第三話 斎藤栞の先生
東京駅に現れた三ヶ月半ぶりの先生は僅かに肥ったように見える。肌も心なしツヤツヤだ。
季節は秋口に入っているが、先生はまだ薄着のポロシャツである。
先生の顔を見て、きゅうっと締め付けられるのは胸と胃のどちらだろうか。
「あまり、遠くに来たって感じ、しないなあ」
ついこの間までは東京都内の住人だったのだから仕方ないだろう。土曜の昼前に東京入り、このあと一泊して明日の本番に備える。
現在、先生が働いているは元々勤めていた会社の支社である。地元に帰るからと辞意を伝えたところ、偶々地元近くの支社でも求人が有り、新たに就職活動をせずに済んだとのこと。
なので、今回の件では先生のお休みを丸々二日間頂くことになる。
混雑する人の流れを縫いながら、わたしの少し先を歩く先生。思えば、二人で歩くのは学生時代以来だろうか。先生は知った土地だから目的地まで迷わない。
右肩に大きなショルダーバッグ、左手にはトートバッグを下げている。どうしてその左手は空いていないのだろうかと考えると切ない。
友達でも恋人同士でもない、微妙な距離がもどかしい。
わたしは遣る瀬無い想いと、密かに胸踊る気持ちをひた隠す。
「まさか、先生がすんなり引き受けるとは思わなかった」
「いやあ、ほとんど脅迫だったよ」
東京駅の構内、先を歩いているのは人避けのつもりなのだろう。振り向いてその足を緩める。
ただでさえ下がった目尻をさらに下げ、苦笑いをする先生。
「え、脅迫って?」
「あの絵、エケベリア・ラウィ。実は彼女との共作でね。公開禁止を要求する、とか言われちゃってさ。で、腱鞘炎が酷くて筆が持てないって言っていたけど、そんなに悪いの?」
「腱鞘炎……?」
わたしははたと思い巡らすが、ラウィにそんな素振りは覚えがない。
「うーん、そんな風には……」
「え……… ああっ、やられたっ!」
先生は荷物を下げた肩を大袈裟に竦め、寂しく笑った。
「まあ、元々公開停止のようなものだからね」
先生は画業を退いてからの期間のことを言っているのだ。
結果として筆を置いたのだから大成しなかったと言えるが、それでも先生は最初のヌードモデル、ラウィこと大石加奈に恩義を感じている。彼女の頼みは断れなかったのだろう。
先々週、わたしが先生と連絡を取ってから、後はラウィが直接先生と交渉をした。だから今回の先生の上京はラウィの助手としてである。
「ギャラも責任も全て私が持つ」と言われては、わたしに拒否する理由がない。
三カ月前にわたしも無理を言っておきながら、ラウィに軽く嫉妬を覚える。
我ながら実に勝手だと思う。
・・・
先生への依頼。それは彼女に代わってボディペイントのメインテーマを描くこと。
ラウィの基本的なペイントスタイルは、先ずモデルの身体全身に単色のベースカラーを塗り、それをキャンバスに見立ててテーマとなる「絵」を描き込むのだ。
ちなみに先に撮影済みの動画は外国人ボディビルダーの男性とバレエダンサーの女性。今回わたし達が手配したのも同じくダンサーの女性。紙媒体は静止画だからドローンは使わない。
今回のテーマは日本名「極楽鳥花」、即ち「ストレリチア」。純白のベースカラーにどの様に描くか、そのデザインも先生に一任する。
要するに、ラウィは先生の名前を見て閃いたのである。
聞けば十年前、先生の個展にあったストレリチアはラウィがお祝いで贈ったものだそう。またしても、小さな嫉妬の炎に身を焦がすわたし。
先生は過去に何度かイベントでボディペイントの経験があったらしい。但し、先生が出した条件は「事前に練習させて欲しい」とのこと。
ラウィは先生の元ヌードモデル。黙っていれば結果は火を見るより明らか。わたしが手を挙げなくてどうする、と己れを奮い立たせるしかない。
「でも、シオちゃん。ええっと、練習台、本当にいいの?」
「もう隠すものがないわたしに、今さら?」
恐縮するその言葉に、わたしは笑って答える。
移動しながら会話を続けるわたしと先生。山の手線に乗って秋葉原で総武線に乗り換える。
隠すものがない。それは嘘だ。
「だって、見て描くならともかく、今度は触らないと描けないし」
「先生、今回はオプション。そういうとこ、男の人はよく行くんでしょ?」
「また、そういう……」
先生は電車の中をぐるっと見渡し、眉間に皺を寄せて困った顔をする。
土曜日の正午近く、席が全て埋まる程度には混んでいる。若い人はほとんどが二人連れ。他人との距離はそう遠くないが、電車の走行音も相まって誰もわたし達の会話を聞いていない。
「いいなあ、先生。わたしと明日のモデルでお触りが二回っ」
「シオちゃん、あのねえ………」
ラウィにイジられた鬱憤を先生で晴らすわたし。
これでも言葉を選んでいる。わたしは隠すのに必死なのだ。
地味ながら先生はモテる方だ。だが本人に自覚はあまりない。
先生の手掛けた絵の多くが裸婦像である。神経質なヌードモデルを相手にする心得でもあるが、何事も微に細に計画を練って周到に準備すること自体に喜びを感じていた節がある。
つまり、女性から見て先生は恐ろしくマメなのだ。その割に異性としての女性に関心が薄いこともあって、周りのお友達は同性以上に女性からの信頼が厚かったように思う。
加えて、先生のお友達は多くがモデルで美人揃いだったことが、わたしを奥手にさせる理由の一つにもなっていた。
わたしは美大を卒業して広告代理店に入社し、漸く先生と同じ大人の仲間入りと思ったのも束の間、先生はある女性に恋をして、やがて同棲を始める。
驚きと、そして失意に陥ったわたしは先生と距離を置くことになる。
三年前、先生はその女性と結婚するために筆を折った。決して売れてなかった訳ではないが、不安定を嫌って都内の食品会社に就職したのである。
そして去年、先生はその女性と破局する。わたしは傷付いた先生が立ち直るのを待ってしまった。だが、先生は地元に戻る決意を固めてしまう。
——— 僕から絵を取ったら、何も残らないらしい。
近況のメールにあった一文。
遠回しに書かれた女性が去った理由。
だが、その言葉の繋がりにわたしはある共感を覚えた。
わたしは「先生」が好きなのか、それとも「絵を描く先生」だから好きなのか。
十七歳の冬、純粋な憧れから始まったのは間違いない。
もちろん、先生の「絵」は好きだ。
それが、わたしを踏み止まらせてきた葛藤の正体である。
・・・
「あら、嘘じゃないわ、腱鞘炎。先月まで病院に通っていたし」
ラウィは大きな声で呟くと右手に持った大ジョッキを軽々と煽る。
彼女の希望で昼食は居酒屋。焼き鳥で有名な二十四時間チェーンの店だが、ランチメニューも用意されているので昼間でもそこそこ賑わっている。
何でも様々な企業や著名人に招かれて、高級店は辟易しているらしい。
目の前に座るラウィは真っ赤なドレスシャツ。今日の胸元の開きは比較的おとなしい。
対するわたしは胸元までざっくり開いたベージュのプルオーバー。
先生は一言もそれに触れない。いや、それはいいのだが。(よくない)
「あーっ、美味っしいっ! 二人とも、本当に呑まないの?」
「あっ、その、この後ホテルにチェックインしたら練習を始める予定なので……」
「ふうん、それは残念ねえ」
そう零しながら、ラウィは目の前の山盛りの手羽先に箸を伸ばす。
「筆を折ったのは聞いていたけど、まだ独身だとは思ってなかった」
「そう言う大石さんも、あっ、ええと、その……」
先生はその話題に何かを思い出したかのように口籠もった。
後で聞いた話だが、先生が知るラウィのパートナーは同性だったからである。
ラウィとの連絡は先生の初個展を最後に途絶えていたらしい。
「ああ、先生と? 私、子どもが居るから今は一緒には暮らしてないけど」
「えっ? 子ども?」
ラウィの言う「先生」とは彫刻の方の師匠のことで、わたしの「先生」のことではない。
彼女はその奥二重をニイッと弓なりにしならせる。
良からぬことを吹っ掛ける合図だ。
「ふふっ、国見君、あの時の子どもよ」
「ちょっ、いや待って、大石さん、あの時は何もなかったじゃないですかっ!」
「あれえ、そうだったらかしら。結局は、でしょう?」
どうやらわたしと先生が知り合う前、十六年前の話だろう。
彼女の言葉は恐らくジョーク。流石に嫉妬はしない。しないぞ。
でも結局って………と、それでも動揺するわたし。
「へえ……、そ、そうなんだ……」
ラウィはわたしの顔に視線を走らせ、さらに口角を吊り上げる。
先生はもの凄く必死だ。困惑に少しだけ嬉しいが混じる。
「えっ、待って、シオちゃん、ご、誤解っ、誤解だって」
「あはは、冗談、今年で九つかな。色々あってねえ、先生とは今でも仲良し。そもそもドローンも先生の作品をPRするために始めたことだし」
店員が香ばしい香りと共に焼き鳥とつくねを運んでくる。
と、同時にわたしのスマホが着信する。急を要する用件なのか電話だ。
スマホ背面のディスプレイを見て、訝しげにわたしは応答する。
「あ、はい、斎藤のケータイですが……」
ディスプレイに表示された番号、明日の登板を予定しているモデルの事務所。
わたしはその知らせを聞いて愕然とした。
「あっ、明日のモデルが、怪我っ!?」
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