第34話 天辺に向かって

 強い日差しがギラついたのも束の間だった。エイデンの領地は、大陸でも寒冷地にあたるので、真夏日は冬季に比べてひどく短い。それでも不快な汗から解放されたとあって、ニコラはすこぶる機嫌が良い。今のように、空をノンビリと飛ぶ時などは尚更だ。


「ニコラ、あまり身を乗り出すんじゃない」


 父の肩車で寛ぐ娘は、眼下の光景が新鮮に見えて仕方がない。その為に両手を伸ばしてひっくり返り、両腿を絞めてぶら下がるという有り様だった。割と無茶な体勢である。


「へいきだもーん。だいじょぶだもーん!」


 最近のニコラは口が達者になり、また一段と扱いが難しくなっていた。父として成長を喜んではいるのだが、悩みの種が尽きないことは地味に辛い。


 そんな日々での遠出は、ニコラを遊ばせる目的なのだが、エイデンの気晴らしも兼ねていた。親子水入らずで静かに過ごしたい。そんな欲求から選ばれたのは、近場の森にひっそりと佇む泉だ。人里からは遠く、鈍足でも半日とかからない位置にあるので、彼にとって望ましい観光地なのだ。


「さぁ着いたぞ」


「わぁぁきれいー!」


 眼を見開いて喜ぶニコラの脇で、エイデンも思わず感嘆の息を漏らした。上空で見かけた以上に美しい光景であったからだ。


 泉の水質は良好で、底が見渡せる程に透明だ。さらに水面が昼の日差しを弾くので、一層に輝いて見える。水辺に咲き誇る花々も眼に優しい。人為の及ばぬキャンパスは何と美しき事か。そして、それらを額縁のように囲む森の木々も捨てがたい。時おり風に踊る枝葉が、サラサラと心地よい音を奏でてくれるのだから。


 瞳を閉じれば、魂の浅傷が塞がるような思いになる。王としての荷を降ろすには絶好の場所であった。


「おとさん、あそこ! ウサギさん!」


「本当だ。水を飲みに来たのだろうな」


「わぁーーい、あそぼあそぼ!」


「待て、ニコラ。そんなに騒いでは……」


 逃げられるだろう、と思った。それこそ脱兎の勢いで。小心で、戦う術を持たない生き物は、とにかく足が速いものだ。


 しかし、結果は意外な所に着地した。ウサギは弾かれたように顔を上げたのだが、機敏に動いたのはそれまでだ。体をニコラに向け、まるで出迎えるようにして水辺から離れようとしない。終いには腹や背を撫でさせたのだから、驚きである。


「こやつ、人に慣れているのか? いやまさか」


 エイデン城からはもちろん、ニンゲンのテリトリーからも遠い緩衝地帯だ。人影を見つける事すら困難な場所で慣れる道理は無い。


 そんな違和感も、食事時が近づく頃には忘れてしまった。


「ニコラ。そろそろお昼にしようか」


「ごはん? たべるぅー!」


 準備に抜かりはない。包み布を草地の上で開いてテーブル代わりとした。献立はニコラに小麦パン、山羊乳、ボイルドフィッシュに温野菜。自分にはハムとレタスのサンドイッチを用意した。


「おいしいね。ごはん、おいしいね!」


 ニコラの笑みが陽射しに映える。それだけでエイデンの胸は満杯となり、食の進みは緩やかだった。ありきたりな食事よりも、眼前から授かる暖かな潤いの方が遥かに尊く思えたからだ。


「おとさん。おやつ、おやつ!」


「もう食べ終わったか。ではデザートだ」


 手渡したのは皮付きのバナナ1本。小振りなサイズであっても、ニコラにとってはゴチソウなのだ。


「やったぁーー!」


 小躍りの後、泉に向かって駆け出した。しるとその刹那、小石につまずいて派手に転んだ。その拍子でバナナも宙に舞い、やがて落ちた。


ーートプン。


 運の悪いことに、デザートは泉の奥へと沈んでいった。水深は見かけよりも深く、手の届かないまでになってしまう。


「どうしよう、どうしようーー!」


 ニコラが嘆きの声をあげる。仕方ないなとエイデンは立ち上がり、泉のほとりへと向かった。


 水中に足を踏み入れようとしたその時、強い気配が迫るのを感じた。魔力の集約が始まり、何者かが現れようとしているのだ。


「ニコラ、お父さんの後ろに」


 娘を庇うようにして身構え、成り行きを見守った。水面からは光の粒子が浮かび上がり、軌跡が人の形を描く。すると次の瞬間には、宙に何者かが出現した。


 妙な眩しさを放つ男だ。それもそのはず、白金色の長髪に、純白のローブという容貌なのだ。ただでさえ陽射しを弾くのに、全身からは光の粒を溢しているのだ。直視するには眼が痛むようである。


「何者だ?」


 エイデンの問いに、男は微笑みで答えた。そして懐から、落とし物のバナナを取りだし、掌に乗せて差し出した。


「あなた方は先程、こちらを落としましたか?」


 ニコラがそちらを凝視しながら頷く。すると男は満足したような笑みとともに、優しく告げた。


「正直な人ですね。あなたにはきっと、精霊の加護があることでしょう。では、ごきげんよう」


 男は全身を輝く粒子に姿を変え、水底へと消えた。それからは何が起こるでもなく、静寂があるばかりだった。


「何だったのだ、今のは……」


 流石のエイデンも理解が及ばず、呆気にとられてしまう。


「おとさん、ニコのバナナは?」


「そうだった! 待っていろ、今取り戻してやるからな」


 ニコラの涙腺は崩壊寸前だ。エイデンは静かな怒りを湛えつつ、水面に近寄り、水中に手を浸した。そして、魔法の予備動作として魔力を放つ。警告である。


「バナナを返してもらおう。さもなくば、我が炎によって泉を干上がらせるぞ」


「うわっ! ちょっと待ってくださいよぉ!」


 反応は早かった。水面が盛り上がったかと思うと、先程の男が全身をズブ濡れにして現れたのだ。髪も風呂上がりのように水が滴っており、今度は神々しさの欠片もない登場となった。


「何ですか。さっきの果物は精霊たる僕に捧げたんでしょう? 今さら取り消すだなんて困りますよ」


「そのつもりは無かった。あれは娘の物だ。さっさと返してもらおう」


「ハァ? どこの魔族さんか知りませんがねぇ。ここはそういうルールでやってるんですぅ!


「そんな決まりなど聞いた事もない。立て看板のひとつも無いだろう。事情を知らぬ側からしたら、奪われたも同然だ」


「うっせぇオッサンだな。あんま調子こいてると、精霊主を敵に回しちゃいますよ? 万を超える精霊軍が相手になりますよぉ?」


 泉の男は顔を醜く歪めていた。瞳孔の開いた瞳でエイデンを睨み、人差し指でこめかみを2度、これ見よがしに叩いた。


 そして極めつけには罵倒の言葉だ。


「バァーーカ! 喧嘩売るなら相手を見てからにしろよ老害!」


 直後に、辺りで不穏な音が響いた。それは遥か彼方で巨獣が地ならしをするもの、或いは、航行中の船底を巨大イカが叩くのにも似ていた。このとにかく重苦しい音は、エイデンの鼓動である。そうして生み出されたのは漆黒の衣だ。


 憤怒が魔力の巡りを強く促す。そのため、いつもよりも一際暗い見映えであった。


「そ、その衣! アンタ、いや、あなた様はもしかして!?」


 泉の男から血の気が引いていく。まさか目の前の魔族が、悪名高き『暗黒の覇者』とは考えもしなかったのだ。喧嘩を売る相手を間違えたと悔やんでも、もう遅い。怒りの導火線は既に走り始めている。


「覚悟は出来たか。精霊がいかに群れようと物の数ではない。押し寄せる兵とやらを全て討ち果たし、絶滅へと追い込んでくれよう」


「い、いやいや! ちょっと落ち着きましょうよ。たかがバナナ1本くらいで大戦争とか、どう考えても釣り合わないでしょ!」


「たかがバナナだとッ!?」 


「ヒェッ! 気に障ったらすいません、でも割に合わないのは事実じゃないですか!」


「娘が奪われたのは、単なる果物ではない。授かるべきであった幸福だ、至福の未来だ、権利だ! それを横から現れた貴様が、唾を吐きかけて踏みにじった!」


 漆黒の衣がエイデンの意思を受け、まるで焔のように揺れる。殺意も、その隅々にまで込められていた。


「その咎。命をもってして償ってもらおう」


「勘弁してくださいホント! こんな綺麗な憩いの場を血で汚したら勿体ないでしょ? ここはどうか穏便に、穏便に!」


「ならば返せ。即刻だ」


「そればっかりは無理なんです! 捧げ物は主に送っちゃったんで、手元には無いんですよぉ」


 これは真っ赤な嘘である。バナナは男の腹の中に収まっているので、返しようが無いだけだ。もちろん正直に答えないのは、怒りの矛先をかわす為である。しかし、小細工の通用する場面でも無かった。


「そうか。では死ぬがよい」


「んんん待って! 実は捧げ物によって、返礼品があるんですよぉ」


「何だと? ならば何故出さぬ」


「ちょーっとばかし忘れちゃってて、エヘヘ。僕ってばウッカリさんだから、ごめんなさいねぇ」


 白々しいにも程がある。命惜しさに飛び出したデマカセであるのは考えるまでもない。


 エイデンはちらりとニコラを見た。娘は泣きじゃくりながらも、泉の男を強く睨み付けている。


「ならば代わりと成る物を持って参れ。泣き止む程の物をだ」


「わかりましたぁーーッ!」


 男は勢い良く水中に飛び込むと、泉の最も深いところまで潜った。


 待つことしばし。男は魚介類でも獲ったようにして、品を掲げながら水上に現れた。それは地味な布地のケープであり、当然の事ながら水浸しでビッチャビチャである。


「どうですかコレ。これからの季節にピッタリでしょう?」


「このデザイン、明らかに老人向けの物だな」


「まぁまぁ。一番の目玉は精霊の加護付きってとこですから。見た目なんか二の次ってもんですよ」


 男は十分に水気をきってから、ニコラの肩に優しくかけた。


「加護とは具体的にどんなものだ?」


「このケープにはですね、肩関節が良くなる願が込められてるんです。腕を上げ下げするのも辛くなくなります」


「ふざけてるのか貴様は」


 ニコラも気に入らなかったらしく、苛立ちとともに投げ捨てた。エイデンの拳に魔力が集まり始めるのを、男はどうにか宥め、再び水の中へと潜った。リトライである。


「お待たせしました、今度はいかがです?」


「それは、スカートか。またもや地味だし、そもそも大人用のサイズではないか」


「いやいやいや、これはそんじょそこらの衣服じゃありませんって。すんごい加護が込められてますから」


「念のため聞いておく。どういったものだ?」


「膝の曲げ伸ばしがビックリするほど楽になるんです。階段の昇り降りなんか特に顕著で……」


「うちの娘が関節で難儀しているように見えるのか?」


 エイデンはとうとう痺れを切らし、本格的に魔力を高めだした。一帯には生暖かい風が生じ、殺気で満ちていく。敏感な野生動物などはとうに逃げ去っており、付近は不気味な程に静まりかえっていた。


「もう茶番は要らん。やはり貴様を血祭りにあげ、娘の傷心に報いるとしよう」


「待って待って! こんな愛らしいお嬢様が、グロいもん見て喜ぶワケが無いでしょう?」


「楽しませるつもりは無い。けじめの大切さについて教える為だ」


「待ってくださいマジで! 次はホントにヤバイくらい良い物を出しますからぁ!」


 男は両手で光の珠を作るなり、ニコラに向けて放り投げた。すると、小さな手首が眩く光り、軌跡が幾何学模様を描き出す。 時を経るごとに輝きは落ち着きをみせ、気がつけば、ニコラの手首に金色のブレスレットが嵌められていた。意匠は空を舞う鳥がモチーフで、遠目に見ても立派な装飾品に思えた。


「あれは何だ?」


「奥の手ですよホント。もう赤字覚悟のご奉仕ってやつですから」


「赤字だと? やはり貴様は、この泉で荒稼ぎをしていたのか?」


「んんーー、そんな事よりもホラ。加護の話をさせてくださいよ」


「まぁ良い。続けろ」


「あれはかなりの優れものでして、所有者の成長に合わせて大きくなるんです。だから年齢に合わせてリサイズする必要もありません」


「そうか。で、加護は?」


「身につけている間、特性が宿るようになります」


「特性だと?」


 エイデンはニコラが居た方へと顔を向けた。しかし既にそこにはおらず、影も形も無い。慌てて四方を見回していると、頭上からあっけらかんとした声が降り注いだ。


「おとさん、こっちこっちーー!」


 上を向いたなら、ニコラが木の天辺で戯れる姿があった。極めてか細い枝先であっても、どういうワケか、難無く直立してみせた。


「おい。これがその特性とやらの影響か?」


「そうですね、軽業っていう、めっちゃ希少な性質ですよ」


「軽業……か」


 エイデンは目の前が暗くなる思いだ。ただでさえ目が離せない年頃であるのに、更に磨きがかかってしまうからだ。一応ニコラに、返却していいか尋ねてみる。だが敢えなく拒否。早くもお気に入り枠に加えられてしまったのである。これで不本意ながらも、泉の男を許さざるを得なかった。


 この日を境に育児は過酷さを増し、一層の気配りが必要となった。うかうかすると、そびえ立つ塔の先端で遊びだしかねないからだ。父エイデンの安らぎは未だ遠く、奮闘する日々は続くのだった。

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