「えっ? そうかもしれませんが、今は目先の話に集中しましょうよ。それについては後でじっくりと考えてください」


「まぁ、確かに。その通りだ」


 気を取り直して、改めてマキーニャと向き合う。剣呑とした気配は消えているが、依然として横に退くつもりは無いらしい。膠着して動かぬ事態にシエンナは焦れてしまい、いよいよ語気を強めて言い募った。


「いい加減に聞き分けてくれないかな。歯磨きしないと大事になるって知らないの?」


「私の見識を甘くみないでください。虫歯は病の範疇になるので、回復魔法で治療はできません。ゆえに蝕まれたなら、抜く以外に対処法は無いのです」


「そこまで理解してて何で邪魔をするのよ」


「明日の笑顔より今日の笑顔を大切にしたいからです。たとえ未来の為であっても、今現在が苦痛に塗れるなど、断じて認められません」


「それっぽい事言ってるけど、要は問題を先送りにしてるだけじゃないの。つべこべ言わずどきなさい!」


「やるか豚足。やかましい口が利けぬよう細切れ肉にして差し上げましょう!」


 こうなっては問答無用。両者ともに全力の拳が繰り出されると、室内の空気が激しく震え、無数の埃が舞い上がった。勝つのは龍の拳か、それとも金属の塊か。 もはや観客同然となったメイは、手に汗を握りしめて成り行きを見守った。


 だが、勝負はつかなかった。再び間に入ったエイデンが容易く受け止めてしまったためだ。どちらの拳も魔王の手のひらに収まり、孕んでいた闘気は瞬時に霧散した。


「よさないか。殴り合いによる解決など、根本的な解決にはならんだろう」


「だったらどうしろって言うんです?」


「マキーニャの言葉にも一理はあるのだ。今が苦痛に塗れていては意味がないと。それは即ち、本人のためであっても、辛すぎてはダメという事だ」


「まぁ確かに、無理やり強要するとトラウマになったりしますけど」


「互いの意見を取り入れれば、答えは自ずと明らかになる。ニコラを楽しませつつ磨くのだ」


「……そんな都合の良い話がありますかね」


「やってみるしかあるまい」


 こうしてエイデンの音頭により、歯磨きシフトは組まれた。早くもニコラは、口を『への字』に曲げてグズりだす。


 本格的に泣き出す前に、エイデンは先手を打った。自身の左右の目尻に指を当て、皮を眉間の方へと集めた。変顔である。一応は美形で通っている男であり、自発的におどけるような気質でないのだが、この瞬間だけは特別だった。


「あはは! おとさん、おもしろーい!」


「気に入ったか。他にもあるぞ」


 それからは頬に両手を当てて後ろに引っ張ってみたり、鼻の下を可動域の限界まで伸ばしてみせた。どれも好評で、ニコラは手を叩いてまで喜びを示した。機嫌は随分と良くなったらしい。


「シエンナ、今の内に磨いてくれ」


「ええ!? 陛下の顔が面白すぎて目が離せないんですけど」


「お前まで夢中になってどうする。早く致せ」


「わ、わかりました」


 シエンナはニコラを背中から抱き、横から覗き込みながら挑戦した。すると、先ほどまでの騒ぎなど無かったように、いとも容易く磨く事ができた。それこそ拍子抜けするくらいスムーズだったのだ。


「よし。今後はこの手法でやるとしよう。マキーニャも文句なかろう?」


「もちろんでございます。エイデン様のご厚情には言葉もありません」


「明日からはお前が磨け。ニコラの気を引く役目は私が負う」


「差し支えなければ、日替わりで私と代わっていただけますか。御子様の笑顔を一身に浴びる、またとないチャンスですので」


「まぁよかろう。ならば交代制とする」


 本日のお題はこれにて完結。シエンナはすっかり乾いた髪を掻き乱しながら、部屋から退室した。それからはエイデンもニコラを寝かしつけ、後事をメイとマキーニャに託して居室へと戻った。真っ先に向かったのは本棚だ。思いつくままに本を漁り、目当てで無いと分かるなり足元に放った。


「ううむ。これでも無いか。一体どこに記述があったやら」


 ニコラの特性と思しきものについて、エイデンには薄っすらと心当たりがある。しかしおぼろげな記憶であるために、中々お目当ての書物が見つからなかった。あれでもない、これでもないと探すうちに、足元は多数の本で埋まっていく。


 そんな折の事。夜更けというのにドアが鳴る。入室を許すと、小さく息を切らしたクロウが現れた。顔色もいつもに増して青ざめさせている。


「夜分に恐れ入ります。火急の用件ゆえに、真っ先にお伝えすべきと判断しましたので」


「構わんが何事だ? きっと悪い報せなのだろうな」


「仰る通りです、分かりますか?」


「これほどに『顔に書いてある』という言葉が似合う光景もあるまい」


 クロウはたしなめる口調にハッと気づき、眉間を指先でほぐした。それから長い呼吸をひとつ取り、再びエイデンに視線を注いだ。先ほどよりも意思の強い瞳で。


「とうとう恐れていた事が現実となりました。近々、元老院より使者が寄越されるとの報せです。明言されてはおりませんが、詰問であるのは確実かと」


「そうか……。想定よりもずっと早かったな」


「ともかく準備をせねばなりません。明日の朝に、城の者をかき集めて対応します」


「任せた。委細も朝のうちに詰めよう」


「承知しました。それでは、今宵はひとまずこの辺りで」


 クロウが静かに扉を閉め、立ち去っていった。重たい静寂のなかで、本を閉じる音が呑気に響き、まるで気持ちの切り替えを迫るようだった。ともかくニコラの特性については後回しである。今は降りかかりつつある火の粉を払わねばならない。


 難題が片付いたかと思えば、また別のものが押し寄せてくる。いかに魔王といえど、しがらみからは逃れられない。そんな自嘲めいた笑いとともに、エイデンは椅子に腰掛けて思案にくれる。天井にさまよわせた瞳は、顔も知らぬ来訪者だけを見ていた。

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