第20話 藤原定家之章②
「おのれ、
琵琶の音を響かせながら蝉丸さんが静かに口を開く。
「すまぬの貫之、儂は一時でもお主の呼び掛けに応える事を躊躇った。じゃがそれでも戦うお主と不比等を見てようやっと目が覚めたわい。在るべき場所へ還る、か。誠にその通りじゃ、ここは本来儂らがおる場所ではないて。それにこんな年寄りが残ったことろで如何程の事があろうか、老兵はただ去るのみ、じゃの」
蝉丸さん……すみません。貴方には辛い思いをさせてしまった。僕の窮地を何度も救ってくれた蝉丸さん。僕の詠人が貴方で良かった。
「
「屁理屈を……そんな理屈が通ると思うか!
歌術によって現れた僕と定家を繋ぐ一本の道、その道だけを残して辺りは一面の闇に沈む。
「いかん、マスター、
蝉丸さんの琵琶の音がそのテンポを上げる。それは心の底を鼓舞するメロディー、戦いの唄。
「今行く! 待ってろ貫之」
その時、僕の心に一つの声が響いた。
『汝、我の名を呼び給へ』
……僕はこの声を……知っている。何時からだろう、僕の中にもう一人の自分が居たのは。夢の中でその声を聴いた時だろうか、詠人召喚システムを手にした時だろうか、はたまたどこかの戦いの最中で、それとも……僕にこの名が与えられた時から。
今なら確かに解る。平安時代の代表的歌人で、最初の勅撰和歌集である古今和歌集を撰上し、その歌に於いて日本史上最も高い評価を集め、後の世に影響を与え続けるその人、そして僕と同じ名を持つその人。
「紀貫之!」
僕の心が、身体が、血液が、熱く沸き立つ。僕の中に居たもう一人の僕、それは紀貫之。真千子に小野小町が降りたように、僕にも紀貫之の心が確かに宿っている。
「……人はいさ心も知らずふるさとは、花ぞ昔の香ににほいける。うん、今なら戦える。蝉丸さん、不比等、退いて! 後は僕がやる」
「ば、馬鹿な……貫之だと! この世に私以上の歌人など存在しない! 存在してはならない! 紀貫之……貫之! 貫之! 貫之! うるさい! 最も優れた歌人はこの私だ!」
もはや狂気のみに彩られたそれは只の化物と呼ぶ以外になく。その身体からどす黒い瘴気が絶え間なく溢れる。
「藤原定家、あなたは間違っている。それぞれの歌に優劣なんて存在しない。有るのは詠人達の思い、それだけだ。それは時に悲しく、時に儚げで、時に荒々しく、時に怒りに満ちて、そして時に喜びに溢れる。その思いの詰まった歌はだからこそ美しく尊い」
百人一首をはじめ今に残る多くの歌、作者がわからず歌のみが残ったものも含めて、たくさんの人がその意味を噛みしめ、たくさんの人がそれに倣った。時代を越えて受け継がれてきたもの、和歌。
「定家、あなたに後鳥羽院の矜持に潜む葛藤が見えますか? 崇徳院の怒りを支える渇望が聞こえますか? 持統天皇の悲しみの先にある希望を共に感じることが出来ますか? 今のあなたには無理です。彼等の思いに比べればあなたのそれは自分勝手なエゴですらない」
「うるさい! 黙れ! 嫌だ、聞きたくない、私は、私を、讃える、言葉以外、聞きたくない! 私は……私は……」
定家の言葉は溶ける様に辺りに沈み、溢れる瘴気ばかりが広がる。
「歌はあなた一人の物じゃない。歌は言葉、言葉は言霊、言霊は祈りであり呪い、たとえそれがどんなに不出来であろうと、思いが宿ればやがてそれは力になる。僕も詠みましょう、『我が御名は都に咲くや一輪花、夢の島とも塵の島とも』これが僕の歌です、歌の力です。歌術『
光が拡がる。僕だけに見える美しい景色、それは静かに定家からあふれ出る瘴気を包む。黒が弾け黒が裂け、黒が散りやがて黒が消える。そしてそこに残ったのは膝を折り、抜け殻のように焦点の合わない瞳で僕を見つめる一人の男だった。
「藤原定家さん、来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに、焼くや藻塩の身もこがれつつ。あなたの歌だ。この歌を詠んだ時、あなたは確かに自分の思いをその歌に込めたはずだ。その時のあなたは評価なんて気にしていなかったはずだ。さようなら定家さん、あなたの歌、僕は好きです。あなたが愛した歌の世界へお還りなさい! 歌術『心も知らずふるさと《アルベキバショヘ》』」
「嫌だ! 嫌だ、逝きたくない! 私は、選者だ、私は、歌人だ、私は、私は……誰、だ?」
浄化の光が藤原定家の身体を包む。彼の言葉は、呻き声に掻き消されながら振り絞ったその最後の言葉は、闇に沈む事無く確かに僕の耳に届いた。あなたは、貴方は和歌の持つ美しさを極限まで追求した歌聖『
「マスター、終わったの、見事じゃった」
闇に一人取り残された僕の脳裏に蝉丸さんの声が優しく響いた。
「蝉丸さん、何処ですか!」
「貫之、やったな! 俺と爺さんはもう行かなきゃならねぇ。お前も嬢ちゃんが待ってんだろ、そんな顔してるとまた振られるぞ」
不比等の声。僕は目を凝らして蝉丸さんを探す。不比等を探す。暗闇の中、しかしその姿は見えなかった。
「不比等、蝉丸さん! 僕は、僕はこうなることがわかっていて藤原定家と戦った。でも嫌だよ、やっぱり嫌だよ、不比等、蝉丸さん。もう少し、もう少しだけ一緒にいてよ、ほら、一緒に帰ろうよ、僕の部屋までさ、それでちゃんとお別れをしてさ、またいつか会えるといいねってさ、嘘でもいいから、そうやって……」
僕は泣いていた。自分で選んだ答えにやっぱり泣いていた。
「マスター、貫之よ、お主言っておったじゃろう、歌には皆の思いが詰まっておると。詠み継がれ、歌い継がれて儂らは今ここにおる。それはこれからも変わらんて。お主が儂等の歌を覚えておる限り儂等はお主の心の中にいつもおる。詠人召喚システムなどという紛い物に頼らんでも、お主が儂の詠んだ歌を口ずさめば、そこに確かに儂はおるて」
「ああ貫之、爺さんの言う通りだ。まあ俺は歌詠み人じゃねぇがよ、俺の事は知ってんだろうが。藤原の始祖、藤原不比等はいつでもお前さんの傍にいる」
わかっている。いや、わかっているのかどうかもわからないけど、でもそういうのじゃないんだ。僕は、最後に僕の淹れたお茶を、蝉丸さんが薄いと言ったその最高の一杯を飲んで欲しいんだ。しかしそれがもう叶わないということも解る。解っている。ならばせめて一言だけ。
「蝉丸さん、不比等、バイバイ。また会えるといいね」
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