第32話 冥界から見る夫
冥界。そこは陽の光が差す事の無い世界。上を向けば暗雲立ち込める夜のようであり、永遠の闇が広がっている。しかしその一方で、床や壁には無数の閃光石の原石が植わっているため、住民たちも光源に困らずにいられる。それは死人として暮らすレイアも同様だった。
彼女は手桶に満たした水を、おもむろに地面へばら撒いた。短い詠唱のあとに魔力を飛ばしたなら、水面はとある光景を映し出す。跪いて覗き込むと、石造りの城内で寛ぐ2人が見える。エイデンとニコラだ。冥界の人となって日の浅い彼女だが、界隈の条理については理解しきっていた。
「おや。レイアも帰ってきたんだな」
恰幅の良い女が現れるなり、親しげな声を出した。彼女は名をコーエル、羊人(ようじん)という種族である。頭の小さな二本角と、白く柔らかな毛髪が特徴的だ。両者に生前の面識は無いが、冥界入りして以来の友人なのだ。
「帰宅早々、地上の観察かい? お供え物でも食ってノンビリすりゃ良いのに」
特に断りもなく、隣にドカリと尻を降ろした。両手に抱えた食品は膨大であり、どれから手をつけようかと舌なめずりする。
しかし、喜色満面の友人とは違い、レイアは両目に涙をこんもりと溜めていた。
「どうしようコーエル。とうとう言っちゃった!」
「言った? 何をだよ」
「再婚しても良いよって、私に気遣いはいらないって」
「そういや散々悩んでたよね。結局言うことにしたんだ」
例の宵を迎える直前まで、コーエルは延々と相談に乗っていたのだ。だから詳しい経緯を聞かずとも、概ね話を想像出来る。そんな彼女であっても、レイアの焦燥ぶりには理解が及ばない。
「どうしよう! エイデンの側には、そりゃもう可愛い子がたっくさん居るのよ。これじゃすぐに再婚されちゃう!」
「それの何がダメなんだよ。オッケー出したんだろ?」
「だって、いつまでも私の事引きずってても可哀想だし……」
「じゃあ再婚してくれた方が良いじゃん」
「でもね、アッサリ乗り換えられても嫌なの。もし仮に、若い巨乳の娘とか連れてきたら、なんか腹立つし」
「クソめんどくせぇ女だな、アンタは」
コーエルは弛んだ胸と腹を揺さぶりながら笑った。悩み事とは時として、喜劇にも映り得るものだ。
「だからこうして眺めてんのかい。んな事したって、アタシらにゃ何にも出来ねぇだろうに」
「気になるじゃないの。夫がこれからどう過ごすか。ヒャッホウって感じで女漁りを始めるかも」
そんな不安をこぼしていると、水面は一人の女を映し出した。ナテュルがニコラの部屋を訪ったのだ。軽食を片手に現れたのだが、注目すべきは彼女の衣装である。胸元が大きく開いた服を身に纏っており、視覚で惑わす気なのは明らかだった。
「ほら、ほら、早速来たよ! いきなり爆乳がドーンって!」
「落ち着きなよ。別に野郎全員が乳好きって訳じゃねぇだろ」
「でもさ、こんな綺麗な娘よ? なんかこう、ウホホッてなっちゃうんじゃないの?」
「アンタは良家のお嬢さんだろ。さっきから語彙がヤバイっての」
「ああぁ、こんなにもユッサユッサさせてからに……」
「聞いちゃいねぇな、うん」
エイデンは愛娘主催のおままごとに招待されているので、絨毯に直接腰を降ろしている。つまり、ナテュル超有利。彼女はほんの少し前かがみになるだけで、煩悩兵器(きょにゅう)を遺憾なく見せつける事が出来るのだ。重力と筋力の狭間で揺れる肉。それがどれほど男ゴコロを惑わせるかは、計り知れない。
「見てよ、もうボヨンボヨンじゃん! こんなの揉みしだきたくなるに決まってるじゃぁあん!」
「アンタね。少しくらいは自分のダンナを信用してあげなよ」
「嫌だぁぁ! 愛する人が他人の乳でウヘェってなる所だけは見たくないぃぃ!」
「話聞けよコラ」
もはやレイアにとって直視できる現場では無い。両手で顔を覆い、指の隙間から覗き見るという有様だ。極限まで薄く開いた視界が映す現実は、そして紡がれる未来は、時間軸に則って明らかとなる。
ーーこれは旨そうだな。ありがとう、後でいただくとする。
ーーええと、エイデン様。他に何かねぇべか?
ーー他、とは?
ーーたとえば、ほら、この格好! どう思うべ?
ーー夏らしい涼しげな服だと思う。だが風邪には要注意だ。昼は良くとも夜は冷えるからな。
ーーああ、はい。気をつけんべよぉ……。
ナテュルは顔を真っ青にして退室した。防衛の成功である。それにしても、『素朴・令嬢・爆乳』の3要素を持つ刺客に揺らぎもしないあたり、エイデンの守備力は相当なものだと言えた。
この結果には冥界の観客席からも、意外そうな声があがる。
「えっ、嘘でしょ? めっちゃ平然としてんですけど」
「そんな驚く事か? 割といるよ、こういうタイプ」
「でもでも、まだ分からないからね。他にも色んな美人さんが居るんだから」
「ちょっとは素直に喜べよ」
第二の刺客はマキーニャである。エイデンが離乳食を作るため、自室へと戻った所を急襲したのだ。下着姿で出迎えるという、かなり思い切った手段を用いた。しかも彼女は全身が可変であるため、抜群のプロポーションを整えてみせたのだ。
「あああぁ、ヤバイよこれ! 誰の眼も憚(はばか)らないじゃん! ベッドも目の前にあるし、これはもう1回戦始まっちゃうでしょ!」
「そうかぁ? アタシが男だったら嫌だけどな。夫婦ならともかく、知り合いでしかない女がこんな迫り方したら」
「分かってないなコーエルは。男ってのはね、発散できるなら考えなしに飛びつくもんなの!」
「その社会通念はどこで歪んじまったんだ?」
外野が落ち着くのを待たず、答え合わせは始まった。結論から言うと、2度目の防衛成功だ。エイデンはベッドのシーツを剥ぎ取り、荒々しくマキーニャに被せてしまった。
ーー悪ふざけも大概にしておけ。私はこれから大事な仕事を控えているのだぞ。
ーーふふ。こちらとて酔狂ではありません。崇高なる目的の為に肌を晒す事にしたのです。
ーー何だ、その目的とやらは?
ーー言わずもがな。私のオリジナルである豚足女を出し抜く為です。あの女よりも先に端くれ様と一発かませば、どちらがより優れているか判別が……。
ーー邪魔だ、出て行け。
ーーイエス、ゴミ貴人。
マキーニャは唾を吐き捨てる仕草ののち、部屋を後にした。このやりとりで諦めたらしく、再度迫る様子は見せない。
「アンタのダンナ、結構モテるんだね。まぁ当人からしたら、ありがた迷惑ってヤツかもしんねぇけどさ」
「断っちゃうんだ。手を出そうと思えば、簡単だったろうに」
「これで安心しただろ。少しは信用してあげなよ」
「いや、まだまだ! もうすぐ本命が来るだろうからね、その時も同じセリフが吐けるかな?」
「なんで敵サイドみたいな言い草してんだよ」
本命とはもちろんシエンナである。今日も今日とてエイデンの『ご指名』により、ニコラの部屋に呼び出される事になった。
ーーはいはいはい。何かご用ですかっと。
ーーよく来てくれた。ニコラが離乳食を食べようとせずに遊んでしまうんだが、どうすれば良い?
ーーあぁ、これはなぁ。解消が難しいヤツですね。空腹感よりも好奇心が勝ってるだけの状態なんで。
ーーとなると、打つ手無しか?
ーーとりあえず、食事に関心を向けるしかないですかね。
ーー具体的には?
ーーうぅん、どうしましょうかね。
2人は頭を捻り、試行錯誤を繰り返した。最終的には、料理を乗せたスプーンでクルクルと円を描き、楽しげな雰囲気を出してから食べさせるという手法が取られた。他にも擬音をつけたりなど、何かしらの変化で食事が進むようになる。ある程度の改善が見られると、シエンナは足早に部屋を後にした。レイアがうそぶく様な、ドラマの欠片すらも見せないうちに。
もちろん冥界でもリアルタイムで確認済みだ。しきりに首を捻るレイアの隣では、コーエルが荒い鼻息を吐いた。
「へぇぇ、これが本命だって? 一番素っ気ない感じだけどねぇ」
「うん。あれ? おかしいなぁ……」
「アンタはどんな風になるって予想してたのさ?」
「ええとね、『よし服を脱げ、褒美に貴様の体を味わい尽くしてやろう!』みたいな展開を」
「分かった! アンタ舞台とか小説好きでしょ? それも略奪愛みたいなやつ」
「お城にユーミルって子がいてね、その子が面白い物語をたくさん教えてくれたのよ」
「それだ! 絶対それが原因だって!」
合点がいったとばかりに、コーエルは自身の腹を強く叩いた。パシンと景気の良い音が鳴り響く。
一方でレイアは毒気を抜かれた様になっていた。安堵した風にも見えるが、やはりどこか落ち着かない様子だ。今日は良くても、ずっと愛を貫いてくれる保証など、どこにも無いのだ。
「つうかさ、アンタも悪いんだよ。ちゃんと気持ちを固めてないから」
「気持ちって?」
「結局のところ、どんな未来だったら幸せなのさ? 問題は再婚するしないじゃ無いんだ。どんな形に収まるのが理想かを、考えていない事が問題なんだよ」
「理想かぁ……」
「そこを押さえときゃ、いちいち気に揉む必要も無くなんだろ。旦那がどうフラフラしようが、デェンと構えて居られるってもんさ」
レイアの視線は水面に注がれたままだ。そこには、変わらず子育てに奮闘する、愛すべき人の姿があった。
「一応、覚悟はしているの。エイデンはこれでも大貴族だから、ゆくゆくは再婚して、側室もたくさん持つだろうなって」
「だろうな。王侯の身分の人が、子供一人って訳にもいかねぇだろ。お家を繁栄させなきゃならんだろうし」
「だからね、多くの人と関係を持つのは、仕方ない事だと思ってる。それは私が生きてる頃から考えていた事なの」
「そんで、アンタはどんな未来だったら満足すんの?」
その時、現世を映す水面に一枚の絵画が見えた。在りし日のレイアを描いた自画像である。
「私を忘れないで居てくれたら。どんなに多くの妾がいても、私への愛情も残してくれたら、十分かな」
「それで良いのかい? だったら次の宵に伝えてごらんよ」
「言っちゃって平気かな? 面倒な女って思われない?」
「夫婦にもなって変な隠し事すんじゃないよ。それに随分と愛されてんだ。きっと真正面から受け入れてくれるだろうさ」
「そう……かもね」
話が終わるなり、レイアは両手にお供え物を呼び出した。エイデンだけでなく、領民からも頻繁に供えられるので、質と量ともに相当なものとなっている。
「安心したらお腹空いてきちゃった。一緒に食べよう」
「おうよ。そうこなくっちゃな!」
「不思議だよね。餓え死にする心配なんか無いのに、ご飯は食べたいって感じるんだから」
「心が求めてんだろ。そんくらいの刺激が無くちゃ頭がボケちまうよ」
それからは互いの食べ物を並べ、心ゆくままに食べ進めていった。エイデンから受け取った珍味は極めて味わい深く、またコーエルの差し出した郷土料理も癖が強く、しかし後を引いて止まらなくなる。2人だけの宴会は、ネタが尽きるまで延々と続けられた。
その後、レイアは全身がポチャっと膨らんだ事に気づく。暴飲暴食のツケが回ってきたのだ。なぜ死人となった今でも、肥満に悩まなければならないのか。そして腹と尻だけが太り、胸が一向に大きくならないのは何故か。この理不尽な結末も、冥界の条理として覚えておくしかなかった。
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