第2話 健康は食事から

 エイデンはただ今自室に籠り、熱心に作業中である。神経を遣わされる仕事だ。頭に重たいものを感じながらも、眼前にジッと注視する。


 火にかけられた鍋に気泡がポツリ、ポツリと浮かびあがると、やがて沸点を迎えた。そこで大きな息をひとつ吐き、魔法を解除する事で鎮火させる。


「よし、鍋は出来たな」


 湯沸かし程度の炎を維持することは、一般魔族には容易くとも、魔王級の人物にしてみれば難題だ。膨大な魔力をチョロ出しにまで引き絞る行為は、実は高等技術なのだ。そういった理由から、まだ昼前という時刻にも関わらず、疲れの色を濃くしていた。いっそのこと、山脈を吹き飛ばせと言われた方が気楽である。


「さてと、お次はこれだな」


 次に目を移したのは白い粉を満載した小瓶だ。そこから擦り切りで2さじ分の粉を、木製コップの底に敷き詰めた。魔界より取り寄せた純正品はだいぶ値が張るが、そうだと知っていても、代替えについて考えたことは無い。


「では、注ぐとしよう」


 鍋の湯をコップへと移し換えていく。内側に描かれた目盛りを視界の端に捉えつつ、過不足の無いように。そうして太い線に水面を重ねると鍋を離し、今度は氷魔法を放った。目標は依然としてコップであり、氷漬けにした途端、今度は数を数えた。


「ひとつ……ふたつ……」


 ここが品質の分水嶺(ぶんすいれい)だ。熱すぎても、冷たすぎても真価を損なってしまう。慎重に慎重を重ね、十まで数え上げると魔法を解いた。コップから漂う湯気は、もはや完全に消失している。


 順調と見るやコップに蓋を着けた。それは面の端に、クチバシのような管が短く突き出しており、このまま傾けたなら中身が形状通りに溢れてしまう。その湯量を調節する為に取り出したのは、球状に丸めたヘチマタワシだ。管の先端に詰め込むことで、推量を絶妙にコントロール出来るのだ。


「では、仕上げだ!」


 眩暈(めまい)の押し寄せる感覚がある。しかし、大詰めを前にして弱音など吐けない。


「魔の者を産みし常(とこ)しえの王よ。地よりも深き冥府より金剛が如き力を……」


 詠唱が長々と続く。それが止むと指先に金色の光が宿り、吸い口へと移された。これは防護魔法である。ここでも魔力の調節は重要で、強すぎると中身が出ず、弱すぎればタワシ球を誤飲してしまう恐れがある。ある意味では最も重要な工程だと言えた。


「出来たぞ、ミルク!」


 この頃にはもう、額に大粒の汗が浮かび上がり、頬を伝って滴るほどであった。何かひと息くらい挟みたくなる気分だが、その暇は無い。冷めきってしまう前に、一刻も早く娘の元へと向かわねばならない。


「待っていろニコラ、すぐに行くぞ!」


 自室を飛び出した刹那に聞こえたのは、か細い泣き声であった。可愛いキャワイイ愛娘の、腹が減ったと叫ぶそれである。エイデンはもはや疲労を厭う気など失せていた。たとえこの身が滅び、百万度の炎に焦がされようとも、ミルクだけは届ける決意を固めた。


「道を空けよ! 王命である、道を空けよーーッ!」


 唐突すぎる最上位の号令に慌てたのは、下働きの者たちだ。そうでなくても、エイデンが人智を超えた速度で廊下を駆け抜けていくのだ。積み上げた皿を運ぶメイドは全てをぶちまけ、窓拭きの男は椅子から転げ落ち、尻を激しく打ち付けた。そして、災難に襲われたのは末端だけではない。王の右腕たるクロウもその中に含まれた。


「陛下。軍の再編計画について……」


「そこをどけぇーーッ!」


 暴風のように駆け抜ける王を捉える事は不可能だ。その余波を受けて、徹夜で仕上げた計画書が辺りに舞い散る。それを漫然と拾うクロウ。ただでさえ悪い彼の顔色を、一層暗く染めてしまう場面でもあった。


「待たせたなニコラ、おっぱいだぞ!」


 ようやく娘との対面を果たすと、息を整えもせず、自身の胸元に抱き上げた。そして先程のコップを取りだし、口に当てがってやる。これで授乳が達成できる……はずだったが、雲行きは早くも怪しいものとなる。


「エヒッ、ケヒッ」


「む? どうかした……」


「フェエーーン!」


「なっ、なんだとぉ!?」


 あろうことか、ニコラは数口だけでミルクを拒絶。吸い口からすっかり顔を離してしまい、ひたすらに泣き続けている。


 これにはエイデンも胆を氷点下にまで冷やした。同時に、これまでの工程を目まぐるしく振り返った。


(何か誤りがあったか。いや、いつもと大筋変わらぬハズだ。冷やしすぎか、それとも防護魔法にしくじったか。だとしてもこの泣き様は異常だ)


 始めのうちは現実的だった考察も、次第に脇道の方へと逸れていく。その先が不毛の地である事に、英邁だのと持て囃されるエイデンだが、全くもって気付きもしない。


(そもそも粉だ。あれに問題があったのでは? 傷んでいたとか、あるいは邪山羊の乳で無いとか。いやいや待てよ毒かもしれない我が娘を滅さんとする何者かが忍び込んだ末に小瓶を探し当てて毒を盛った可能性が)


 頭に浮かぶのは数えきれない程のもしかして、かもしれない、の言葉たち。思考がそれらと追いかけっこを繰り返し、その挙げ句に飛び出したのは、今となってはお決まりの台詞であった。


「シエンナァァ! ニコラがぁぁ!」


 叫びが響くなり廊下からは足音が鳴り、そしてバンッと扉が開いた。ノックも掛け声すらも無いという非礼ぶりだが、それを咎められる者はいない。そもそも、主のエイデンですら気にも留めていないのだから。


「よくぞ来てくれた。助けてくれ!」


「はぁ。それで、今回はどうされました?」


「ええとだな、魔界の邪山羊が毒の防護魔法を強めてしまって……」


「んん……!?」


 エイデンは妄言をそのまま取り出して語ったが為に、もはや言語の体すら保てていなかった。すぐさまシエンナによる質疑応答を繰り返す事で、その怪文もようやく読み解けるまでに至った。


「はぁ、おおよその事情は分かりました」


「そういう事だ。これはもしかすると、何者かが我が居室に忍び込み、猛毒を仕込んだとしか思えぬ」


「それは有り得ません。用具一式は魔王様が保管されているじゃないですか」


 彼女の言う通り、エイデンは娘の口に入るものを、粉からコップに至るまで全てを管理していた。それも逐一に魔法で封印するという徹底ぶりだ。伝説の魔剣クラガマッハすら封じてしまう強度のものなど、おいそれと解呪は出来ない。


 エイデンはこの頃になって、ようやく平静を取り戻し始めた。 

 

「むぅ、言われてみれば……確かに」


「城の者はもとより、たとえ凄腕の侵入者であっても不可能ですよ」


「となると粉の鮮度か? いつの間にか腐敗していた……」


「ええと、ちょっとお借りしますね」


 早くも問答に焦れだしたシエンナは、主の返事を待たずにコップを奪い取った。そして手の甲にミルクを垂らしてみる。


「うーん。ぬるい、というか冷えてますね」


「そんなバカなッ!?」


 念のために垂らした数滴を舐めてみるが、特に問題は見当たらない。となると、やはり温度に原因があったとしか言えなかった。


「陛下、飲ませる前に触ってみましたか? 適温は人肌ですよ」


「私の性質を知った上でそう申すのか」


「あっ。そういえば耐性持ちでしたね」


 エイデンは純潔の魔王種であるため、おびただしい数の特性を有している。そのうちにあるのが『炎・冷気への強耐性』である。戦となれば極めて頼りなるものだが、繊細な温度を計る際には邪魔でしかない。何せ『熱い冷たい』と大まかにしか判別がつかないのだから。


 更に事態をややこしくしているのが、娘が混血児という点である。こちらは件(くだん)の強耐性を継がずに生まれた為、温度変化には敏感だった。実際に、冷えたミルクも飲まずに拒絶してみせた。


「何ということだ……。百万の敵すら寄せ付けぬこの私が、娘の腹ひとつ満たしてやれぬとは……!」


 打ちひしがれたエイデンが、膝を折って崩れた。放っておけば落涙すらしかねない程の嘆きっぷりである。


 シエンナは聞こえよがしに溜め息をつくと、一言断ってから部屋を出た。しばらくして戻った彼女の手には、ガラス細工が握られていた。


「こ、これは……」


 エイデンの湿った瞳が映すのは、内包する砂の量に比べ、妙に大きな時計であった。


「きっかり10秒計れるように調節しました。これで冷やす時間を間違えずに済むでしょう」


「なるほど! その手があったか!」


 窓から差す光を浴びて、ガラスがキラリと輝く。それはさながら、闇夜を照らすランプのように思え、エイデンは高々と掲げてしまった。


「じゃあ、私は仕事に戻って良いですか?」


「大義であったシエンナ。多忙の時に済まない」


「ええ、まぁ……失礼します」


 なにがしかの言葉を飲み込みながら、シエンナは退室した。その一方で、エイデンも素早く居室へと戻り、いちからミルク作りを開始した。コップに2杯の粉を敷き、お湯で溶かすまでは従来通りに進める。


「よしよし、次は10秒冷やせば良いな」


 コップに両手をかざし、氷魔法を発動させた。だがここでハッと気付く。砂時計を返していない事に。


「何という失態! 一生の不覚だ……!」


 本来、魔法の使用など片手でも問題はない。だが今は精密な操作を要求されている最中だ。迂闊に姿勢を崩せば、魔力の安定を保てなくなり、下手すれば暴発してしまう。駆け抜けるのは天災クラスの冷気で、最悪の場合、城全体が凍りつきかねない。


「シエンナァァ! 砂ァァ! 砂ひっくり返してぇぇ!」


 その求めに応じたのは、邪龍を思い出させる咆哮(ほうこう)と、それに劣らぬ足音である。連日連夜の呼び出しに、彼女の我慢も限界を迎えつつあったのだ。そしてとうとう怒りが爆発し、龍の鱗を持つ拳が主君の頬を打ち抜いてしまう。


「このクソ魔王が!」


 暴言つきの殴打は、当然ながら不敬の極みだ。無礼討ちとなってもおかしくない大罪。しかしエイデンは何ら罪に問うことは無かった。シエンナを心底頼りにしている事と、自身の不手際っぷりを存分に自覚するが故にである。

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