第23話 全ての発端は五年ほど前に遡る
今からだいたい五年くらい前。小学四年生の時だ。偶然か学校側の故意かは知らないが、透華とはここまでずっと同じクラスだった。家がすぐ近くな上に、幼稚園も同じなだけあって仲もそこそこ良好だっただろう。家になんかは一緒に帰ったりもしていた。
だが、あくまでそこそこだ。何故なら、クラスの中心側にいた透華に対して、俺は教室の片側で本を読んでいるような奴だった。教室では必要以上に話さなかったし、家に帰るのだって二人だけの時はたまにしかなかった。それも透華の周りに絶えず人がいたからだ。
「ちょっと、ちゃんと掃除してくれる?」
俺が箒で床を掃いていると、傍で透華の声が聞こえた。だがそれは俺に向けられた言葉では無い。
「やってるし~」
声をかけられたクラスのリーダー格の男子が、雑巾を床でルンバの如く回転させる。水しぶきが若干飛び散って汚らしい。
透華も同じくそう思ったのか、男子の方を睨み付けた。
「そんなので綺麗になると思ってるの?」
「ひえっ、小姑だ小姑!」
男子の言葉に一瞬きょとんとする透華だったが、思い出したように噴き出す。
「こじゅ……って、ふふっ」
どうやらツボにはまったらしい。透華は楽し気な笑い声を漏らす。その姿は高校の教室で近寄りがたいオーラを醸し座る姿とはかけ離れている事だろう。
「や~い小姑小姑!」
男子は透華の反応に味を占めたか、繰り返し小姑と連呼する。
「ちょっとやめて! 笑わせないで、ふふ」
透華もなんとか怒ろうとするが、笑いを堪えられないようだ。ただ純粋に今を楽しむまじりっけのない笑顔がこそにはあった。
小学校ではよく見る光景だろう。好きな子にちょっかいをかける男子の図だ。これまでも同じようにちょっかいをかけていた事からそれはほぼ確実だ。俺は同じ教室内にいながらも、どこか遠い目でその光景を眺めていた。
もしそうしているのが俺一人だけなら良かった。俺の話のレパートリーに、小学生の恋バナなのかもわからない思い出話が追加されるだけだ。
だが現実は不幸にもそれを許してくれない。俺以外にもこの光景を見ている奴が一人いた。それは当時透華が所属していたグループの一人で、透華と肩を並べるくらい人気のあった子だ。個人情報になるため一先ずS子にしておこう。
そのS子だが、恐らく好きな奴は透華にちょっかいをかけている男子と思われる。ここまでくれば何が起こるかは想像に難くない。
「こうやって、ちゃんとしゃがんでやるの。分かった?」
透華が雑巾を手に持ち、お手本だとばかりにしゃがみ込む。その際膝をついたため、ズボンが少し汚れてしまっていた。
そこへS子はやってくると、冗談めかした口調で透華に話しかける。
「ちょっと透華膝汚れてるよ~? きったなーい」
口元には笑みを浮かべているが、明らかに敵意の眼差しを向けていた。
「ま、掃除なんだから仕方ないじゃない?」
透華は特に気にした様子もなく返すが、S子は引き下がらなかった。
「えーでも、そのままは無くない? ねーかい君もそう思うでしょ?」
S子がリーダー格の男子に同意を求める。そういやこの男子かい君と呼ばれていたんだったか。
「うわほんとだー清水きったねー!」
かい君にしてみれば、これもちょっかいの一環に過ぎなかったのだろう。だが、その言葉はS子を勢いづけてしまった。
「ねー? どうせ汚いなら、雑巾全部透華がやっちゃってよ」
「ちょっとバカな事言わないでくれる? だいたい鈴子も今週は教室雑巾当番じゃない?」
あー、S子は鈴子って名前だったか。まぁS子のままでいいや。S子が悪いんだよ。
透華が雑巾を渡そうとするが、S子は手を後ろに隠し拒否する。
「ちょっと、ばい菌がつくでしょ」
「ばい菌なんて後で洗えばいい」
「嫌。洗っても落ちないし」
「落ちる。もういい加減にしてくれる?」
透華が呆れたとばかりにS子の手をとると、すぐさま振り払われた。
「やめてよ。手濡れるじゃん」
「どうせ雑巾やったら濡れるでしょ」
両者にらみ合っていると、たまたま傍に別の女子Jがが通り掛かった。するとS子は意味もなくその子に手を擦りつけた。
「え、ちょっと何⁉」
女子Jが驚きの声を上げると、S子が朗々と告げる。
「透華の雑巾の汚い菌付いちゃって~」
「え、何それヤダやめて?」
別に女子Jも透華というよりは雑巾に対してヤダと言ったのだろう。
だが伝言ゲームというものがゲームとして成立するのはつまり、実際でも正しい認識が広がるとは限らないという事である。
女子Jがまた別の子へと菌を擦り付ければ、よく分からない中でその菌はまた別の人間へと擦りつけられていく。その過程の中で、雑巾が汚いというより透華が汚いのだという認識へと切り替わっていったのだ。
そしていつの間にかその菌は「清水菌」としてクラスに根付いていた。
毎日透華のなんらかの所有物に触れた時には「清水菌」が付いただの「清水エキス」が付いただのと言われ、擦り付け合いが始まり、人から人へとめぐりめぐる「清水菌」はさながら本当の病原菌のような錯覚すら覚えさせられた。
しかしそんな環境下の中でも透華は学校を行くことをやめなかった。何せ透華は真面目な人間だ。表向きでは平気を装っていたが、人間そんなに強い生き物じゃない。ましてや小学生の女の子なら尚更だろう。透華が崩れるは時間の問題だった。
結果、まず透華は自らを汚いと感じる様になった。俺も付き合いがあった手前、何度も手を洗っていたりとかそういう場面を頻繁に目撃している。もう一つは潔癖症。全てのものに菌があるのは当然だが、その事に対して過剰な拒否感を示すようになった。
それもこれも全部S子が発端だ。だからこそ俺はS子の事は今でも大嫌いだし、それに乗じて「清水菌」を「病原菌」としたクラスの奴ら、ひいてはそのような事態を招くような心理を持つ人間も大嫌いだ。
そして何よりも俺は自分自身の事が嫌いで仕方がない。
俺と透華の教室での距離は決して近いものでは無かったが、それでも過ごした年月はクラスの誰よりも長い。それだけに透華が辛い思いをしているのは分かっていたし、どうにかしてやりたいとも思った。
でも実際はどうだ、その時の俺は今までの距離に甘んじて何かするわけでもなく、ただ遠くからその光景を眺めていただけ。流石に擦りつけ合いなどという馬鹿げたお遊戯には参加しなかったが、傍観していた時点では俺はあいつらと同類もしくそれ以下のクズだ。
結局この事は当時の担任の耳に伝わり、学級会議が執り行われ関わった全員が透華に謝るという形で表面上は収束した。だが透華の周りには以前のような人だかりはできなくなったし、透華は今のように周囲に敵意を振りまくようになった。それは望んでも無いのに自身の性質を歪められたとも言えるが、本来そのような事はあってはならないはずだ。
だから、俺は二度と同じ轍は踏まないと決めた。防げる傷は徹底的に防ぐ。たとえそれが、透華以外の誰かを傷つける結果になったとしてもだ。
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