第四話 ストレリチア

 ——— 何故、こんなことになってしまったんだろう。


 夕方午後七時を過ぎ、わたしと先生はスタジオ近くのシティホテルにチェックインした。

 わたしはシャワーを浴び、バスルームの鏡の前で今日の出来事を回想する。

 鏡の中のわたしは眉間に皺を寄せ、口をへの字に結んでいる。

 どう見ても不機嫌。わたしのことだが。


 はあっ、と吐いたため息が、目の前の鏡を曇らせる。


 予定していたモデルは昨晩フィットネスクラブで軽く汗を流した後、ジムエリアから更衣室に続く階段でお友達に声を掛けられ、振り向いた拍子に脚を捻ったらしい。

 前距腓靭帯を損傷、要するに捻挫である。内出血を起こして患部が腫れ上がり、まともに歩ける状態ではないとのこと。

 そんな馬鹿な話があるか、と思うかもしれないが、フィットネスクラブに通う者なら稀であっても決して聞かない話ではないことは分かる。斯く言うわたしもそう。


 わたし達はラウィと一緒に会社に戻り、モデル事務所から代役の連絡を待ちながら最悪のケースを想定して協議することになった。

 ラウィのビジュアルコンセプトは商用を考慮してセンシティブは隠す方針だが、基本はフルヌードである。しかも本番は明日、代わりがそう簡単に見つかる訳がない。


 途方に暮れるわたしの対面で熟考をしていたラウィ。

 わたしに視線を向け、ある提案を口にする。


「斎藤さん、あなた、モデルやらない?」


 ほとんど人が居ない休日の広告代理店、その応接室。ラウィの声は本当によく響く。

 凍り付くわたし。目の端で先生がわたしに顔を向けたことだけは分かった。


「もしかして、スケッチから太った? 例のモデルと背丈もそう変わらないし」


 え、え、え、ちょっと待って。今ちょっと頭を整理させてください。

 え、わたし? わたしに言ってる? このわたしに? 本気?


 ラウィは顔を斜めに傾げ、口角をこの上なく不敵に吊り上げる。

 わたしは自らを指差し、詰まる言葉を漸く発した。


「あ………って、わ、わたしに、モデルを、ですか?」

「あなたの身体がスケッチ通りなら、私は妥協してもいいわ」

「えっ、だってわたしが、まさかモデルなんて………」


 と、わたしは先生に視線を向けると、先生はわたしから視線を逸らした。

 せ、先生、ひどい。


「顔までベッタベタに真っ白く塗るんだから、言われなければ誰もあなたとは分からないし、大事なところも隠す。それに、少しは自信があるから国見くんに描かせたんでしょう?」

「そ、それとこれとは、モデルが違うと言うか……」

「モデルのポーズやデザインの構図、全部把握しているのはあなた。スケジュールも目一杯引っ張ったんだから、日を改める余裕もない。あなたこそ適任と言えば適任よねえ」


 返す言葉がないわたしにラウィは追い討ちを掛ける。

 その悪魔のような奥二重が一瞬、ぐにゃりと歪んだように見えた。


「そうだ、私がやってもいいかな、十六年ぶりの国見くんとのコラボ」


 その一言で、わたしの中で燻っている何かがメラっと燃え上がる。


「その、わたしで良ければ、やります………」


 ズルくないですか、ちょっと。




・・・




「まだ、怒ってるの? シオちゃん」

「わたしは最初から怒ってません。怒ってないですよ、先生」


 あの状況では選択肢は限られている。このまま先生に無駄骨を折らせる訳にも、仕事の納期を遅らせる訳にもいかなかったのは大人でなくても分かること。

 だがしかし、少しだけ根に持つ大人げないわたし。

 結局、モデル事務所の泣きが入ったのは午後六時過ぎ。わたしの登板が確定した。


「ホント言うとさ、僕も大石さんと同じことを考えていたから」

「え?」

「シオちゃんならって。僕もその方が嬉しい」

「えぇっ?」


 目の前にパッと灯りがついたように気分が高揚する。

 なんてチョロいんだ、わたし。


「あ、いや、やりやすいし」

「え………」


 先生、そこは言い直さなくていいです。




 ホテルの部屋は東西に長い間取りで、ベッドは南の壁側に沿う形で置かれている。東側は全面が窓、西側は玄関への通路と鏡張りの戸が付いたクローゼット。シックだが簡素な造りである。

 その部屋をシングルで二つ。つまりわたしも泊まる。恐らく深夜まで掛かるだろうし、明日の朝は早い。先生にはわたしの時間に気兼ねをして欲しくないのだ。


「くすぐったくない?」

「い、いえ、大丈夫……です」


 練習は背中側だけ、全身の白塗りも明日の本番でしか行わない。要は先生が画材の特性とボディペイントの感触さえ把握できれば良く、計画全てに沿う必要がない。

 バスルームを出たわたしは髪をアップにし、バスローブの後ろ前を反対にして着ている。

 先生の部屋のベッドの縁に南の壁側を向いて座る。長丁場の正座はキツいのでベタッと女の子座り。下着は絵の具で汚れるので着けていない。

 わたしの「外側」は全て先生に見せている。バスローブを着ているのは、先生との距離が近過ぎるからだ。


「場所、変える?」

「ううん、お構いなく。音だけ、聞こえれば……」


 テレビは点けているが、北側なのでわたしからは見えない。

 背後には部屋置きの椅子に座り、下描き用のソフトパステルを摘むように握る先生。

 ソフトパステルは長さが三センチほどしかない。先生がその腕を振るう度に、パステルと先生の指先がわたしの背中を優しく擦する。「女のわたし」を擽ぐるのだ。


「ん………っ」


 わたしは思わず、漏れる吐息を手のひらで塞ぐ。

 ストレリチアの花は華やかな飾り羽に由来する極楽鳥花の和名の通り、鳥のくちばしのような苞(ほう)を持つ花首と、花びらに見えるオレンジ色の萼(がく)を持つ。

 そのため、先生が描くパステルの軌跡は勢いが乗った長いストロークと、短いスパンで急角度に折り返す線を繰り返すことになる。


「んふっ………」


 先生は一瞬だけ手を止める。察しているのかもしれない。

 わたしは気恥ずかしさに俯くしかない。


「シオちゃん、あと少し、下描きが一区切りだから」

「は、はい………」


 こんな調子で大丈夫なのか、と一抹の不安を覚える。

 わたしの顔が先生から見えなくて良かった。


 十年前からずっと見続けていた先生の手。

 その嫋やかな指先がわたしの背中を這い回っている——— と、想像せずに居られるだろうか。


 ごめんなさい、の言葉を飲み込むわたし。




・・・

 



「夢中で描いていたら、やっぱり小一時間は掛かるね」


 一通りの下描きを終え、時計を見て呟く先生。対するわたしはベッドの枕に顔からダイブ。

 うつ伏せで寝ているので背中とお尻が丸出しだが、あの声を冷静に聞かれてしまったことに比べればどうと言うことはない。精々脚をじたばたするだけだ。

 先生は塗りの作業に取り掛かるため、ボディペイント用のアクリル系絵の具とパレットを椅子と揃いのテーブルの上に置き、筆洗に水を汲むため洗面に向かう。

 ベッドの上にはデザイン案が描かれたノート、ストレリチアの画像が全面に開いたタブレット。そして、ホテルに入る前に買い置いていたスナックと缶ビール。

 わたしは身体を起こしてそれに手を伸ばす。


 カシュッ


「あれ、もう開けるの?」

「えへへ、ちょっとだけ、ちょっとだけですよ」


 元はと言えば今日の予定が終わった後、小さな前祝いをするために買ったお酒。今のわたしの火照りを誤魔化すのはこれが一番手っ取り早い。

 正直、わたしはセックスは嫌いではないが、淡白な方だと自分では思っていた。相手が違えばこうも昂ぶりが違うのかと、今は別の意味で困惑している。


「先生もどう?」

「じゃあ、頂こうかな」


 わたしが缶ビールを差し出すと先生は躊躇いなく受け取った。

 先生が缶ビールに口を付ける姿に、わたしは年甲斐もなく間接キスと喜んでいる。


 おかしい。

 わたしの思考があらぬ方向へと歪み始めている。

 身体の奥底から沸々と溢れ出る感情がこれまでの葛藤を蝕んでいる。

 缶ビールを返して貰ったわたしは元のベッドの位置に戻る。

 先生は黙って次の塗りに取り掛かった。


 今度は水分を含んで濡れた絵筆。その感触は何よりも舌に近い。

 頭の中に満ちる淫靡な妄想。先生に拒否される恐怖がそれに抗っている。

 先生が振るう肉筆がわたしの女を翻弄し、理性が感情に追い詰められていく。


「んんっ………」


 缶ビールの残りを一気に煽る。テレビはバラエティが終わり、今はニュース一色だ。

 わたしの気持ちに気付かない先生に無性に腹が立ち始める。

 手にした空の缶をベコっと凹ませる。そして、暑い。

 わたしは半端に着たバスローブが煩わしくなり、思い切って脱いだ。


「ん? 暑い?」

「うん、ちょっと……… 暑い、かな?」


 エアコンはまだ弱く付けている。わたしは先生に曖昧な返事をする。

 ふと横を見ると、クローゼットの鏡に裸のわたしと絵筆を握る先生が映り込んでいる。

 十七歳の時より痩せてしまった胸、フィットネス通いで頑張ったお腹。

 背中から降りて緩いスロープを描く腰とお尻へと落ちるライン。

 わたしの形をなぞるように先生が絵筆を滑らせている。


 その絵面はまるで映画のワンシーン、と言ったら言い過ぎだろうか。

 とは言え、レーティングが必要な類いだが。






「先生」

「なに? シオちゃん」


 先生の低く落ち着いた声。わたしの中の大事な部分を震わせる。


「先生は……… 先生はもう、恋愛はいいんですか?」


 普段のわたしなら絶対に表には出せないこと。

 まだ酔ってはいない。冷静な思考を狂わせているのはわたしの内なる感情である。

 背中越しの問いかけに先生は言葉を詰まらせる。


「この歳じゃ……… いや、いい人が居れば、また考えるよ」

「言質、取ったっ」


 わたしは後ろに振り向くと、先生の首の後ろに両腕を回す。


「えっ、ちょっ、シオちゃ……


 わたしは強引に先生を引き寄せ、その唇を奪う。

 そして先生の歯を割って、わたしのむき出しの感情をその奥へとねじ込んだ。

 先生は暫く混乱していたが、やがてわたしを受け入れる。

 わたしの舌が感じるのは薄く残ったビールの味、そして先生の中の体温。

 その時、わたしの頰を伝うもの。


「泣いてるの? シオちゃん」


 感情の昂ぶりがそうさせたのだろうか。

 わたしは子どものように両手で涙を拭い、精一杯の言葉を口にする。


「だって、どうしても欲しかったんです、先生が」

「シオちゃん」


 先生は眉をハの字に寄せ、わたしの顔に視線を向ける。

 わたしは先生の視線を真っ直ぐに返し、構わずに言葉を続けた。


「絵を描いても、描かなくても先生はわたしの先生」

「シオちゃんはシオちゃんだよ、僕の」

「わたしは先生のものになりたいし、先生をわたしのものにしたい」


 先生は後ろ手に絵筆とパレットをテーブルに置き、わたしの腰に腕を回す。

 わたしの肌に直に触れているのは先生の両の手の五指だ。

 今度は先生からわたしにキス。再び、長く強く感情同士を絡ませる。

 わたしはキスをしたまま、先生のポロシャツの裾に手を掛ける。

 すると、先生は慌てて唇をわたしから離した。


「待って。シーツを背中の絵の具で汚したら、流石に怒られるよ」

「じゃあ、先生が洗ってください」


 先生は苦笑いをすると裸のわたしを抱え上げ、バスルームへと運ぶ。


 わたしと先生は絵の具のように混ざり合った。







 結局、塗りの練習は明日がぶっつけ本番になる。

 ダメなわたしでごめんなさい。

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