108.夜空に湯けむり

 丸く大きな天窓は曇りなく、星空を切り取っている。

 今日は月がニの月ツヴァイひとつだけで、その月も剣のように細いから星の灯りが際立って美しい。



 わたしは自分の浸かっているお湯を手で軽く叩いた。乳白色のお湯が揺れて波をたてる。


 ここは大浴場。神殿の中でもわたしのお気に入りの場所である。

 天窓はあるけれど、曇り防止の他に向こうからは反射して見えない魔法が付与してあるそうだ。星を見ながらお風呂に入れるのはとても気持ちがよくて、わたしはここに来て早々虜になってしまったのである。



「シュトゥルムはどうでした?」


 体や髪を洗い終わったレオナさんが、主浴槽に入ってくる。纏められた金糸から滴が垂れて、レオナさんは邪魔そうに前髪を撫で付けた。


「国境近くの町は良かったですよ。まぁ治安のいい地区のお宿だったみたいで、実際は分からないんですけど」


 わたしの隣で足を伸ばすレオナさん。彼女と一緒にお風呂に入るのは初めてではないんだけど、一緒になる度に不思議に思う事がある。

 ……胸って浮くの? 聞きたいけれど、言葉にすると負けな気がして口には出来ないでいる。

 ちなみにレオナさんはわたしの胸にある水晶を初めて見た時に、綺麗だと言ってくれた。わたしの贖罪の象徴みたいなものだけど、レオナさんがそう言ってくれて何だか安心した事を今でも覚えている。


 

「エルステは……なぁんか不気味でしたねぇ。活気はあるんですけどね、妄信的というか……」


 胸から意識を離して、わたしは浴槽の縁に両腕を乗せた。それを枕に頭を預けると、揺れる水音が近くで聞こえて何だか擽ったい。


「あの勇者クズの出身地ですからね」

「みんな誇らしげでしたよ、勇者が現れた事を」

「知らないって幸せですね」


 苦々しげに吐き捨てる様子に、肩が揺れた。本当にブレないな。わたしも同感ではあるんだけれど。


「シュトゥルムといえば。こないだ人助けで行った先もシュトゥルムだったんですよ。金ピカ鎧の偉そうな人と、御付きの騎士が二人いたんです。そのうちの一人が『生』を願ったみたいで」

「金ピカ鎧……貴族かなにかですか?」

「たぶんそうだと思います。偉そうだし、『屋敷に招待してやる』なんてわたし達の腕を掴むし。それで魔導具の結界に吹っ飛ばされてましたけど」

「記憶もなにもかも吹っ飛んでいれば良かったのに」


 眉を寄せるレオナさんはわたしの髪に手を伸ばして、額にかかる前髪を避けてくれた。わたしは浴槽に背を預けるよう座り直すと、お湯の中で膝を抱えた。


「アルトさんが庇ってくれたので大丈夫ですよ」

「それならいいんですが……クレアさんが一人で人助けをしていた時も、そうやって絡まれる事があったんじゃないですか?」

「あー……」


 まぁ全く無かったとは言えない。

 大抵の人は感謝して去ってくれるのだけど、わたしも一緒に行こうと強引な人も時々居たのだ。


「やっぱり。危ない時もあったんですね」

「そういう時は眠り薬を口か鼻に突っ込んでましたから、大丈夫ですよ。でも今はそういう心配をしなくていいので、有難いですねぇ」

「アルト様と一緒に居て下さいね。離れちゃだめですよ、危ないから」

「ふふ、分かっていますよぅ」


 心配してくれるその気持ちが嬉しい。わたしは本当に大事にして貰っている。それなのに恩も返さず勝手に逃げて、あの独り善がりだった自分をぶっとばしてやりたいくらいだ。


「腕を掴まれてぞわりとしました。そういえばあの腕輪にまた魔石を埋めないとなぁ」

「心を許していない人に触れられるなんて、気持ち悪かったでしょうね」

「ですです。でも結界が発動したら、金ピカ鎧はもうそっちに意識が集中していましたし」

「それも危ないですよ。優秀な魔導具師だと知られたら、拐われちゃいますもの。アルト様に守って貰って下さいね」

「そうします」


 そうか、そういう危険も無くはないのか。でもあの超人が護衛として一緒に居てくれたら心配する事もないだろう。

 わたしが天窓を仰ぐと湯けむりが視界に伸びてくる。それをふぅっと吹き飛ばすと綺麗な星空が見えた。一際明るいあの星にも名前があるのだろうか。


 わたし達は少しの間、無言で星空を眺めていたのだけど、そういえばとレオナさんに向き直った。わたしの視線に気付いたレオナさんは、どうかしたかとにっこり笑う。


「アルトさんにお礼をしたいんですが、アルトさんの好きなものって何でしょう」


 護衛としてわたしの側にいてくれるけれど、わたしが知っている事は多くない。銀細工を作るのが好きな事、甘いものは好まない事、コーヒーは苦味の強いものが好きなことくらい。


「お礼ですか」

「迷惑も掛けていますし、髪飾りも貰っているので……」

「あのリボンカチューシャ、可愛かったですね」

「アルトさんって女子力高いですよね」


 わたしの言葉にレオナさんは小さく吹き出した。確かに、なんて頷いてるけれど、これはわたし達だけの内緒話にしておいた方が良さそうだ。


「うーん……クレアさんが選ぶものなら、きっと何でも喜びそうですけどね」

「確かに嫌な顔はしないと思いますが、好きなもの渡したいなって」


 レオナさんはわたしの顔をじっと見つめて、それからその綺麗なサファイアの瞳を細めて笑った。わたしにはその表情に見覚えがある。……恋愛脳のスイッチが入ったかな。


「クレアさんは、アルト様をどう思っているんですか?」

「それは、超人過ぎる気のいい――」

「アルト様に触れられたら、嫌ですか?」


 何度となく問われたことに、定型文と化した答えを返そうとするもそれは遮られた。茶化してはいない、優しくもまっすぐにわたしに届く声だった。


 アルトさんに触れられる。

 それは珍しい事じゃない。距離感が近い彼は、わたしの肩も抱くし何なら抱き締められる事だって少なくない。頭だってよく撫でるし、手を繋ぐくらい慣れたものだ。

 ……慣れた? そうだ、わたしはアルトさんに触れられて嫌な気持ちになっていない。あの金ピカ鎧に触れられると、それだけでおぞましかったのに。


「……じゃあ、アルト様が他の女の子に触れていたら?」


 何も答えていないのに、わたしの心が分かっているかのようだ。レオナさんは諭すような優しい声で問いを紡ぐ。その眼差しはひどく穏やかだ。


 アルトさんが他の女の子を抱き締めて、肩を抱いて眠らせて、あの東雲の瞳で笑いかけて……。それだけ想像して、だめだった。胸の奥が軋むように、ぐらりとくらい炎が沸き立つようだった。


 待って、どういうこと?

 これだとまるで、わたしがアルトさんのこと……。


 何も言えないわたしをよそに、レオナさんはどこか嬉しげだ。お湯の中からわたしの手をとると、強く握ってぶんぶん揺らす。お湯も波打つし、浮いてる胸だって揺れている。


「いいんですよ、クレアさん。少しずつ考えていけば」


 そう言いながらも彼女の顔は喜びで満ちている。

 わたしは顔が熱くなる事を自覚したけれど、それがこの感情のせいなのか、逆上せているのかは分からなかった。


「……レオナさん、だめ……のぼせる……」


 逆上せているのかなんて思ったら、世界が回った。視界の端から少しずつ暗くなっていく。ぐらりと眩暈がしたと思ったら、わたしはレオナさんに倒れこんでいた。


「きゃー! クレアさん!」


 慌てたようにレオナさんが叫んでいるのが聞こえる。遠くなる意識の中でわたしが考えていた事は、鼻血が出ないといいな、なんて割りとどうでもいいことだった。

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