第19話 茨道だとしても

 魔界のとある高原には、極めて広大な邸宅がそびえ立つ。フゴー家当主の住まう屋敷である。かの一族の権勢を恐れるがあまり、周辺の領民はもちろんの事、行商隊ですら近寄ろうとはしない。そのため一帯は不気味な程に寂れており、聞こえるのは鳥の鳴き声くらいなものだ。


 そんな屋敷にある私室で、若い女が引き籠っていた。頭からベッドに突っ伏し、枕を抱きかかえて離そうとはしない。


「うぅ……何て事をやらかしちまったんだべぇ」


 辺りの床には彼女が着ていたであろうドレスや、宝飾品の数々が転がる。彼女の振る舞いは、調度品や家名が醸し出す品格とは全くの不釣り合いで、人目に触れたなら失笑のひとつも買うだろう。だが今ばかりは、あらゆる人物の入室を拒みきっている。なのでこうして泣き暮らす事に専念できるのだ。


「やっちまっただぁ。オラ絶対嫌われちまったべよ」


 艶やかな緑髪はスッカリ乱れ、頬もいくらか削げ落ちており、いつぞやの凛々しい姿とは雲泥の差だ。召し物も肌着だけ。剥き出しの柔肌は煽情的というよりは、痛々しさの方がよほどに強かった。


ーーコンコンッ


 遠慮げなノック音が鳴る。中の様子を気遣っているかのように、随分と柔らかなものだ。次いで聞こえる老人の嗄れた声も、慈愛に満ち満ちていた。


「ナテュルお嬢様、コローネでございます。お食事のご用意が出来ておりますぞ」


 会話は完全に一方通行だ。傷心を撫でるかのような語り口調も、行く当てを無くして宙に漂う。しかし当人は悪びれもせず、ベッドでうずくまるばかりだ。


「そろそろ何かお口になさいませ。体の毒でございますよ」


 ともかく放っておいて欲しいというのが、彼女の本音である。絶食もまだ命に関わる程ではない。むしろ、このまま餓死してやろうとまで考えている節さえあり、2つの意味で『籠城』は続けられるのだった。


「せっかくクラーケンのマリネをお持ちしたのですが」


 ナテュルは姿勢を変えないまま、片腕だけを扉へと向けた。すると指先から光の粒子が飛び立ち、それが鍵穴にまで到達すると、封印が解かれた。自動的に扉が目一杯に開く。その向こう側には、大皿ともども宙に浮かぶリスの姿が見えた。


「お聞き届けいただき、ありがとうございます」


 コローネが恭しくお辞儀をすると、浮き上がったままで室内へとやって来た。その面妖な動きもさることながら、容貌から見ても唯の小動物ではない。背筋をピンと伸ばしたリスの体にモーニングコートを羽織り、中はベストで下はスラックスと、人型の生物とおおよそ同じスタイルである。デザインがやや古めかしいのは、最新式に袖を通すのは主人だけと遠慮する為だ。


 そんな小躯(しょうく)とも言うべき老夫は、自身の体よりも大きな皿を魔法で操り、難なくテーブルへと置いてみせた。名家の執事という重責を背負う男は、決してか弱い生き物ではないのだ。


「さぁさぁ召し上がれ。今日はいつもに増して上質であると、シェフ達も口を揃えておりましたぞ」


 ナテュルは俯いたままでテーブルに近寄り、料理の端だけをフォークに乗せると、口中に運んだ。噛み締めると慣れ親しんだ味わいが広がる。まずレモンの鮮やかな酸味が走り、魚の肉汁と胡椒の旨味が追いかけてきた。素直に美味しいと思う。空きっ腹に好物とは、これ以上ない組み合わせなのだ。体の奥深くからは、もっともっと寄越せと細胞が騒ぎ始める。


 だがその反面、彼女は浅ましさも感じていた。心はこんなにも傷ついているのに、かつてないほど打ちのめされているのに、皿の一つで喜んでしまう自分が呪わしくて仕方がない。滴る落ちる幾筋もの涙が、ポタリポタリと不規則に手元を濡らした。


「失恋とは、辛いものでございますなぁ。エイデン王とは良き男にございましたか?」


「んだな。きれぇな顔しててよぉ、ベッピンさんだったぁ。それに何つうか、皆を守ってる感じも格好良かったべよ」


 ナテュルは視線を虚ろにして思い返した。夕暮れのバルコニーと、ようやく目にした笑み。漆黒の衣とは不似合いな微笑みが。


 それらが頭に過ると、とたんに強烈な心痛が走り出す。


「なのにオラは! とんでもねぇことホザいちまったべよぉ!」


「あの一件については耳にしておりますぞ。かなり高圧的に接したとか。何故そのような態度で臨まれたのですか?」


「だって、オラ、男の人とかわがんねぇし。仕方ねぇから本に書いてあること、そのまま実践してみただよ」


「ご相談なら、父君ともされていたでしょうに」


「父様は、フゴーの名前ちらつかせりゃ大丈夫だー、ぐれいにしか言ってくんなかったべ」


 コローネはチラリと足元に眼をやった。そこにはいくつもの本が転がっており、表紙には『これで解決、男の下心は傲慢さで見極めろ!』だの、『か弱い女はもう古い!? パワフル魔人の恋成就』と言った煽り文句が踊っていた。


「なるほど。そうして本の知識と父君の助言を併せた結果、あのような振る舞いになったのですな。まことに申し上げにくいのですが、世の中には生兵法という言葉がございまして」


「慣れねぇ事はするもんじゃねぇな。エイデン様、なかなか笑ってくんなくてよぉ。段々焦っちまって、最後は、最後は……」


 こみ上げる涙が言葉を詰まらせる。コローネは、震えて嘆く背中に薄手の羽毛布団をかけてやり、それに劣らぬ程の温かな言葉を告げた。


「心痛お察し致します。しかしご安心なさいませ。傷心とは忘れがたいものですが、いつしか慣れるもの。お嬢様には今しばし堪えていただき、やがて次なる良縁を……」


「違うべよ! フラても当然だとは思う。でも、あれは本当のオラじゃなかったべよ」


「まぁそれは、そうかもしれませんが」


「会いに行きてぇだ。今度は素顔のオラをみて貰ってよ、その上でもっかい考えて貰いてぇべ!」


「いやしかし、それは……」


「それが出来なくても、せめて直接会って謝りてぇだ! 無茶苦茶言ってごめんなさいって。このまんまじゃ、あんまりにも辛くってよぉ、胸が張り裂けちまうだよ!」


「それは難しゅうございますな。父君のご意向に反してしまうが故に」


 コローネは少し言葉を濁した。というのも、エイデン側より正式に破談の通達がもたらされたからだ。これにより、主だったものが憤激し、「エイデン誅すべし」と声だかに叫ぶ事態にまで発展してしまう。当然だが公式に会いに行くことなど不可能に近い。


 それほどまでに逼迫しているとは、引きこもっていたナテュルが知る由も無い。そしてコローネもこのタイミングで、両家が一触触発である事を宣うほど、うっかり者では無かった。


「そんじゃ、コッソリ抜け出して会いに行けばいいべ」


「それも難しゅうございますぞ。万が一、父君の耳目に入ってしまえば、我らにどのような御叱りがあるやら」


「助けてくれねぇだか? オラの為なら、火の中水の中、邪龍が群れる中って言ってくれたべよ!」


「いや、それはその……何事も時と場所というものがありましてな」


「こんなに頼んでも、ダメなんだか?」


 マズいと直感したコローネは、両手の肉球を自身の耳穴に突っ込んだ。間髪入れずに、凄まじい泣き声が響き渡る。


「オラはもうお終いだぁーー! 爺にまで見捨てられたら、生きてらんねぇべよぉーー!」


「お嬢様。ちと大袈裟でございますぞ」


「もう良いべ! このまま北の大地さ行って、千年氷柱に突き刺さってやるべぇ! そんで独り寂しく死に晒してやるだよぉーー!」


「わっ、わかりました! 爺がお助けしますゆえ、そればかりはご容赦くださいませ!」


「本当け? んだら、どうすっぺよ?」


「この切り替えの良さ。一体どなたに似たのやら……」


 しかしコローネ、口では不服を漏らすが、願いは叶えるつもりになっていた。彼はナテュルがヨチヨチ歩きの頃から世話をしており、言わば祖父に近い感情を抱いているのだ。肩書き上こそ当主の家来であるものの、心情的にはナテュルに寄り添っている。つまりは、ついつい甘い顔をしてしまうのだ。


「それでは、策などとは申せぬほどの浅慮にございますが、今宵はこのように過ごしなさいませ」


 コローネの案は単純明快だった。夜になれば、当主の休肝日が明ける事により、大きな酒宴が催される。まずはそこにナテュルも顔を出し、回りの者達を安心させる。そして皆が酔い潰れた頃を見計らい、2人で屋敷を抜けるというものだ。


「良いですかな。極力不審な動きはなさらぬよう。湯浴みをし、衣服を整え、父君に元気な姿をお見せするのです」


「わかったべ。そうと決まったら腹ごしらえすんべよ!」


「さて、爺は手荷物の準備をば……」


「あっ。ついでにパンも持ってきてくんねぇべか。肉もあると嬉しいべ」


「ええと、ではそちらも順次お持ちしましょう……」 


 生気を取り戻したナテュルを見て、コローネは複雑な心境に陥った。脱け殻で居られるよりマシであるとは思う。どこか釈然としない気持ちを孕みつつも、作業を着実に進めていった。


 やがて迎えた深夜。扉から囁く声が聞こえると、ナテュルは息を殺しながら部屋を後にした。


「お嬢様。準備はようございますか?」


「問題ねぇべ。でも、どうしてメイド服なんか着せられてんだべ?」


「もちろん身元を偽るためです。できればボロ服をご用意すべき所なのですが、都合よく見つかりませんで。まぁ、令嬢の豪華絢爛なるお召し物よりは目立たずに済むでしょう」


「ふぅん。まぁ良いべ。この服も着慣れてっからよぉ。上手いことメイドになりきってやんべ」


「例の『役者ごっこ』のお陰ですかな。あの戯れが役立つ日が来ようなどと、人生とは分からぬものですな」


 ナテュルは演技を得意としており、同時に愛してもいた。暇を見つけては何者かに扮して遊ぶという事を、これまで日常的に繰り返していたのだ。その為、メイド服も人手を借りずに着こなす事が出来た。


 しかしその一方で、役者気質が災いしたが為に、エイデンの前で立派に悪女を演じきってしまった。彼女の持つ才の功罪は、判断に迷う所である。


「よし、手土産も持った。んじゃあ行くべか?」


「宜しいでしょう。物音にはくれぐれもご注意を」


 こうして一組の主従が深夜に屋敷を抜け出した。門前の見張りも眠りこけており、脱出そのものに苦労は無かった。そう、脱出そのものには。


 人気の無い草原を駆けていく。やがて森に差し掛かると、道の整備すら怪しくなり、雑草が行く手を阻むようになる。それを払い除けながら進むと、小さな泉へとたどり着いた。


「爺。ここで合ってんべか?」


「ええ、左様にございます。これは特別な印の施された泉でして、あちら側と繋がっているのですよ」


「じゃあこれを使えば、またエイデン様の城へ行けるだか?」


「……そこまで都合良く行きませぬ。狙った場所へ移動するには、膨大な魔力を必要とします。爺とお嬢様の力を併せても、到底足りぬ程の」


「じゃあどうすんだべ?」


「行き先を指定せずに使用するのでございます。そうすれば、比較的少ない力で飛べます」


 コローネは泉に手をかざすと、小さく呟いた。すると辺りには幾何学的な紋様と、細かな文字が浮かび上がる。それらをひとしきり眺め、フムフムと声をもらした後、再びナテュルに向き直った。


「移動先は基本設定された場所です。恐らく、エイデン城から遠くは無いものと思われます」


「そしたらすぐ行くべよ。善は急げってヤツだっぺ」


「では参りますぞ!」


 コローネは泉の水面を、魔力を帯びた指で縦一文字に切り裂いた。すると時空の穴が開き、ポッカリとした黒い口を開けた。2人はその暗がりに向けて身を踊らせる。すると、彼らは瞬時に異なる世界へと飛ばされるのだった。


「……ここは?」


 目覚めた先も泉のほとりであった。辺りは木々で囲まれているのに、燦々と降り注ぐ日差しのために、十分なまでに明るかった。人間世界は昼の真っ只中である。


「爺、ここはどこだっぺ?」


「ふむぅ。少々お待ちくだされ」


 コローネはその場から頭上へ向けて飛び立ち、辺りの地形を窺った。しかし土地勘の無い彼の眼では、到底理解できるものではない。ろくな収穫を持たないままに、再びナテュルの元へと戻らざるを得なかった。


「ここが何処かは分かりかねますが、エイデン城は大陸北西部の沿岸近くにあるとの事。方角さえ間違えなければ、いつの日か辿り着くでしょう」


「方角さえって、そんなんで大丈夫だべか?」


「他に手段は残されておりません。それとも屋敷へと戻りますか? 今ならば引き返す事も……」


「いや、それだけはダメだべ。エイデン様に会わねぇままじゃ居らんねぇだ」


「ではお覚悟を」


「分かったべ! もう弱音なんか吐いたりしねぇ。何がなんでも城を見つけだしてみせんべよ!」


「それで宜しゅうございます。では参りましょう」


 2つの影が、勇ましくも先へと進んでいく。別名『魔狼の森』と呼ばれる危険地帯を。このエリアは未開発な領域であり、魔族はもちろんの事、人族の眼すら往き届かない場所であった。付近には凶暴化した獣が住み着いており、容易に人の手を送り込めないのが原因だ。


 そうとは知らず、落ち葉の敷き詰められた道を踏みしめていく。この主従には果たして、どれほどの苦労が待ち受けているのか。彼女たちはまだ、その片鱗すら見ていない。

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