第22話 外伝 在原業平之章①
東京都千代田区丸の内一丁目、ある意味に於いてそこは日本の真ん中で、人、モノ、それらの往来という意味では紛れもなく日本の中心地だ。たとえ数年後に控えたリニア鉄道の開業が品川をターミナル駅としていたとしても東京駅のセントラリティは揺ぎ無いと容易くそう思わせる程にその存在は圧倒的だった。
赤煉瓦に彩られたその建物は歴史や文化に留まらず日本人の心さえも内包し、しかし悪い意味での古さを一切感じさせない、そんな輝きに満ちていた。
だが今日ここに、その均整こそを美徳とする駅前広場に、それらを埋め尽くし調和を破壊するが如く集まった人々の目的は、決して優雅を誇る赤煉瓦を鑑賞しようということではなかった。
頭上を見上げる人々、その瞳が見つめる先に本来映るはずの東京駅は、突如発生した深い霧の為にその姿を完全に隠していた。
濃霧の為、全線の運行を見合わせる。その発表は駅を訪れた人々に衝撃を与えた。まだ日も昇らぬ早朝からその構内は完全に封鎖され、多くの人々をこの地に留めた。
これから東京を出て仕事に向かう人もいるだろう、反対に東京で一仕事終え帰路につく人もいるだろう、それらは皆一様に、目的や理由による事無く足止めされたのだった。
「馬鹿野郎! いつ動くんだ」
「兎に角、中に入れろ!」
入口に近い所では当然のように怒号が飛び交う。進めない、しかし戻る事も叶わない、一歩の身動きさえ取れない程に、そこは人で埋め尽くされていた。
やがて怒号は伝播する。中には悲鳴も聞こえる。ぐしゃりと何かが潰れる音、怒鳴りとも呻きともとれる凄惨な叫び、もしもこれが目に見える所で発生している事象ならば人々は却って落ち着くことが出来たのかもしれない。騒いでいる輩を見て我が振りを直す、良くあることだ。
だが悪意に満ちたその霧は数歩前の人々の姿さえも覆い隠した。見えない所で怒声が轟き悲鳴が木霊する。遠いのか近いのかさえも判らない、もしかするとそれは自分の直ぐ後ろで起こっている狂乱なのかもしれない。そう思うと人は平静ではいられなくなる。
人の波に押し潰されまいと脚には常に緊張が強いられる。肌にまとわりつく霧、苛立つ心、いつ襲ってくるかわからない隣人。ならばやられる前にやる、人々がその思考に辿り着くまでに大した時間は要しなかった。
一度拡がりをみせた狂騒の波は止まらない。もはや何に対して怒りをぶつけているのかさえもわからない。人々の絶望の叫びがその頂点に達した時、東京駅の真上に一筋の強い光が射した。
霧が晴れた? そう思った人も少なくなかっただろう。しかし人々の期待とは裏腹に霧は一向に晴れる様子も無く、そしてその光は徐々に人の形を成し、ゆっくりとその大地に降り立った。
スマートフォンを翳しその人ともつかぬ光の塊にカメラを向けた人は確かに大勢いた。しかしそこに映ったのは例外なく只のぼやけた光で、それは不可思議と呼べる画像ですらない。
光が薄れそこに残ったのは長身の一人の男、しかしその肉眼では鮮明に見える姿も決してスマートフォンに電子データとして残る事は無かった。
「ここは……ふむ、俺の知らない場所、だな。いや、俺の知らない世界、と言った方がよいか。俺を起こしたのは貴様等か? はん、そうだったとしてもこんな民草どもに用は無い、か」
それまで手を動かす隙間さえ無いと思われた密集地帯だったが自然人々はその男を避けた。男の周りにぽっかりと出来た穴、それはこの男が決して触れてはならない人外だという事を如実に伝えていた。
「ふん、なんとも無粋。どこの世か知らぬがここの者は風流をわきまえぬ、か。ここに居てもつまらぬ、貴様等どけぃ!」
ぐるり周囲を見渡し、そして発した男の声に群衆が二つに割れる。かつて十戒を示したモーセがエジプトを脱出する際に波を二つに割りそこを通ったという逸話の如く、それはまるで波が引くように男の目前に一本の道が通った。
遠くの者はその姿さえ捉えていなかったに違いない。それでも当然のように身を退く、それは人外を前に弱者に与えられた生存本能に他ならなかった。
「それにしてもこの霧、煩わしい。さしずめこの児戯は藤原定家の仕業といったところか。奴の思惑で踊るというのも気に食わぬ」
当然今現れたばかりのこの男には何一つ状況は掴めていない。それを呟いた本人でさえも自分の言葉に何ら確信が無い事は承知していた。しかしそれは詠人同士の
男は群衆の中に出来た一本の道を悠然と進む。押し黙り緊張のあまり顔を引き攣らせた人々をまるで無視するようにゆっくりと歩を進める。
やがて広場を抜けたその男は端整な顔を北の空に向けた。
「が、気分は悪くない」
男は北へ向かって歩き出す。
それは平安時代に優れた歌と美貌で浮世を流し、六歌仙の一人に数えられる歌人、右近衛権中将、
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