第20話 藁山に埋もれて

 物事とはとにかく移ろいやすいものだ。いかなるものも風化変化の波には抗えず、同じ姿を保つのは不可能に近い。それはエイデンが住まう城とて例外ではなかった。


 魔王軍の最前線にある城は、いわゆる牙城であり、これまでは軍の拠点という色合いが濃いものだった。しかし今や住民も増え、生産施設を多数建設した事で様相は変わった。農地に工房に伐採場や石切場などなど、自領で賄えるものは全て製作しようという、全く別の体制が整えられつつあるのだ。


 それらの施設のうち、ニコラがいたく気に入ったものがある。今日も今日とて連れて行けと、父エイデンにせがむのだ。


「ぶたしゃん、あそぶ!」


「よほど好きなのだな。良いだろう、行こうか」


「あそぶ、あーそぶ!」


 父が腰をあげるのすら待てないという喜びようだ。ニコラは小さな体を懸命に伸ばし、ドアノブを捻ろうと試みる。あとちょっと、もう少し。だがその『少し』を乗り越えられず、両手は空を掴むばかりだ。


 エイデンは背後から娘を抱き上げ、肩に乗せると部屋を後にした。そうしてやって来たのは豚舎である。ここではオークを10頭以上飼っており、中は鳴き声でやかましいくらいだ。


 入り口で担当者に声をかける。すると、奥から麻袋を手にした女が返事をした。


「おやおや、陛下にニコラ様。こんなむさ苦しい所が気に入られましたか?」


 いくらか砕けた調子だった。今やすっかり顔なじみであり、女は肥えた体を揺すりながら笑う。


「娘が遊びたいと言う。構わぬか?」


「えぇもちろん。これから餌やりをしたいのですが、続けてもよろしいですか?」


「我々の事は気にするな。いつも通りに」


「それでは失礼」


 豚舎はおおむねがオークの生活空間だ。それが2箇所に区切られており、群れを均等に分けている。柵の真下には細長の鉄器が2つ並ぶ。飼料と飲料水とで用途が異なるものだ。群れによる違いは無いので、設置された器は計4つ。そこへ殻剥きの小麦が、小気味よい音と共に投入されると、オークたちは鼻を鳴らしながら駆け寄った。


「目の前まで来たぞ。触ってみたらどうだ?」


 ニコラはそう言われるなり柵の手前まで歩き、腰をペタンと降ろした。しかし中々手を出そうとしない。その場で振り向いてはエイデンに微笑みかけ、また顔を戻す事を繰り返した。


「ニコラ様、大丈夫ですよ。噛んだりしませんから」


「それは分かっているらしい。だが、まだ怖いのだろう」


「そうですか。でもその割には、足繁く通われますよねぇ」


「うむ。好きは好きのようだ。それでも触るとなると、まだまだ先の話かもしれん」


 視線をニコラへ向けると、やはり手を伸ばしきれていない。興味津々なのだが、未知なる恐怖の方が勝っているのだ。


「御子様は繊細ですねぇ。近所の悪ガキどもなんかもう、オークの背中に叩いたりするのに」


「大丈夫なのか? これだけ小柄だと、怪我を負ったりしかねないだろう」


「それが意外にも。こう見えて割と頑丈なんです。体脂肪が多いから打撃にも強いんでしょう、アタシみたいにね!」


 エイデンは女の鉄板ネタには食いつかずに、柵の方へ眼をやった。実はこのオーク、魔界でも最小の品種なのである。手乗り豚さんの異名を持つ彼らは、戦闘にも食用にも適していないが、ズバ抜けて鼻が利く。そのため、鉱石や食料探索の際に凄まじい程の働きを見せてくれる。たとえ体は小さくとも、功績は比較にならない程に大きいのだ。


「ところで、群れを分けているのは何故だ?」


「どうやら鉱石タイプと食料タイプで、体臭が違うみたいなんです、この子らを一緒くたにすると、喧嘩が始まっちゃうんですよね」


「そうなのか。同じ生き物に見えるのだが」


「慣れないと分かりませんよね。アタシは最近になってようやくですよ、分別が付くようになったのは」


 話し込んでいると、「ポエーー!」という雄叫びが聞こえた。オークが威嚇したのである。それを間近で浴びせられたニコラは、しばらく呆然としてしまい、やがて大声で泣き出した。


「どうした。驚いたか?」


 エイデンがそっと抱き上げてやると、娘は両足で父の腹を挟み、体勢を万全なものにした。是が非でも離れないぞという意思の表れである。


「ぶたしゃんね、こわいね」


「あっはっは。今のは群れのボスですよ。そいつだけちょっと気性が荒いんで、無闇に近寄ると鳴くんです」


「そういうことだニコラ。他のヤツなら平気みたいだぞ」


「こあいーーっ!」


「あらまぁ。これで嫌われなきゃ良いんですがねぇ」


 女は苦笑を浮かべながら豚舎の隅へと向かった。そこに積み上げられた藁は、オークの寝床を整える為のものである。慣れた動きで両腕で一抱えにし、持ち運ぼうとしたその時だ。女は藁などすっかり手放し、酷く野太い叫び声をあげた。


「ヒィィ! 何だいコイツは!?」


 予期せぬ絶叫に、エイデンもすぐに顔を向けた。


「どうしたのだ、騒々しい」


「へ、陛下。これ見てください!」


 腰を抜かさんばかりの怯えようである。エイデンは僅かな警戒心とともに、女の側へと寄った。震える指が差し示すのは藁の山なのだが、そこから人の足が2本突き出ている。全く動きを見せないので、足が突き刺さっているという様にも見えた。


「侵入者……だろうか? それとも死体でも隠されていたか」


「し、しし死体ですってぇ!?」


「ともかく私が調べよう。ニコラを頼んだぞ」


「わかりました、お気をつけて……!」


 エイデンはいざ身軽になると、すぐに藁の山を払いのけた。すると中から姿を現したのはメイドの女。その傍らにはリスと思しき動物も見える。反応が一切無いのは、どちらも泥の様に眠りこけているためだった。


「ふむ。見覚えがあるような、無いような。何者だろうか」


「陛下、死体はどんな具合ですかね?」


「安心しろ。死んだように大人しいだけで、ちゃんと生きているぞ」


 エイデンの背中から女は恐る恐ると覗き込んだ。そこには言葉通りに、寝息を立てる1人と1匹があるだけだ。最初は安堵一色となった女の顔も、次第に思案を巡らせた様に変わる。


「ところで、この娘はメイドのようですけど、どこの者でしょうね? 服装がうちのと随分違いますが」


「さぁてな。それは本人に聞くのが早いだろう」


 エイデンがメイドを揺さぶりながら声をかけた。すると彼女は「んぁ?」という寝惚けた声とともに、半身を起こした。リスの方も気が付いたのか、四つん這いの姿勢をとるなり大欠伸(おおあくび)をひとつ。


 この時点で、とりあえず敵意が無い事は確信した。もし仮に暗殺者の類であれば、史上最悪クラスのドジと言っても過言では無い。


「我が問いに答えよ。そなたらは何者だ?」


「ふぇ? ここは?」


「エイデン城だ。見たところ人間では無いようだが……いかなる用があって潜んでいたのだ」


「エイ……。ああぁぁエイデン様ァーーッ!」


「ああ、やかましいな。叫ばずとも聞こえるわ」


「爺、起きんべよ! 早く!」


 メイドは隣のリスを激しく揺さぶった。相手は未だに寝惚けたままのため、四つん這いのままで二度寝の体勢に移ろうとしていた。


「ナテュル様、今ばかりは眠らせてくだされ。お小水なら、爺の手を借りずに……」


「どんだけ昔の夢見てんだべ! 良いから起きれ、エイデン様んとこ着いたんだべよ!」


「エイデン……エイデ……何ですとぉ!?」


 謎の潜伏者とはナテュルとコローネの主従であった。両名は事態を飲み込むなり、素早く膝を屈して拝謁の姿勢を取った。


 これにはエイデンも虚を突かれてしまう。詰問のあれこれなど全てが吹き飛び、ありきたりな問いかけを零してしまう。


「そなたらは、何者だ?」


「先日お会いしたナテュルだべ。こっちは初めてだんな、執事のコローネだっぺよ」


「エイデン王、お噂はかねがね。私はフゴー家の執事及び、ナテュル様の教育係を務めるコローネと申します。以後お見知り置きを」


「という事はだ。そなたはナテュル・フゴーその人だと言うのだな?」


「んだっぺ。もしかして、もうオラの顔さ忘れちまったのけ?」


「いや、忘れた訳ではないが……」


 顔合わせの記憶は今も新しいものだ。顔や声、気質に振る舞いと、あらゆるものを覚えている。しかし眼前の女にナテュルと名乗られても、ほとんどの要素が一致しないのだ。顔立ちや声質は良いとしても、それ以外は完全に別人にしか見えなかった。


 服は質素というか下働きの姿。装飾品の類なし。髪は乱れに乱れ、ヘッドトレスは乾いた泥がこびりついていた。袖や肩口は引っ掻いたように切り裂かれ、スカートの部分には犬猫の足跡らしきものが点在する。これが魔界でも指折りの家に生まれついた令嬢の姿と言えるのか。魔窟から生還した下女と言われた方が、よほどにシックリとくると言うものだ。


 彼女の身分を証明できたのは、その名前と、純血魔王種が備える魔力の気配のみという有様である。それも辛うじて、という具合だ。振る舞いや口調も、令嬢というよりは田舎娘が相当で、かつての姿とは似ても似つかない。お陰で記憶と視界が喧嘩を起こしてしまい、どう受け止めても違和感が付きまとうのだ。


「そなたがナテュルというのは分かった。では、何故私の元へやって来たのだ?」


「ええと、まずはお詫びしたかったんだべ。あの時はとんでもねぇ事を口走っちまってよ」


「いや、まぁ、あれは確かに響きはしたのだが」


「ほんと勘弁してくんねぇけ? これ、つまんねぇモンだけど、いっちゃん上等な酒持ってきたからよ」


 ナテュルが捧げるように突き出したのは、知る人ぞ知る名酒『オロチ酔い』である。愛好家であれば喉から手が出るほどの逸品なのだが、エイデンは一瞥(いちべつ)すらしなかった。


「受け取る訳にはいかぬし、いわれもない。そもそも縁談については断る旨を伝えた筈だ」


「……それは爺から道中で聞いたべ。もう破談になっちまったって」


「分かっているなら話は早い。早々にお引き取りいただこうか」


 捧げられた酒瓶が静かに降りていく。そして床でささやかな音を鳴らすと、ナテュルは瓶を抱きしめたままで俯いた。


 そこで口を挟んだのはコローネである。彼はどうにかして好転させるべく、縋り付くようにして食い下がった。


「エイデン王よ。あなた様のお怒りはごもっとも。ですが、どうか我らを受け入れては貰えませぬか? ろくな護衛も無しに千里の道を越えてやって来たのです。ナテュル様のお覚悟は、決して安いものではございません」


「受け入れろとはどういう事だ?」


「お嬢様は、貴殿にご再考いただきたいと考えておられます。以前の作られた人格ではなく、本当の姿を見ていただきたいと」


「それは難しい。一度話が拗(こじ)れてしまったのでな。両家の間柄は随分と様変わりをしたと言って良い」


「恥を承知でお願い申し上げます。エイデン王の御慈悲に縋りたく、何卒……」


「爺、もう良いべ」


 コローネは、かすれた声のする方へと顔を向けた。そこには、力無く笑う主人の姿があった。


「宜しいのですか? お側に置いていただくために、荒れ狂う獣たちを退け、夜露を啜ってまでやってきたと言うのに?」


「良いんだ。とりあえず面と向かって謝れたしよ。これ以上迷惑かけちゃあなんねぇべ」


「何という事でしょう。命掛けで挑んだにも関わらず結実しないとは。そして屋敷に戻ったなら、厳罰は確実……!」


 2人が泣き出すのを見て、エイデンはどこか良心が痛んだ。彼らの全身からは、確かに多大な苦労の跡がありありと残されている。これが自分に会おうとした結果と知れば、情が湧きあがるのも無理からぬ事。このまま門前払い同然に扱って良いかどうか、脳裏に迷いが過った。


 そんな中で、ニコラが1人駆け出し、ナテュルに寄り添った。そして小さくも温かな手のひらを、濡れそぼる頬に当てるのだ。


「なかない、なかないね。いいこ、いいこ」


「……この子は、もしかして?」


「我が娘のニコラだ。最近は随分と言葉を覚えたものだ」


「アンタが、そうなのけ。ニコラちゃんって言うんだなぁ」


 純真なる視線がナテュルに注がれる。その瞳が射抜くのは、暴言を吐いたという過去の不始末だ。瞬く間に罪悪感はマグマのように滾り、懺悔の念が腹の底から押し寄せてくる。


「ごめんなぁ。オラ、酷い事言っちまってよぉ。勘弁して欲しいべ、勘弁して欲しいんだべぇ……!」


「ニコラに詫びる必要もあるまい。直接言い放った訳でもなし」


「そうだけどよぉ。この子を見てたら、どうにも胸が痛くってよぉ」


 ナテュルはもはや酒瓶など抱いてはいなかった。彼女の胸には、依然として泣き止まそうとするニコラの体があった。この場面だけ切り取ったなら、仲睦まじいようにも見えてくる。


 その光景は、エイデンの揺れ動く心に、最後の一押しを与えた。


「まぁ、なんだ。急いで帰らずとも良い。心身を休ませ、疲れが癒える日までは置いてやろう」


「本当だべか? オラを受け入れてくれるだか!?」


「あまり期待を大きくするな。そもそも私は、新たに妻を迎える気が薄いのだから」


「構わねぇべ、それでも全ッ然大丈夫だ! 素顔を見てさえくれれば、それで十分だべよ!」


 ようやくナテュルの顔に微笑みが戻る。涙を拭う仕草に、エイデンは微かに引き寄せられるモノを感じつつも、すぐに心の中で打ち消した。


 こうして無事目標を達成した2人であるが、この沙汰に城の人間は驚かされた。第一印象が最悪の令嬢を再び招きいれたのだから、誰もが閉口し、マユを潜めた。しかし、悪評が飛び交ったのも最初のうち。純朴な性格は意外にもウケが良く、打ち解けていくのに苦労は無かった。


「初めからこの人格で来てくれればな……。まぁ今更だが」


 エイデンもボヤかずにはいられない。破談を申し入れ、両家の仲が悪化してからの非公式な来訪だ。それも長期的に逗留するのだから、必ず禍根(かこん)を残す事になる。


 彼が危惧するものは遠からず実現する。だが現状で、そこまで見抜けた者は少ない。大多数の住民が、今日という日を懸命に励み、明日も大差が無いものと考えていた。

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