第16話 立ち去った後は
エイデンはナテュルを応接室に通した。ダンスホールに酒食の用意をするまでの繋ぎだ。4人席で顔を向き合って座るのだが、エイデンの口数はいつもに増して少なく、もっぱら質問に答えるばかりとなっていた。
「なんと嘆かわしい。実に貧しい暮らしぶりよの。かつては魔界全土を震撼させたという、『暗黒の覇者』とは思えぬ落ちぶれ様ではないか」
「ここは戦場の城だ。豪奢である必要はなかろう」
「それだけが理由ではあるまい。そなた、いつぞやは縁談を蹴って、つまらぬ女と結ばれたであろう? ゴーガン家は家名に傷をつけられたと、そなたらを目の敵にしておるぞ。元老院まで巻き込んでの大騒ぎじゃ。エイデン『伯爵』の旧領は、今ごろゴーガンの連中が我が物顔で歩いておろうな」
ナテュルはさも愉快そうに、クスクスと笑った。どうにも真意が見えず、エイデンは平坦な声に終始する。
「ゴーガンとの件は、縁談などというような立派なものではなかった。親同士が交わした口約束に過ぎん」
「世渡りの下手な男よな。あの連中も魔界屈指の名家。時をかけさえすれば、実力者の娘を娶り、ゆくゆくは魔界を牛耳るまでに登りつめただろうに」
「私にそのつもりはない。性に合っていない気がする」
「だとしてもだ。慌てたように犬人に手を出すとは、戯れにも程というものがあろう。流民も同然の女のどこが……」
「そんな話より茶でも飲むか。長旅で喉も渇いた頃だろう」
エイデンが話題を切り替えるなり、部屋の隅に控えていたメイドたちが動き出す。そのうちの一人がシエンナであることは、視界の端に捉えていた。
「キー魔ンという茶葉を用意した。口に合うと良いが」
ナテュルは能書きには反応せず、湯気の立ち上るカップを口元へ運んだ。そこで手を休め、鼻で香りを味わい、そしてほんの少しだけ啜った。そして手元を戻し、カタリと音を立てるなり眼を怒らせた。
「不味い。せっかくの甘みが台無しではないか」
「そうだろうか? 十分美味いと思うのだが」
目の前の顔が懐疑的になるのを見て、エイデンも口をつけた。花を想起させる程の甘い香りが芳しく、舌触りも柔らかなものだ。彼には満足のいく味わいであり、少なくとも咎めるような気は起きなかった。
しかし、賓客は全く別の感想を抱いている。その怒りは冷めやらず、波紋の消えたカップに瞳を落としながら鋭い声を張り上げた。
「この無礼極まる茶を淹れたのは誰か」
叱責は、壁に並ぶ3人のメイドに向けられたものだった。ひとりは狼狽えて左右を見渡し、ひとりは青い顔を浮かべて震えだした。澄ました振る舞いを維持できたのは、シエンナだけである。
「聞こえぬのか。誰が淹れたのかと聞いておる。それとも下賎なものには耳すら無いのか?」
今度は体ごと振り返って言い放った。青い顔のメイドがいよいよ顔面蒼白となり、今にも膝から崩れそうになる。答えなど無くとも、誰の失態なのかは明らかだ。しかしここでシエンナが、一歩前に進み出て頭(こうべ)を深々と垂らし、静かに告げた。
「まことに申し訳ございません。私の不手際にございます」
「ほう、他人の責をひっ被るつもりかえ? 見た所、龍の血が混じっておるようだが、それが義侠心のようなものを掻き立てるとでも?」
「血は関係ありません。自身の失態を恥ずかしく思うばかりです」
互いの視線は重なろうとはしない。それでも室内に立ち込める気配は、次第に尖ったものへと変貌していく。それが本格的な緊張をもたらす前に、エイデンが声をあげて遮った。
「よせ。部下の不始末は主人のものだ。文句があるなら私に言え」
「……よもやとは思うが、この娘を庇おうとしておるのか?」
「特別な意味は無い」
「まぁ、よいわ。この部屋は何か息が詰まる。どこか良き所へ連れて行け」
「よかろう」
エイデンはガラス戸を開け、バルコニーへと誘った。比較的狭い足場には、2人用のテーブルが置かれているだけだ。ナテュルが片方に座ると、エイデンも隣に腰を下ろした。
「悪くない景色よ。魔界では赤い太陽などお目にかかれぬしな」
頃合いはまさに陽が落ちる手前であった。赤々とした光が草原を染め上げる一方で、城下町では篝火が燃やされ、違う色味の赤を重ねる。山々から吹き降ろされる風は冷たいものだが、『冷気無効』の特性を持つ2人には微風も同然だった。
「ところで、人間世界の侵略状況はいかなるものか? 既に半分程度は手中に?」
「いや。今の所、付近一帯を支配するだけだ」
「これはまた面妖な。そなたの力があれば、人間どもなど一捻りだろうに」
「娘の世話がある。そのため、滅多に居城から離れる事は無い」
ナテュルは眼を見開いてエイデンを見た。感情が高ぶりだした為に、口元もワナワナと震え始める。
「世話だと? 下女にでも任せておけば良かろう」
「それは出来ない。亡き妻との約束だ」
「例の流浪の女か」
「その言い方はよせ」
みるみるうちにナテュルの語気が荒くなる。対するエイデンは表情こそ変えていないが、返す言葉が早いものとなっていた。
「明日にでも出陣するのだ。妾を娶りたくば、この大地全てを手に入れてからにせよ。そうでなくば家名が釣り合わぬ」
「それは出来ないと言ったはずだ」
「なぜ頑なに拒む。娘が、約束とやらがそこまで大事か」
「レイアもニコラも、私に生きる意味を与えてくれた。大切な家族だ」
「今後は妾が妻であり、家族だ」
「まだ決まった訳ではない」
「何だと? 今度はフゴー家までも敵に回すつもりか。思い上がりも大概にせよ。貴様がいかに強かろうと、我が父や兄には遠く及ばぬわ」
「たとえこの身が滅ぼされようとも、譲れぬものは譲れん」
「ああ滅べ、小城ごと滅んでしまえ。我が一族の率いる精鋭が領民を皆殺しにし、犬女の墓を暴くだろう。貴様が後生大事にする娘も、ズタズタの八つ裂きに……」
そこでエイデンが無言で立ち上がった。それを見て、ナテュルはようやく気付かされたのだ。頭に血が上ったにせよ、口にしてはならない言葉を吐いた事に。
「そ、それは……漆黒の衣!」
高魔力を持つものが身に纏う、陽炎にも似た霧。エイデンの場合は漆黒である。つまりは臨戦態勢に入った事を示すもので、宣戦布告とも取れる姿となっていた。
ナテュルはおののきながら口を閉じた。そして、満足に動かない首を持ち上げ、おずおずと顔を拝む。どれほどの凶相が浮かんでいるか、恐ろしくて仕方がない。
だが、エイデンは微笑んでいた。よりにもよって、彼女が初めて見る笑顔だった。
「お引き取り願おう。そなたは地上の風が合わないらしい」
その言葉を境に、顔合わせの場は急速な終焉を迎えた。ナテュルはすぐに城外へと連れ出され、馬車へと半強制的に乗せられた。予期せぬ展開に驚いたケンタウロスたちだが、すぐに事態を察知し、逃げるようにして魔界の門をくぐり抜けた。
去り際を見送るのはエイデンと、慌てて駆けつけたクロウだけである。
「すまぬクロウ。お前の策を不意にしてしまった」
「いえ、私こそ軽率でした。目先の金に気を取られるあまり、このような騒ぎを起こしてしまうなど……。皆を不愉快にさせただけでしたな」
「とりあえず私は、倹約に励む事にする。そうでなければ、またどこかから縁談を持ち込まれかねんしな」
「いやはや。それは此度で懲(こ)りました。金策については、もう少し地に足を付けた案を考える事にします」
「任せた。そして、苦労をかけて済まない」
「何も今に始まった話ではありませぬ」
2人は視線を合わせ、どちらからでもなく小さく微笑んだ。
「ところでだ。せっかく用意した酒食だが、無駄になってしまったな。腐らせるのには惜しいぞ」
「ならば、皆で晩餐を愉しまれては?」
「良いな。それ」
「では知らせて参ります」
令嬢去るという一報は瞬く間に伝わった。特に悪態を目の当たりにした城勤めの者たちは、まるで大戦後の戦勝祝いのように喜んだ。そのムードは宴にも持ち越され、あちこちで上機嫌な笑い声が巻き起こる。別格とも言える解放感を、極上の品々とともに堪能するのだ。
そんな中で、シエンナは独り酒を飲んでいた。上等な酒や料理を口にしても、味がよく分からず、酔いもやってくる気配が無い。 ただ思うのは『破談になった』という言葉である。それを胸の中で繰り返していると、好物の料理すら喉を通らなくなりそうだった。
「シエンナ、ちょっと良いか」
そう告げながら現れたのはエイデンだ。ニコラを肩に乗せ、空いた手には料理の皿を掴んでいる。
「ニコラがこれを食べたいという。あげても良いと思うか?」
皿の上にあるのは、小さなパンにシチューのかかった料理だ。酒で緩んだ舌でも味わえる程に塩気が強い。
「そのままは良くないですね。味が濃すぎるんで、ソースは全部削いで、パンだけにしてください」
「どうした。いつもに比べて、妙に声に張りがあるぞ」
「えっ。そうですか?」
「ふふ。お前、もしかして……」
シエンナの顔正面に、エイデンは自身の顔を近づけた。その瞬間、シエンナの頬は急速に赤く染まり出す。胸も火酒を飲んだ後のように、熱いものが駆け抜けていくのを感じた。もちろん口が回るはずもない。体を硬直させたまま、次の言葉を待つしかなかった。
しばらくの間見つめ合う。すると、エイデンの口元が悪戯っぽく歪んだ。
「上等な酒や料理にありつけた事が、嬉しくて堪らないんだろう?」
「えっ! 違いますよ、人を勝手に食いしん坊扱いしないでください!」
「そうか。ならば秘蔵の酒はいらないな。幻の名酒『酔い闇の魔女』を取り寄せているのだが」
「そんな凄いものがあるのなら、味見くらいはさせてもらいますよ」
「なんだ。私の見立ては正しいではないか」
これにはエイデンだけでなく、周りに居た者たちも笑い出す。その声を皮切りに、会場は一層の盛り上がりを見せた。緊張を強いられた領民たちが、普段の様子を完全に取り戻した瞬間でもある。
自分の嗜好をダシにされたシエンナであるが、彼女はそれほど気分を害さなかった。エイデンの大きな手が彼女の頭を撫でた事も、やや前向きに受け止めた。
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