第31話 空が次に白む頃

 レイアはベッドの傍らで跪いた。伸ばされた両手は震えており、静かに、優しく小さな顔を包み込んだ。


「ニコラ……。ああ、私の可愛いニコラ……」


 湿り気を帯びた声である。感じ取れるのは歓喜、哀しみ、そして悲痛なほどの愛。エイデンにかける言葉などあろうか。ただ背後に立ち尽くし、成り行きを見守るだけである。


「見て。手が随分大きくなっているわ。去年はそれこそ、指先くらいしか無かったのに」


 レイアが呟きながら、自身の手を重ね合わせた。それは慈しむようであり、また、感触を確かめるようでもあった。


「まだ小さい。それこそ、守ってやらぬと消え入ってしまいそうなほど、儚い」


「貴方は毎日見ているから、そう感じるのよ。一年も経つと、子供はこんなにも育つものね」


「魔王種の血を引いている。だから成長が早いのだろう」


「そういう意味で言ったんじゃ無いわ」


 潤んだ瞳が小さく笑う。すると、盛り上がった涙が頬を伝って落ちた。


「それよりも起こそうか。せっかく会いに来たのだから」


 レイアの肩がピクリと震える。答えはすぐに返されはしなかった。相変わらず、真っ直ぐな瞳をニコラに注ぎ続けるだけである。


 どれだけ時間が流れただろうか。やがてポツリと言葉が返された。


「やめておくわ。この子にしたら、夜中に起こされて、知らないおばさんと対面するようなものでしょう。可哀想だわ」


「良いのか? 大泣きするかもしれんが、もっと触れ合いたいだろう」


「もう少し大きくなってからで良いわ。ある程度、物事を理解できるようになったらね。もしこの場で『お母さんよ』だなんて告げても、混乱させちゃうだけだもの」


「お前がそう言うのなら」


 レイアはそれからもニコラの頭を、頬を撫で続けた。無言だが、口元がしきりに動かされている。かけてあげたい言葉がいくつもあるのだろう、と思う。


 しばらく待つと、レイアが立ち上がった。そしてエイデンに向かって頷く。気が済んだというサインである。


「では移動しようか。ここでは騒がしく出来ん」


「そうね。そうしましょう」


 2人が足音を殺しつつ扉へと向かった。その途中でレイアは何度も振り返ったが、ついには部屋を後にした。


 それから向かったのは3階のバルコニーだ。2人掛けのテーブルの上には、上等なワインと軽食が用意されている。夜景を愉しみながら酒を汲み交わそうというのだ。


「綺麗ね……、城の様子も随分と変わったものだわ」


「外側に街を広げた。人もだいぶ増えたはずだ」


 今宵の街はいつもに増して華やかだ。ほとんどの家屋で灯りが煌々(こうこう)と輝いており、各々が存分に招魂の宵を満喫しているようである。


「それでは、再会を祝して」


「乾杯」


 ワイングラスをキンと鳴らし、微笑みを交わした。エイデンは滅多に酔うことは無いが、レイアは下戸である。死者の身になっても同じかどうか尋ねた事はない。他に話しておきたい事はいくらでもあるのだ。


「ありがとうね、あなた」


「唐突だな。何がだ?」


「ニコラの事よ。冥界から見てるけど、ずっと傍に居てくれてるのね」


「今際のきわに、寂しい想いをさせるな、と言ったのはお前だろう」


「そうね。だけど、あそこまで徹底してくれるとは思わなくって」


 レイアが愉快そうにコロコロと笑う。何がおかしいのか、エイデンには理解が及ばなかった。


「今の私にとって、ニコラが全てだ。もしもの事があったなら……」


「あったなら?」


「あらゆる生命を滅ぼし、大地に呪いをかけて不毛の地に変え、最後は万年の眠りにつくことだろう」


「じゃあ平穏な日々の為にも、シッカリと育てないとね」


 レイアは、夜景に目を移しながらグラスを傾けた。


「冗談で言ったのではない。本気だ」


「分かってるわよ。あなたなら本当にやるでしょうね。私が死んだ時だって大暴れしたでしょう?」


「そうだったらしいな。覚えていないが」


「せっかくニンゲンの城を無傷で落としたのに、滅茶苦茶に壊しちゃうんだもの。下界の様子が気になって気になって、おちおち冥界に旅立てなかったわ」


「死人は出さなかった。不幸中の幸いというものだ」


「修繕費は高かったみたいだけどね」


 レイアは少し意地悪っぽく言うと、スライスパンに手を伸ばした。塩漬けした鮫の卵を乗せたので、咀嚼も幾分か長めだ。他にもチーズの種類なり、燻製肉なり、全てレイアの好物を揃えている。少しでも濃い時間をと思えばこそだ。


「ともかく、ニコラの事は心配するな。私が傍を離れぬし、城のものも何かと手伝ってくれている」


「そうね。でも、あのお嬢さんに頼りすぎじゃない?」


「シエンナの事か?」


「ええ、その子よ。しょっちゅう呼び出すだなんて、よっぽど気に入ったのかしら?」


「頼りになるし、何よりも事情を理解している。下手な医師よりもよほど信頼している」


「本当にそれだけかしら」


「どういう意味だ?」


 レイアは答えない。薄目を開いたまま夜景を眺め、グラスを傾けるばかりだ。エイデンは急かすでもなく、チーズのひとつに手を伸ばした。今日もやはり、酔う気配はほとんど感じられなかった。


「再婚しても良いんだからね」


 その囁きは唐突に思えた。真意が理解できず、エイデンはその横顔を見た。相変わらず薄く開かれた瞳からは、多くの感情を読み取る事が出来ない。


「何を言い出すかと思えば。そのつもりは無いぞ」


 本心が口から飛び出た。相手の気持ちはさておき、自身の意思を明らかにしておいた。


「十分すぎるほど愛して貰ったわ。共に歩めた時間は僅かだったけど、短い人生の中で一番に輝いているもの」


「それはこれからも変わらない。いつまでもお前を愛し続ける」


「私はもう死んでしまったのよ」


「だが会える。来年も、再来年も、その次もだ」


「だけど、あなたにはもっと幸せになって欲しいの。いつまでも私に構わず、他の人を……」


 エイデンは反論よりも先に手のひらを向けた。そこでレイアも口をつぐむ。


「止めよう、こんな話は。もっと愉快なものにしないか」


「そうね。ごめんなさい」


 それから2人は自然と昔話に華を咲かせた。レイアはしきりに、出会った当初は恐ろしかったと溢す。エイデンとしては、今とそれほど変わらないと思っていたのだが、全くの別人だと言って譲らない。夫婦という親密な間柄であっても、認識のズレというものは避けられないのだ。


 会話は記憶を辿るように紡がれていく。婚姻は両親の反対を押し切った形になり、駆け落ちを余儀なくされた事。やがてエイデンに地上の遠征命令が下り、レイアは身重のまま従軍した事。今離れてしまえば、二度と会えなくなると確信したからだと言う。その言葉も初耳だったエイデンは、小さくない衝撃を覚えた。やはり、聞いてみなければ分からないものは多くある。


「あの時は理由を教えてくれなかったな。そして、随分と頑なであった」


「ずっと悪い予感がしてたのよ。口に出さなかったのは、現実になるのが恐ろしかったからね。まぁ、実際そうなっちゃったけど」


「もし魔界で療養していたら、長生き出来たかもしれんな」


「そうかもね。でも分からないわ。あそこに居たらゴーガン家の連中とか、必ず悪さをしただろうから」


「つまりは結果論というやつか」


「そうよ、きっと」


 2人とも、いつの頃からか東の空を見ていた。徐々に地平線からは、夜の帳が剥がされようとしている。


「さて、そろそろ行かなくちゃ」


「まだ宵のうちだ。空も暗い」


 エイデンはテーブルに乗せられた手を握りしめた。暖かな命を感じる。これが死者なハズは無いと思える程に。


「楽しかったわ、とても。また来年も会えると良いわね」


「その台詞を言うには早い」


 夜空が徐々に白みだす。すると、先ほどまで消えていた明星と冥星が、いつの間にか輝きを取り戻していた。金色と紫の光。それを忌々しく睨みつけても、どうにもならない。分かっていても怒りを空へと向けてしまう。


「それじゃあね、あなた。お健やかに」


 その言葉とともに、エイデンの手のひらから感触が消える。握りしめた拳には、もはや何も無い。空いてしまった椅子に目を向けてみる。そこには、遺品のヴェールが主人を失い、椅子の背に引っ掛けられていた。


 城下からも魂が天に昇っていくのがわかる。方々から光の粒子が浮かび上がり、ひとつ、またひとつと冥府の門をくぐろうとする。それらも、やがては見えなくなった。


 空が朱に染まる。朝焼けが眼に刺さる。人の気も知らずに昇る太陽。それを恨めしく感じる。


「まだだ、レイア」


 呟きに答える声は無い。そうと知っていても、言葉が溢れるのを止められない。


「私の夜は、まだ明けぬのだ……」


 拳に雫が零れ落ちる。夜露か何かだろうと思う事にした。次にレイアと再会した時に、笑われない為にもだ。しかし、その気持ちとは裏腹に、手元をいくつもの雫で濡らしてしまうのだった。

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