第8話 呼んで欲しいの

 人族軍との激突からしばらくしての事。エイデン城の人々はすっかり元の暮らしを取り戻しており、ゆるやかで、平穏な時間が流れた。


 だがそんな中で、突如として城内に断末魔の叫び声が響き渡る。誰のものか考えるまでもない。まるで、主人の胸元に聖剣でも突き立てられたかのような気配に、城内は一時騒然となる。


「何事ですか、陛下!」


 真っ先に駆けつけたのは、側で作業をしていたシエンナだ。扉を勢い良く開け放つと、彼女の眼には、とある光景が広がっていた。


 ニコラの室内、エイデンが仰向けに倒れ、痙攣を繰り返している。その傍らにはニコラが腰を降ろしており、父の姿が面白いのかケタケタと笑い声を振り撒く。それ以外の事と言えば、マキーニャが真顔のままで壁際に控えるくらいだ。


 何と不可思議な光景だろうか。凶事と呼べるものが一切見当たらないのだ。とうとうエイデンが泡を吹き出した事はさておき、少なくともニコラは上機嫌である。這い寄って父親の体に手を乗せ、胸の上によじ登って遊びだすくらいには。


「ええと、マキーニャ。何があったか教えてくれる?」


「見て分かりませんか豚足女。察しが悪いのですね」


「分からないから聞いてるんじゃない」


「先ほど、御子様が初語を話されました。その為に魔王の端くれ様は昏倒しているのです」


「初語って、初めて言葉を喋ったってことでしょ? 良い事のはずなのに、何で気絶しちゃったのかな」


「それは何を仰ったかによるわけで……」


 シエンナの台詞に被せるようにして、舌ったらずで幼い言葉が飛び出した。今も変わらず上機嫌のニコラは、父の胸で跳ねながら声をあげたのだ。


「シエンニャ!」


「えっ。それってもしかして、アタシの事!?」


 事態を理解できないシエンナは、思わず左右を見渡してしまった。その狼狽えようから、マキーニャの長い長い溜息が辺りに漂う。


「他に誰が居るのですか。それとも今のは、謙遜を装った自慢か何か? いやらしいですね」


「そんなんじゃないってば! そんな事よりも、大事じゃなかったって皆に教えてあげなくちゃ!」


 シエンナはキャビネットの上に据え置かれた、水晶球に手を翳した。微少な魔力を放ち、心に念じる。すると彼女の思考が、使い魔の城内アナウンスを介して、全住民へと届けられた。寝耳に水とも言える騒ぎは、これによって急速なる終焉を迎えた。 


「それにしても、初語ごときで何を大騒ぎしてんだか」


 通知を終えたシエンナが息を吐く。それに被せるようにして、一層大きな息を吐いたのはマキーニャだ。


「分かりませんか、この親心が。最初は自身の名を呼んでもらいたいという情を理解できませんか。これだから乳に栄養がいってる小娘は」


「……アァ!?」


「おやおや、栄養がいった割には随分と小振りなのですね。まな板と良い勝負とは」


「テメェそこを動くなよッ!」


 シエンナは自身の中に眠る野生を呼び起こし、本能の命ずるままに飛びかかった。繰り出される鱗の拳。怒りが乗せられる分、軌道は普段よりも鋭さを増している。


 しかし相手は超然たる金属生命体だ。体の至るところを触手の様にグニャリと歪ませ、あらゆる拳打を避けてしまう。派手な見映えに反して足は一歩たりとも動いていないので、その事実がまた火に油を注ぐのだ。


 吠えるシエンナ。嘲笑うマキーニャ。両者の激しい『舞い』はニコラの興味を存分に引いたらしく、彼女の両手が実父の胸をバンバンと叩き続けた。


 そこへ折り悪く現れたのは、参謀長のクロウだった。


「陛下、先程のお声は……」


 言い終える前に、眼前で繰り広げられる混沌に、思わず眩暈を覚える。しかし彼の取りなしにより、ようやく全てが終焉を迎えるのだった。


「……なるほど。そのような事件が起きたのですね」


 エイデンはようやく正体を取り戻し、受け答えが出来る程度には復活していた。掠れきった声は病人のようであるが。


「誠に残念な結果にございますが、当然の成り行きかと言えましょう」


「なぜ、そう思う?」


「かの者の名を、日に幾度となく呼ばれましたので。赤子は頻繁に聞く音を真似るものでございます」


 つまりは自業自得であった。心当たりしかないエイデンは、反論もせずに押し黙る。


 しかしそこは英邁なる男である。彼は失敗に引きずられる事無く、すぐに次善の策を思い付いた。


「ではこうしよう。今後は皆、私の事を『お父さん』と呼ぶように」


「えぇッ!?」


「よく耳にする言葉を覚えるのだろう。ならば、この手段が最も効率的だ」


 導き出した答えは、英邁さから程遠いものだった。当然の事だが、反応は困惑一色となる。


「ええと、皆っていうのは、私たちも入ってるんですよね?」


「無論だ。しばらくの間は父と呼べ」


「このクロウ、齢は近々960歳となります。陛下の御歳よりも、600は多いのですが……」


「それでも構わん。父と呼ぶように」


 なおも言い募ろうとする声を、エイデンは手で制し、更には締めの言葉を告げた。


「しかと命じたぞ。決して違えぬようにな」


 王命は発動した。これにより、たどたどしいながらも、実践へと移されるのである。配下の者たちの努力を依代にして。


「お、お父さん。お食事の準備ができました」


「そうか。ではニコラの部屋まで届けてくれ」


 下働の者たちは気恥ずかしさ半分、呆れ半分といった様子だ。しかしエイデンは、目標達成となるまでは一歩も引かぬ構えである。よって以後も、『お父さん』への報・連・相は続く。


「お父さん。本国の提督より書状を預かっております」


「お父さん、南方にハリケーンが発生しました。間もなく城に直撃する見込みです」


「お父さん。魔界の門をクラーゴンが無理やり通過しようと……」


 このお父さん引っ張りだこ。普段に増して慌ただしかったが、今ばかりは歓迎すべき事態である。話の内容がいかなるものであったとしても、ニコラの耳に『お父さん』と響けば良い。その代償として、書見した後にハリケーンを風魔法で打ち返し、更にはクラーゴンと大格闘をさせられる羽目になってもだ。


 そうして過ごす事数日。そろそろ成果のひとつも欲しい所だが……。


「シエンニャ、シエンニャ!」


「むぅぅ。まだ足りんというのか……」


 いまだ兆しすら見えなかった。その間もシエンナの名が連呼されるので、エイデンの我慢も限界間近であった。こうなれば奥の手しかないと、彼は心を改め、腹の底から大声をあげた。


「お父さんーー、ニコラがぁぁーー!」


 何もトチ狂った訳ではない。彼なりの計算で、これまで散々に連呼したシエンナという名を、自身の代名詞に塗り替えようとしたのだ。口にする当人でさえ違和感というか、正直、気持ちが悪いとすら思う。しかし娘に呼ばれたい一心から、繰り返し繰り返し叫ぶのだ。


 そうして何十回と重ねた頃、とうとう部屋の扉がバンと開く。


「一体何を叫んでるんですか! お父さんは貴方でしょうに、本当訳わからんッ!」


 シエンナである。普段は自分の名が呼ばれるべき所を置換されているので、誰よりも違和感がつよいのだ。しかし、叱責程度の障害で諦めるほど、エイデンの意思は軟弱ではない。


「ふふっ。私はね、手段を選ぶ事をやめたのだよ」


「その結果が今の絶叫ですか。というか、顔怖いですけど。瞳孔が開いてませんか?」


「何やら細々とした事をゴチャゴチャと。変なお父さんだな」


「だから、お父さんはアンタでしょ!」


 この後シエンナによる、拷問抜きの尋問が開始された。そこでようやく理解が及ぶ。さすがに納得まではしなかったものの、不可解な謎が紐解けた事で、彼女は安堵にも似た息を漏らした。


「まったく。そこまで執着しなくても良いじゃないですか」


「何を言う。1日も休まずに甲斐甲斐しく世話する私が、無下にされて喜ぶはずがなかろう」


「よく考えてみてください。ニコラ様が私の名を覚えたのも、陛下が頻繁に呼んだからじゃないですか」


「それは先日も聞いた。まだ忘れてはおらぬ」


「そうじゃなくて、ニコラ様が貴方を信頼しているから、覚えたんじゃないですか」


「えっ……?」


「赤ちゃんというのは、身近な人の言動を真似るように出来てるんです。私の口癖なんかじゃなく、陛下の言葉を真似たのだから、それだけ信頼関係が結べてるって考えられませんか?」


「お父さん……!」


「それはマジで止めろ」


 何がしかの感動を覚えそうで、いまひとつ締まらないシーンにて、それは聞こえた。微かに、だが確実に放たれた言葉が。


「おと……しゃん」


「えっ!?」


 鈴よりも透明な声だ。その儚くも美しい響きが、エイデンの心を激しく打ち振るわせる。


「ニコラ、もう一度言えるか?」


「おとしゃん」


「もう一度だ、もう一度言えるか!?」


「おとしゃん、おとしゃん」


「アアアァァアア! かんわいぃぃーーッ!」


 刺激が強すぎたのか、エイデンは背中からブッ倒れた。そして口の端からは泡が溢れ、うわ言が繰り返し漏れている。結局、呼ばれても呼ばれなくても、話は同じところへ帰結してしまうのだ。


 その様子を、涼しげな笑みを湛えながら眺めるシエンナ。それからは、親子の睦あいを邪魔してはいけないと思い、依然気絶したままの主人を放置して部屋を後にした。 

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