第2話

車を出ると、思わず顔をしかめた。街道を横切る近くの川からだろうか、汚物の臭いが漂ってくる。はっきり言うと糞と小便のにおいだ。

汚ならしく痩せこけた老人が青いビニールシートの上に座り込んでワンカップ酒を飲んでいた。数本残った歯の隙間から、灰色の舌がだらりと垂れ、また引っ込んだ。

私はハンカチで口と鼻を押さえた。

反対側から疋田のため息が聞こえてきた。

私の無作法を責めているに違いない。そうなら、無法地帯の作法とは笑わせる。差別と資本の格差の凝縮がそこにあるに過ぎないだろうに。

「あなたは黙ってて」と疋田に釘を刺した。

疋田は肩をすくめた。

老人が、「あほんだらぁ」と呟く。

不破氏が面談場所に指定したホテルは、予想よりましだった。見るからに安普請で古びているが、掃除がそこそこ行き届いて、不潔さに耐え難いというほどではない。天井から油っぽい水が滴り、暗がりにネズミとゴキブリが走る様子を想像していた。

疋田は受付の男に千円札一枚を握らせ、「三〇一号室の来客だ」と言うと、さっさと階段を上った。

欧米人のバックパッカーらしき若者二人とすれ違う。安宿として外国人のニーズがあるのかもしれない。こういった宿はパスポートを一々確認することもなかろうし、治安が悪いといっても、はした金目当てに銃で撃たれるほど酷くはない。彼ら外国人には使い勝手がよいのかもしれない。

疋田は「三〇一」のドアの前で立ち止まり、私に向かって頷いた。

私はノックし、息を吸い、「週刊『深層』の霧島です」と名乗った。

返事もなくドアが開き、中の男が後ずさりした。私たちは、招き入れられるでもなく、部屋の中に立ち入った。

男の顔をじっくり確認した。少し安堵した。

不破氏に間違いない。彼の顔写真は、不破家のもの、少年時代のものを含めて、さらに自衛隊当時のものと、しっかり眼に焼き付けてある。

特徴は鷲鼻と右頬のほくろ、左眉の傷痕だ。確かに間違いない。だが、精気溢れる男の姿は見る影もなかった。おどおどと落ち着かない。肌には皺が寄り、垢じみて乾いているのに、顔の傷痕が妙に生々しく感じられて気色悪くなった。

残念だが、好感を持てない。

「不破さんですね?」私は念押しした。

男は黙って頷いた。沙和さんの二歳上なので、三十八歳のはずだが、あまりにやつれており、四十代、いや五十代と言われても信じるだろう。

「犯人の手がかりを掴んだと…」

「あー」と痴呆的な困惑の表情が浮かんだ。

「手紙にそう書いてありました。犯人の手がかりを掴んだと。そうですね?」

男は、喉の奥から錆びた蝶番のような軋んだ音を出し、そのまま黙り込んだ。

沈黙のまま、実際は三十秒ほどだろう、だが、猜疑を深めるのに十分な時間が経った。不破氏の呼吸が次第に荒くなった。

ついに、不破氏がしゃがみこんだ。

「すんまへん」

「どういうことですか?」私の言葉は詰問調になった。

不破氏は、ひざまづき、両手を差し出した。「すんまへん。お願いします」

「何ですか?」

不破氏は顔を伏せたまま、震える両手を高くした。「そない怒らんと、例のものを」

「嘘でしょう?お金ですか?犯人の手がかりはどうなったんですか?」

「すんまへん。勘弁してください」

「だから犯人は!?あなたの妹さんのことは!?」

不破氏は縮こまり、しどろもどろに謝罪の言葉を繰り返した。次第に肩を落とし、最後に「なんや、話がちゃうやん」と呟いて動かなくなった。

「あなた、妹さんを殺されて、なんともないの?見捨てるの?犯人を追い詰めて、あなたが自分でケリをつけるんじゃなかったの?」と私は問いかけた。

不破氏の目に一瞬理性が宿り、我にかえったように見えたが、表情はすぐに鈍くなった。

怒りが抑えられない。さすがと言うか、やはり元自衛官だ。権力によって内部から腐敗し、権力を失って堕落した姿は下劣でしかない。

疋田が間に入ろうとした瞬間、隣の部屋から壁を叩く音と、「やかましわダボ!殺すぞ!」という怒声が響いた。

不破氏は誰にともなく「すんまへん!」と平伏した。

疋田は振り返って、「出直すか?」と聞いてきた。

隣人は狂ったように壁を叩いている。

私はしぶしぶ頷くと、ウエストポーチに手をかけた。

不破氏は手紙の中で、「手がかりつかみました。しかし、犯人を追うのにカネが足りません。お礼をしてくれるなら、話します。三万円でじゅうぶんです」と述べていた。

二年前と同じ筆跡であることは鑑定で確認された。同一人物に間違いない。しかし、内容と文章の乱れが目立った。

私のウエストポーチに彼が欲する三万円が入った封筒がしまってある。

だが、疋田は私の動きを抑えた。不破氏の目がこずるく私の手元を見つめている。

「価値はない」

確かにそうだ。

三〇一号室を出るとき、緊張した。隣人が飛び出してきたらどうしたものか。口の中が乾いた。

疋田は、「出るぞ!」と腹から大声を出して先に出た。確かに、隣人は私の声しか聞いておらず、若い女一人と勘違いしているかも知れない。

疋田にガードされて、私は階下に移動した。

車も無事だった。全面スモークの真っ白なハイエースで、私は「目立つ」と嫌がったのだが、疋田が「普通車はやめとこう」と言い張ったのだ。

疋田はタイヤを見回ってから車を出した。

発車する直前、疋田は窓から顔を出してホテルの三階を見上げ、一点を凝視した。「あれ?」と口にだし、不可解な表情を浮かべたが、首を横に振った。

「何ですか?」

「あいつがこっちを見てた。そう思ったんだが、錯覚だな。じゃなきゃ幽霊だ」

「本人でしょうが」

「いや、三〇一号室に窓はなかっただろ。しかし、とんだ茶番だな?ありゃニセモノだろ?」と疋田は苦笑いした。

人間の表層しか見えない男なのだ。「なに言ってるの?あなたは不破さんの写真を見てないの?なぜああなったか、想像してみて!」

「いいか…」

「あなたの見解はいりません。私が考えてるんだから黙っててください」

疋田は三十分ほど黙っていた。そして、AMラジオを流したが、それも不愉快だった。

私が宿泊するホテルに近づくと、疋田は口を開いた。「俺の何が気にくわねえんだ?」

「言ってほしいの?」

「ああ」

「じゃあ言うけど。食事の仕方。あなた、口を開けてクチャクチャ食べるでしょ。思い出しただけで、吐きそう。それと体の匂い。煙草の匂い。今も吐きそう」

「デカだったからか?」

「自意識過剰ね」

「そうか。後悔するぜ」

「脅すの?」

疋田はゆっくりと首を横に振った。「そうじゃねえよ。俺はあんたはガッツがあって、いい記者になれると思う。だが、思い込みが強すぎる」

「それはどうも」私は車を降りた。

「気を付けろ」と疋田は言った。

ハイエースが遠ざかるのを確認し、ホテルの中を素通りして目的地に向かった。

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