88.混沌
【混沌とは何か。】
わたしの問いに、エールデ様はその細い首を傾げて見せる。緑の瞳を不思議そうに瞬かせて。
『混沌とは、主神ケイオスである。この世界は混沌に浮かぶ船だと、知っているだろう』
「ええ、それは知っています。でも混沌から【人を堕落させる悪魔】も生まれる」
『そうだ』
「どうして主神である混沌から、悪魔が生まれるんでしょう」
『それをわたしは口に出来ぬ』
エールデ様はわたしをじっと見つめている。何かを伝えようとしているような、強い輝きをもって。
「……いま、ケイオス様は何をなさっているんですか」
きっと、これが正解。
それを証拠に、エールデ様はにっこりと笑っている。
『わたしの愛する夫は、影さえも飲み込み混沌の中で眠っているよ』
これ以上の情報は望めなさそうだ。
わたしは小さく頷くと、頭を下げて礼をする。隣でアルトさんも頭を下げた。
「ありがとうございます、エールデ様」
『構わぬ。そなたらは皆、私の可愛い愛し子よ。……アルト、クレアを頼むぞ』
「次は必ず守ります」
アルトさんの返事に満足そうに笑うと、一際、神気が強くなる。淡い緑の光が収束していって弾けた後、そこには既に母神の姿はない。ただ、ふわりと花香が残るだけだった。
わたしとアルトさんは、聖堂を離れ廊下を並んで歩いていた。
もう正直眠たいし、何だか今日は色んな事があったから疲れ果てているんだけど……。隣を歩く超人護衛を見るも、彼は疲れた様子もなく怖いくらいに普段通りだ。
「どうした?」
「……アルトさんって疲れないんですか?」
「そういうわけではないが」
「いやいや、疲れてるところなんて見たことないですよ。昨夜からずっとわたしに付き合って、魔王領まで転移して、エールデ様ともお会いして……疲れないってどれだけ超人なんですか」
「超人なわけではないが」
「超人です」
きっぱり言い切ってやると、可笑しそうに肩を揺らしている。今にも眠ってしまいそうなわたしとは大違いだ。
「眠たくないんですか?」
「言われたら、少し眠いかもな」
「ゆっくり眠ってくださいね。わたしも眠りますから」
「ああ、そうする。何かあれば壁でも叩いてくれ」
「それはそれで抵抗があるんですけど」
軽口を叩いている間に、わたし達の部屋の前だ。以前からアルトさんは、わたしの事を部屋の前まで送ってくれていたから、部屋が隣同士になった事でそれ程手間を掛けさせなくても良くなったかもしれない。
「おやすみなさい……っていうのも、不思議な感覚ですけど。でも、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
まだ陽が高いのに。それでも就寝前にはおやすみだろう。
わたし達はお互い笑って、それぞれの部屋に戻ったのだった。
明るい部屋のカーテンを閉める。暗くしたら寝過ごすかもしれないけれど、もうぐっすり眠りたいのだ。
忘れずに
それにしても。
主神ケイオスが『影さえ飲み込み混沌の中で眠っている』とは。混沌であるケイオス様が、その中で眠る? しかも影を飲み込んで?
だめだ、頭が回らない。でもこれはきっと大事なことだと思う。古い文献をあたれば、ケイオス様について分かるだろうか。主神信仰の篤い魔王領で、ヒルダに聞いてみるのもいいかもしれない。
少し寒さを感じて、もぞもぞと毛布の中に潜り込む。冷たい寝具がわたしの体温と同化していく感覚が好きだ。
住居棟だからか、静寂に包まれている。こんな日中から惰眠を貪る人も少ないのだろう。思えばこの神殿の人達は皆、活動的だ。
うとうと、と睡魔がにじり寄って来る。それに抗う事も出来ず、わたしは重たい瞼を閉じた。
今日は本当に色々あったから、疲れてしまった。それでも、またこの神殿で友人達と過ごせる事は素直に嬉しい。わたしはこの数ヶ月で、すっかりと絆されてしまったみたいだから。
意識が沈む中、不意にわたしの頭によぎったのは『主神ケイオスは、混沌の中で影を封印しているのではないか』という一つの仮定だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます