第9話 ヒュドラ捕獲戦

 子供の成長とは早いものだ。あれほど儚い体つきであったのが、いつしか首がすわり、自ずから動き回るようになるのだから。寝返りをうった事を喜んだのも過去の事。いまや掴まり立ちまで可能となり、順調な成育にエイデンも顔を綻ばせる。


 そして、体が変われば食も変わる。今やミルクに加え、離乳食までも口にするようになっていた。


「ほぅら。沢山食べるのだぞ」


 銀の匙に、ペースト状のものが乗る。これは高齢ニンジンをベースに、ヒュドラの白身肉を加えたものだ。もちろん熱処理は十分。素材の味を活かした離乳食の反応やいかに。


「にぅぅ! にぅぅ!」


「おおそうか。美味いか! 大きくなれば、三元オークや黒毛ミノタウロスも食わせてやるからな」


 大好評である。むしろミルクよりも欲するほどであり、これには大枚をはたいて食材を取り寄せたエイデンも、ニッコリと笑顔になる。たとえ財布が朽ち果てようとも、変わらぬ食を提供しようと決めたのも、無理からぬ事だろう。


 そんなある日。エイデンは城の地下泉へとやってきた。そこが所謂『魔界へ繋がる門』となっており、今は、御用聞きとその配下が忙しなく動き回っていた。城へ納品する作業の真っ只中である為だ。階段と泉の狭間に、樽や木箱が多数並べられている。


「おっと、これはこれは。エイデン伯……じゃねぇや、エイデン王じゃありやせんか」


 積み上がる木箱の上で小人が叫んだ。頭に尖った赤い三角帽を被り、藍染の麻を何枚も重ね着にする男。彼と王の付き合いはそこそこに長く、ある程度気心の知れた間柄であった。


「しばらくぶりだなノルム。息災か?」


「そりゃもう! 魔王様には、しこたま儲けさせてもらってやすからね! うちの商会じゃあ、エイデン様を崇拝する者は後を絶たずって有り様でしてね」


「相変わらず口の回る男だな」


 エイデンは世辞を苦笑で返した。一方ノルムは、最上級の営業スマイルを浮かべていたのだが、背後から聞こえる『ガタッ』という音に気配を変えた。おもねる顔が振り返る刹那、悪鬼のような表情となったことを、エイデンは見逃さなかった。


「こりゃお前たち! エイデン王の御前だぞ! チャチャッと機敏に働いてみせんか!」


 怒号の先にはコボルトが2匹、樽の上にアゴを休めながら潰れていた。


「親方ぁ、オレらもう無理ッスよ」


「そうッスよマジで。こちとら明け方から働きっぱで、いい加減ヤベェっつうか」


「バッカモーン! 体が動かねば魂で運べ、それが商売人っつうもんだろうが!」


「そりゃ無いッスよぉ……」


 手下のコボルト達は、ノウムの何十倍も大きな体つきである。それでも、毎度の様にしごきに耐え続けるのだから、不思議なものだ。意外と上下関係とはこういうものかもしれないと、何となく思う。


「そうキツく当たるな、疲れたなら休むが良い。あとで家中の者に飲み物でも用意させよう」


「ああッ……なんと慈悲深い! テメェら、御礼を申し上げろ!」


「ありがとうごぜます、魔王さまぁ」


「それはさておき、あの品物だけ先に渡してはくれぬか?」


「へい、お安いご用で!」


 ノウムは指先を唾で湿らせ、紙束を手にした。納品リストである。


「それで、ご所望のお品とは……」


「ヒュドラ肉だ。城の備蓄を切らしてしまってな」


「ヒュドラ……!?」


 その言葉を聞いた瞬間、ノウムは全身をあます事無く硬直させた。ハラリ、ハラリと紙が手元から落ちても、拾おうとすらしない。


「どうした。前回に依頼していたと思うが」


「陛下。大変申し上げにくいんですが、ちょいと、とんでもねぇ事になってやして……」


「何だ。遠慮はいらん、ハッキリと申せ」


「へい。実はオーク商会、ヒュドラ肉の卸し業者なんですがね。あいつらストライキを起こしやして」


「真か!?」


「魔界じゃもっぱらの噂になってやしてね。なんでも、危険手当ての支払いがどうので揉めたとか」


「となると、今ごろは座り込みでも?」


「いえいえ。奴らは気性がめっぽう荒いんでね。あちこちで略奪して、終いにゃ国軍と衝突してますわ」


「ぬぅ、次の入荷は?」


「申し訳ありやせんが、望み薄というヤツでして……」


「良い。お前のせいでは無い」


 カラクリ人形のようにお辞儀を繰り返すノウム。その背に向かって温情のある言葉を投げかけ、エイデンはその場を後にした。


 それにしても困ったものである。話が事実であれば、長期に渡ってヒュドラ肉にありつく事はできない。自分の嗜好品ならいざ知らず、離乳食の材料であるので、代替え品を探すには苦労しそうだ。栄養と味わい。その両方を鑑みた結果、ひとつの決断を下す。


「よし。取りに行くか」


 ニコラの側を離れるのは断腸の想いであったが、事情が事情である。夜を待ち、娘の寝かしつけを終えるなり、再び地下泉へと舞い戻った。その頃には既に搬入作業は済んでいた。昼間の雑然とした様子からは一変し、がらんどうとした空間だけが広がっている。


 エイデンは泉の水面の上を、人差し指でひと掻きした。転移魔法を宿した指先により、泉は幾何学模様を青白く光らせると、術者の体は霧のように霧散した。


「ふむ。久方ぶりの魔界は、相変わらずだな」


 故郷の地を踏んでも、特に感慨深いものは無い。というのも、ここは人里からやや離れた泉である。知り人のひとりも居ない帰郷は、特別な感情を呼び起こさなかった。


 真夜中の地上とは逆に、今は陽が昇る真っ只中だ。昼間なのに黒みがかった空、青白い太陽。魔界の象徴とも言えるものを眺めても、やはり心の内は変わらない。


「さっそくヒュドラを探してみよう。どうせなら養殖ではなく天然物をな」


 商店の管理する品ではなく、野生肉を求めた。それ即ち、狩りである。ジビエ感覚で強大な魔物を仕留めようというのだから、やはり魔王種という存在は隔絶した存在だと言える。


 思い立つなり、近場の村で聞き込みを繰り返す。何か噂話でもと、大きな期待を寄せずに居たのだが、思いの外早い内に有力情報を得ることができた。話によると、ほどなく離れた沼地にヒュドラが住み着いているというのだ。これ幸いとエイデンは飛翔して向かうことにした。


「ここか。話にあった瘴気(しょうき)の沼は」


 眼下に広がるのは不毛の地であった。沼そのものは、何がしかが腐敗しているせいでガスが生じており、濁りきった水面で水泡がしきりに弾ける。周囲に自生する針葉樹も、幹に痛々しいコケを生やしている。エイデンは樹木に詳しくは無いが、およそ健康体には見えなかった。


「さてと。早々に片付けさせてもらおうか」


 上空から降下して水面に近づいた。鼻につく腐敗臭に耐えながら滞空する事しばし。水面が不気味に盛り上がったかと思うと、突如として巨大な蛇が顔を露わにした。浮かび上がる首は計9つ。それらは意思をひとつに揃え、エイデンに向かって牙を剥いた。


「おでましか。早いところ終わらせて貰うぞ。ここは臭くて叶わん」


 食いちぎろうと迫る巨蛇を鮮やかに避けると、挨拶がわりに拳を一発見舞ってやった。それだけでヒュドラの首がひとつ破裂し、跡形も無く吹き飛んだ。だが、他の首は意にも介さず、激しい攻撃を続ける。消し飛んだ首の跡も、その傷跡から新たな頭が生まれ、テラテラと粘り気のある輝きを放ってみせた。


「おお、聞きしに勝る生命力。しかし、こちらとて多忙の身。一瞬で終わらせてくれよう」


 エイデンは舞うようにして攻撃を避けきると、遥か上空まで身を躍らせた。そして頭上に暗雲を呼び出し、大いに叫んだ。


「出でよ、魔剣クラガ・マッハ!」


 その声に呼応して、暗雲から稲妻が落ち、エイデンの体を包み込んだ。次の瞬間、彼の右手には一振りの剣が握られていた。愛剣の封印を解き放ち、白日の元に晒したのである。


 魔剣クラガ・マッハとは先祖代々受け継がれた逸品だ。特筆すべきは鐺(こじり:柄の末端部分)に誂えた黒色の宝石である。この石が使用者の魔力を吸い上げ、神剣にも匹敵する威力を発揮するのだ。


 ただしその石は扱いというか、管理が非常に難しい。その為、使用する度、熟練の錬金術師による調整作業を必要とするのだ。当然ながら金がかかる。銘の『クラガ・マッハ』はこの性質に由来する。扱う分だけ、蔵の備蓄を超高速で目減りさせる、という意味なのである。そのためエイデンは、ここ一番の時を除いて封印を施す事に決めている。


「さあ行くぞ怪物。久々の戦闘だ、少しは愉しませてくれよ」


 エイデンは再び降下した。そこへすかさず、ヒュドラの牙が猛然と迫る。危なげなく回避に成功すると、丸太よりも太い首を抱え込み、空に向けてブン投げた。ヒュドラの巨体が濁った水を撒き散らしながら、天高く飛ばされる。


 驚いて戸惑うヒュドラを他所に、剣を携えたエイデンが馳せ違う。その度に首がひとつ、またひとつと細切れに刻まれていく。目にも止まらぬ剣筋は、伝説級の魔物であっても防ぐ手立ては無かった。やがて全てが、空中で細切れ肉に変貌すると、いよいよ詰めの作業に入った。


「トドメだ! 滅せよ、愚かなる者め!」


 エイデンは左手に存分な魔力を集めると、魔法を放った。そうして現れたのは黒炎である。ただの火魔法でないことは、その巨大な火柱が龍の姿を象っている事からも明らかだった。地から天に向かって昇る黒龍は、寸断されたヒュドラの肉片をひとつ残らず飲み込んでしまった。


「ふふっ。何と骨のない……」


 地に足を着けたエイデンは、ふと思い出す。自身が何のために魔界くんだりまで足を運んだのか、について。


「し、しまった! ヒュドラ肉!?」


 もはや後の祭だ。肉など欠片すらも残されてはおらず、あるものと言えば、消滅を免れた皮膚の欠片くらいである。それ以外は全て、禍々しき炎が塵へと変えた。久しぶりの全身運動が、何かと窮屈さに苛まれてきた彼の心をハイにしてしまい、遂には暗黒魔法にて殲滅してしまったのである。


「ふ、不覚! 私とした事が、つい興に乗ったばかりに……ッ!」


 後悔の念に押しつぶされる形で、エイデンはその場に突っ伏した。この光景、割と頻繁に見かけるものだが、彼自身に既視感は無い。ただ浅はかさを悔やむばかりだ。


 そんな彼の元へ、歓声を上げながら駆け寄る集団があった。彼らは木々の隙間を縫うようにして現れると、瞬く間にエイデンを囲んでしまった。手には思い思いの武器がある。しかし、顔色は喜色満面という様子であり、とても敵意があるようには見えなかった。


「すっげぇな兄ちゃん! まさかヒュドラを1人で倒しちまうなんて!」


「オラたち見てたど。おとぎ話みてぇな魔法だったなぁ!」


 この集団はヒュドラ討伐隊である。いかにも勇ましい呼び名だが、その実、男手をかき集めただけのものだ。顔ぶれも年嵩のゴブリンばかりで、戦力として物足りない面子であった。


 彼らは今日が命日と沈みきり、悲愴な心を引きずってやって来たのだが、目にしたのは勇壮なるエイデンの戦いぶりだった。加勢を申し出る隙すらない圧勝を前に、こうしてあらんかぎりの称賛を並べ立てるのだ。


「世辞はよせ。目的を完遂できなかった私には、耳が痛すぎる」


「しくじったってのかい? 一体どうしたんだべ?」


「娘のためにヒュドラ肉を探しに来たのだが、この有り様だ」


 エイデンは焼け焦げた蛇皮をつまみ上げると、足元に放った。


「うーん。よく分からねぇけど、食い物が欲しいんだべか?」


「そうだ。もし知っていたら教えてくれないか。別のヒュドラ……」


「ガキのマンマなら、ウチの村で採れた野菜が良いべよ。甘えし、栄養満点だべ」


「んだな、んだな」


「待て、野菜など要らぬ。私が求めているのは、野生のヒュドラに関する……」


「ともかくよぉ、こんなとこに居ても始まらねぇべ。村さ案内して宴を開くっぺよ」


「んだな、んだな」


「聞け! 私は情報を……」


 ゴブリンたちはエイデンの言葉には耳を貸さず、村へと案内してしまった。三日三晩は祝おうと豪語する彼らが、赤ら顔を見せる前に、どうにか抜け出すことが出来た。しかし、膨大なる手土産までは断りきれなかった。そのため、パンッパンに膨らんだ麻袋を抱えながらの帰城となったのである


「ただいま……」


 大袋を担いだエイデンは、食糧庫に向かう道すがら、シエンナと顔を合わせた。業務時間はとうに過ぎているため、普段のメイド姿ではない。下ろし髪で、装いも寝巻きに羽織りというものだった。


「どうしたんですか、背中のものは」


 夜更けに大荷物とあって、向けられる視線は怪訝なものだった。


「ヒュドラを狩ろうとした。結果はこのザマだ」


 足元にドスリと降ろされた荷。袋の口を開けば、中にはトマトだ玉ねぎだカボチャだと、それはもう色とりどりの野菜で満ち満ちていた。


「どうしてヒュドラが採れたて野菜になっちゃうんです?」


「話せば長くなる……訳ではないが、説明する気力も無い」


「そうですか。まぁ元気だしてくださいよ。野菜がこれだけあれば、離乳食にも困らないし」


「むっ? これもニコラは食べられるのか!?」


「あぁ、どんな食材が向いてるか分からなかったんです? 少なくとも、ここにある野菜は大丈夫ですよ。むしろヒュドラ肉の方が、賛否両論ある食材みたいです」


「知らなかった……。我が家では、離乳食にはヒュドラ肉と決められておったからな。故に、これらの調理法も知らぬ」


「なんならレシピを教えましょうか?」


「頼む。だが今日はもう遅い。明日に頼めるか」


「良いですよ。それでは、おやすみなさい」


「おやすみ」


 エイデンは再び荷を担ぐと、通路を独り歩き始めた。手にはひとつ、貰い物のトマトがある。赤々とした皮に深く歯を突き立てると、瑞々しい汁が口中に流れ込んだ。


 酸っぱい、だが味は悪くない。そんな事をボンヤリと考えながら、薄暗い回廊を進んでいった。

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