第41話 遠ざかり、近づき、すれ違い、辿り着く。

 時々長い髪の女の子の姿を見てないか、通りすがりに聞きつつその情報を頼りに透華の足取りを追う。

 俺は一人廊下を歩きつつ、これまでの事を思い出す。

 今回、俺は二つの目的を成し遂げようとした。


 まず第一の目的は水城から透華を遠ざけるという事。

 それは他でもない、透華自身からの拒絶を以って達成された。流石にあの雰囲気じゃ水城もまた近づこうなんて思わないはずだ。それにたぶん水城が透華に近づく必要もなくなる。


 何故なら、今あの教室は善意に満ちている。透華の事もそうだが、トラブルの渦中にあった水城も放ってはおかれないだろう。今頃お優しい誰かが水城を慰め飯を共にしようと誘っているに違いない。水城が別の群れに組み込まれれば透華に近づく理由もなくなる。


 ちなみに目崎を水城から奪ったのは全てこれを起こすためだ。水城が焦りを覚えて、透華に無理やり近づこうとする状況を作るためのトリガーだった。


 そしてもう一つの目的は、透華を透華のままで教室に組み込む事。

 水城を遠ざけたところで、奴が飛び道具で透華に害を与えるかもしれないし、水城でなくとも今後他の人間が透華とトラブルを起こす可能性もある。


 そしてそれを未然に防ぐには、教室内の透華の認識を、叩くべき相手ではなく守るべき相手であるという風に変える必要があった。それは言い換えれば、透華を決して責めてはいけないという暗黙の了解を教室内に作るという事だ。


 正直な所、透華は他者から反感を買う要素だらけだ。ほぼ全部小学校の時の出来事のせいだが、通常そんな過去の事なんて他者は知ろうとしない。例え水城の事を解決したとしても、今後確実にトラブルは起きていた。


 だからこそ今回の計画はどうしても成功させたかったのだが、とりあえずなんとか及第点まではこぎつけただろう。

 後は透華を教室に連れ戻すだけ。


「こんなとこにいたのか」


 長い遠回りの末、ようやく透華の姿を見つける事が出来た。


「永人……」


 見上げた先の透華の黒髪がそよ風に煽られ、ほんの少し揺れる。


「こんな階段があったなんて知らなかった」


 外にむき出しの階段は人の気配を感じない。一応ここからでも校舎の階層を行き来できるようになっているみたいだが、昇降口から近い階段は全部校舎内にあるため、あまり使われていなさそうだ。現に俺も今初めて見つけた。

透華のいる踊り場へと登ると、下に比べて幾らか空気が澄んだ気がした。


「お前にこんな所でたそがれる趣味があったとはな」

「まぁ、そうね」


 てっきり反論してくるかと思ったんだが。調子狂う。

 手すりの向こうを見てみれば、雑木林が広がっている。校舎の影に隠れているだけあって幾らか暗く感じるが、夏には良い避暑地になりそうだ。

 しばらく何を言うでもなく外の景色を眺めていると、おもむろに透華が言う。


「……うまくいかないものね」

「うまくいかない?」

「い、いえ、なんでもないわ。忘れて」


 聞き返すも透華は俺から目を背けはぐらかしてくる。

 大よそさっきの事と関連しているんだろうが、いまいち釈然としない。


「お前俺をアホウドリか何かと間違ってるんじゃないのか?」

「それは無いわね。流石にアホウドリ並の知能じゃ会話はできないもの」

「そうか。ならお前がついさっき言った事を俺が忘れられないのも理解できるな?」

「それは……」


 俺の言葉に口ごもる透華。駄目だ、なんかさっきから歯車がかみ合ってる感じがしない。


「あーくそ、面倒くせぇ。何か思う事があるなら話してみろ。なんだかんだここまでずっと一緒に来たしな」


 変な言葉遊びはやめ、単刀直入に尋ねる。

 しかし透華は視線を落とすのみだった。


「話す事なんて無いわ」

「いや無いってことは無いだろ。何がうまくいかないんだ」


 きっちりと記憶に刻み込んださっき透華が零した言葉を今一度提示する。


「それは答えられない」

「なんでだよ」

「なんでって……」


 透華はそれだけ言うと、顔を伏せ口をつぐむ。

 だがそれは閉口したわけでは無く、次の言葉を吐こうとしているのだという事はなんとなく理解できた。

 黙って待っていると、やがて透華の顔がこちらに向く。


「それは、乙女の秘密よ」


 透華が微笑む。その笑みはどこか懐かしくもあり、また同時に一抹の寂しさを感じさせた。


 それはここ最近ではあまり見た事のない表情だ。五年ほど前を境にほとんどなりを潜めたまじりっけのない笑顔。あるいはそれとも違うかもしれない。限りなく昔に近くはあるものの、限りなく遠いような。


 他の人が見ればきっとこれは優し気な笑みに映るのだろう。だが俺からすればこれは違う。あまりに違い過ぎる。具体的な事など何一つ提示できないが直感でそうなるのだ。


 少なくとも、俺がいかに普段のように面の皮を厚くしようと、いかに取り繕うとも、決して笑い返す事ができないであろうことは確かに言える。


「そろそろ、行きましょう。他の人たちはあなたを待っているのだろうし」


 あなたを待っているか、確かにそうかもしれないな。今頃偽善に満ちたあの教室は、俺が透華を連れて戻ってくる時を心待ちにしているだろう。だが待たれているそれは守屋永人でありながらもその実俺ではない。あそこにいる俺はどこまでも本当の俺からは程遠いからだ。


 もしこのまま戻れば俺は歓迎される。透華も同じだ。しばらくは半ば尊敬の意すら集める可能性もある。だが俺はそんな事は望んでいない。むしろこれまで以上に神経を研ぎ澄まさないといけなくなるから迷惑だ。


 そして何より、このまま行けば透華が二度と戻ってこない気がした。どこまでも遠い所へ、俺の手が二度と届かないような。天と地ほどの距離が開いてしまうような気がした。


――言うなれば、それは小学生の時のような。


 俺は一体ここまで来て、何をしたかったのだろうか。何故透華を探しに来たのだろうか。ここまで長い道を走って来たのだろうか。今一度考えねばならない。


「待ってくれ透華」


 透華が階段を下りる背中に声をかけると、透華は立ち止まりこちらを見上げる。

 決して声が届かない事の無いよう、俺もまた透華と同じ位置まで下っていった。


「さっき乙女の秘密とか言いやがったな」

「確かに言ったわね」

「なら、俺がその乙女の秘密を是が非でも知りたいと言ったらお前はどうする?」

「な……っ」


 俺の発言は想定外のものだったのか、透華は頬を紅くし僅かに視線を逸らす。


「そ、それは捉えようによっては私の事を愛してやまないようにも聞こえるけれど、大丈夫なのかしら?」


 透華が何かをごまかすかのように髪を払いのける。そういうことを言うなら俺にだって考えがある。


「そう捉えたんなら、そう捉えてくれればいい」

「……ッ⁉」


 言ってやると、耳まで紅くした透華は大きく目を見開く。おかげで、カウンターとして言ったつもりがこっちまでダメージを負ってしまった。


「本当?」


 すぐに次の言葉が出てないでいると、透華が先に口を開く。


「ほんとに、本当なの?」

「二回も言わないといけないほどお前の耳は悪く無いだろ。それより何がうまくいかないのかをだな」


 二回も言うのはこっぱずかしいので躱そうとするが、縋るような透華の眼差しがそれを許してはくれなかった。


「答えて、大事な事なの。これは話すための交換条件よ」


 交換条件か。なるほどな。こすい手使いやがって。まぁでも俺の羞恥だけで済むのなら飲まない理由は無いか……。


「そんなのは、本当に決まってるだろ」

「何が本当なの? 言葉にしてくれる?」

「いやそれはお前が自分で……」


 反駁しようとするが、至近距離で目を合わせてくるので言い切る事が出来なかった。


 こいつとの付き合いは長い。あまりにも長い。たぶん語ろうと思えば何時間だって語る事が出来てしまうだろう。それほどまでに俺の中で透華の存在は濃く近い。それは小学生の時も同じだった。しかし成長していくにつれ透華の周りには多くの人が集まり、遠い存在へとなっていた。それを俺は届かないものと諦め、努めて無関心であろうとしていた。


 だが今透華は目の前にいる。手なんてわざわざ届かそうとしなくても触れる事の出来る距離だ。


 改めてみても整った顔立ち。抱きしめれば壊れてしまいそうな体躯に、綺麗に流れるさらさらの黒髪。どれもが彼女の性質を物語っているようだ。美しく繊細で脆く、真面目で几帳面。


 その全てをずっと昔、物心ついた時から、心の底から俺は。


「俺は、透華の事を愛してやまない。それは紛れもない事実だ」


 臓の底から怒涛の如く熱い何かが押し上げてくる。そもそも何故こうなってしまったのかさえ頭で考える事が出来なかった。


 今はただ、引っ込みのつかないこの言葉がどのような行方を辿るのが気になって仕方が無い。


「……そう」


 透華の身体が少し遠ざかり、思った以上に身体が密接していた事を認識させられる。


「それは……」


 俯きがちに透華がぽつりと呟く。

 しばしの沈黙。

 春のそよ風が静かにこの場へ入り込むと、やがて透華の顔がこちらへ向く。


「それは、とても嬉しいわね」


 満面の笑みだった。だがそこには一筋の雫が流れ落ちている。

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