授業

 それから僕はいろいろありまして、なんだかやけにだだっ広い、教室のようなところへ飛んできたわけなのです。

 その広いなかにぎっしりと詰め込まれたいすには、コーヒーカップや大きな置き時計、ラジオなどといったばけものたちが、行儀よく座っています。彼らの視線は目の前の黒板、これもひたすらに大きく見上げるのも疲れそうになるのですが、この崖のようなものに悠々とチョークで文字を書いている、縦にひょろりと長いフウフィーボー博士へと熱く注がれていたのでした。赤、青、黄、緑、茶、言い尽くせないほどに様々な色をしたそれらは、博士がなにやら小難しいことを説明してそれを黒板に書き示したりするたび、あるいはその長い手と足を使い何かを形作るたび、まるでのように生き生きと動くのでした。


 さてここで、僕は少し困ってしまいました。実は僕は、三度の飯より本を読むことが好きなほどの本馬鹿を自負するくらいには、本を愛していると言ってもいいでしょう。しかし教科書や専門書といった、勉学に関するもののたぐいには、てんで食指が働かず、むしろ口にして飲み込むことすら苦手としておりました。ですからこのように、旅行の隙に小難しい話に巻き込まれるときには、だいたい一足飛びに頁を飛ばして、見なかったことにしてしまうのです。

 ですが今回は、いつものそれとはまるで違います。なぜなら、この授業の一部始終は、物語に必要な要素のひとつだからです。それが根幹ではないにせよ、もし省いてしまうとすれば、旅の整合性がとれなくなってしまいます。僕の旅は、大きな話の流れに少し顔を出し、物語を満喫することですから、これでは夢想する意味がありません。

 仕方なく、僕は近くにいたばけものの隣へ腰を下ろし、ノートをとるふりを始めました。青と赤、そして白のでできた横のそいつは、僕のことを目の端でとらえると、小さく、ふんと鼻を鳴らして笑いました。僕はひとつ、質問をしてみました。


「なぜ笑うんだい。」

「おかしくて、しょうがないからさ。」

「なぜおかしいんだい。」

「そりゃあきみ、なにも夢の中でまで嫌な勉強をしなくったって、いいじゃあないか。」

「仕方ないよ。そういう決まりなんだ。」


 そういうと、ばけものは喉をくっくっと鳴らし、声をひそめて笑いだしました。


「おい、やめろ、あまり大勢の前で笑わせないでくれ。」

「今度は、なぜ。」

「だってきみ、夢ってのは自由に見るもんだろう。そりゃまあたまには悪い夢を見てしまって、目を覆いたくなるときもあるものだが、今のきみは違う。好きなことをして、好きな物を食べて、好きなように昼寝もできる。それなのに、仕方がない、だと。笑わない方がどうかしてるぜ。」

「そうかな、僕はそんなに妙な事を言っただろうか。」

「ああ、妙ちくりんだね。自分から嫌なことをしにいくなんて、ほんとうに妙だ。いやしかし、それは実に人間らしいところでもある。おれたちばけものには、まったくわからない価値観なのだが、君たちにとっては普通なんだろうな。」

「嫌いなことは、僕だって出来ればしたくないよ。でも今は少なくとも、しなければならないんだ。」

「ばかだなぁ。そんな決まりなんてどこにも無いってのに。たまには逃げたり、投げ出しちまえばいいのさ。ほら、博士も言ってるぜ、『これは最も明らかな不合理である』ってな。」


 ここまで言われたら、僕は少しばかりムッとしてしまいまして、それで同じように少しだけ言い返すのでした。


「するとばけもののきみが今勉強してるということは、勉強が好きなのかい。」

「ああ、好きだね。自信をもって言える。学ぶということは、頭の中を風船のように、大きく膨らましてくれるんだ。楽しいぜ。たまに眠くなったときは、居眠りするけどな。」


 ばけものの言葉に、僕は俄かに顔を赤くして、俯いてしまいました。ばけものはどうやら、僕よりもが、ずいぶんと上のようだったのです。さてそれから三色のばけものは、僕にペンとノートの切れ端を貸してくれましたので、しばらくばけもののまねをして書いてみたのですが、どうにもばけもの世界の文字は難しい気がするのでした。


「ううん、上手く書けないな。」

「どれ……おお、確かに下手くそだな。おれの弟のほうが、まだよく書くぜ。」

「きみたちの文字は、どうにも複雑怪奇で、書きにくいよ。」

「そんなことはない。慣れてしまえば、世界一使いやすい文字さ。しょうがない、おれが教えてやるとしよう。ほら、ペンを持て。おい、おい。そんなんじゃあまるでだめだ。いいか、こう書くんだ。よし、そうだ、そう。」


 最初こそ糸くずのような文字ばかり書いていた僕でしたが、日が落ちて灯りが点き、みなのノートの閉じる音が聞こえるころには、いくぶんかましなになっていたのでした。


「ありがとう。しかし、すまないね。せっかくの授業なんだろう。」

「いや、なに、心配するな。どうせおれは今日もらくだろうから。」

「きみほどの熱心な勉強家でも、落ちるのかい。」

「そうとも。熱意と実力は、同じように伸びないからね。」

「そういうものなのかな。」

「そういうものなんだよ。」


それからばけものは、博士によって背中に「落」の文字をひときわ大きく書かれると、廊下の友達に予告通りだったと、妙な自慢をするのでした。僕はと言えば、もちろん同じように落第です。やはりこの頁では、試験の一等の者は決まっているのでした。

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