第21話 紀貫之之章(終章)
気が付けば僕は元いた場所、研究所と思しきその部屋にいた。それは来た時と同じ装いで、しかし車椅子の男を欠いたその部屋は妙に白々しく、異物のような気持ち悪さを伴って僕を迎えていた。
「真理、無事だったかい?」
はたして真理はその白い床に疲れたように座り込んでいた。
「貫之、
こちらに顔を向ける事無く真理が呟く。その言葉とは裏腹に声は微かに震えているようで。
「その、詠人は、いなくなっちゃったね」
「ええ、そうね……でも仕方ないわ」
泣いている。きっと真理は僕以上に、彼女を支えた詠人達と別れを惜しむ間が無かったのだろう。やがて真理は戦いの顛末を静かに語り始めた。
「……それで私は
「突然の事で少し寂しかったけど、それは仕方無いわ。それであなたの方はどうだったの?」
僕は事の次第を真理に話した。藤原定家が自分勝手な妄想を撒き散らし暴走した事、蝉丸さんや不比等に最後まで助けられた事、僕の心に紀貫之の魂が宿り、そして消えた事、自分の気持ちを整理するように一つ一つ僕は話した。
「ふぅん、そう」
真理は言葉を短く切りこちらを振り向いた。はたしてその顔に涙の痕は既に無く。
「それじゃあいつまでもここにいても仕方ないし僕達も帰ろうか」
「そうね、あなたが在るべき場所へ」
「そう、僕達が在るべき場所へ」
僕達が在るべき場所、それは何の変哲も無い日常、朝起きて会社に行き、一日の仕事を終え疲れて家に帰る。そんないつもと変わらない日々。
僕達は最初にこの東京駅八重洲地下街を訪れた時の道程を遡る様に帰路につく。頭上に見上げる高速道路は未だに封鎖されているようだったが、一般道路には既に車の往来も見られた。霧が晴れ、ヨミビトがいなくなった今、直ぐに街はまた人で溢れるだろう。
「真理は詠人召喚システムを使えなくなった事、残念に思うかい?」
僕の問い掛けに真理は漆黒の日傘を閉じ笑みを浮かべた。
「そうでもないわ。私が強いのは、それは元々私が強いから。あなたの方こそ詠人がいなきゃ何も出来ないんじゃないの? あなたの詠人がいればこの世界を好きにすることくらい出来たかもしれないわよ」
真理はそう言ってビュッビュッと子気味の良い音をたてながら傘を振る。確かにそうだ、真理は自分を確り持っている、それが彼女の強さだ。
「世界を好きにする、か。そんな事考えた事も無いよ。僕は勇者でも英雄でも無い、只の
あっは、と真理が声をあげて笑う。そう、僕はこれまでもこれからも只の一般人、世界はおろか女の子一人好きに出来ない
「それじゃ私はここで行くわ、さよならね」
秋葉原を通り過ぎ進路を西に切った頃、唐突に真理が告げた。
「ああ……真理の帰る場所は池袋か」
当たり前のように僕の部屋についてきていた真理に帰る場所があるなんて思ってもみなかったが、そりゃそうか、住んでる場所があって当然か。全てに決着が着いた、なら彼女が僕と一緒にいる意味は無い、か。
「ちょっと待って、真理」
すたすたと歩みを進める真理を僕は呼び止める。
「美味しい紅茶が飲みたくなったらまた僕の部屋においでよ。僕がいない時は勝手に入って待っててくれていいから」
僕が彼女に手渡したそれは鈍く銀色に光る部屋の鍵。彼女はしばらくの間じっと僕の顔を見つめ、そして僕の部屋の鍵を受け取った。
「ありがと、そうするわ」
彼女は手に持った鍵をひらひらと振りながら去ってゆく。僕はサヨナラは言わなかった。一般人の僕にもそれくらいは許されるだろう。真理の黒が次第に小さくなり、やがて僕の視界から消えた。
人はいさ心も知らずふるさとは……か。ここからまだ僕の住む吉祥寺までは遠い。ヨミビトによって破壊された建物、荒れた大地を見ながら僕は一人歩く。
――これやこの……
ふと蝉丸さんの歌が口をついて零れた。今思えばあっという間の四日間だった。この間の出来事は世間にどう伝えられるのだろう。突然の異常気象、濃い霧が見せた集団幻覚、恐怖によるストレスからくる暴走、そんなところか。死者多数、行方不明者多数、国の偉いさんの首が飛ぶくらいはあるかもしれない。
――行くも帰るも別れては……
壊れた建物、荒れた街は直ぐにでも復旧するだろう。僕達はそうやって幾多の苦難を乗り越えてきた。人類の明日への渇望が果てることは決してない。そしてそこには過去から連綿と続く古の人々の思いも込められているのだ。
それは天智天皇の思いであり持統天皇の思いであり、後鳥羽院の思いであり崇徳院の思いであり、藤原定家の思いであり紀貫之の思いであり、そして不比等の思いであり蝉丸さんの思いでもあり。
――知るも知らぬも……
雲の切れ間から眩い光が射し、暖かい風が僕の頬を撫でた。ああ、ハルコさんとの最終決戦に備えて今日はゆっくり休まなくちゃいけないな。当たり前の日常への帰還、久しぶりのベッドが恋しい。
「ゲートオブ……」
……閉幕。
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