被害者の遺族

北美平一

第1話

本誌読者は、A市の母子殺害事件を御記憶だろう。もう二年前になる。犯行の惨たらしさに加え、被害者の夫に対するいわれなき嫌疑によって捜査が混迷し、未だに犯人の手がかりさえ得られていないという警察の無能ぶりが悲劇を拡散している。

この事件で、私は特別な立場にある。被害者の夫にかけられた冤罪に対して、アリバイを証明する重要な手紙を入手し、警察による度重なる妨害を受けながらも、法廷で証言し、夫の無実を証明したからである。それは権力による陰湿な干渉との闘いであった。

私はその前年、埼玉県警幹部らの工作によって違法捜査がもみ消された事件を暴いており、不本意ながら、霧島里子、すなわち私は、同県警の不倶戴天の敵になってしまったのだ。

しかし、被害者の一人である花井氏の苦しみを思えば、大したことではない。愛する妻子を無惨に奪われた上に、警察に逮捕され、二百日以上にわたり拘束、尋問され、近しかった人々や世論から容赦のない制裁を受けるという理不尽で過酷な仕打ちを受けたのだ。

さて、私は、前回の記事では、母子の遺体の第一発見者を取材した。その証言と冤罪の関係に重きを置き、また、彼が発言を厳に避けたこともあり、当時の状況については、簡単にしか触れなかった。そこで、事件が発覚した当時の状況を、少しおさらいしよう。

発見者は農業を営むK氏、七十二歳。

盛夏の早朝、自転車で倉庫に向かうK氏は、人気のまばらな県境の辺りで、一戸建て住宅の建設現場の前を通りかかった。県内では桜で有名な尾根山公園に近いが、少々脇道に外れたところにある。そして、自家用車で移動した際には分からなかった異臭に気付いた。この建設中の一戸建て住宅こそが、花井さん夫妻の新居となるはずの場所だった。

異臭の源は、建設作業用の仮設トイレだった。K氏はそこに掲示された建設会社や、市役所の連絡先に苦情の電話を入れた後、(その翌日だと思われるが)トイレのドアを外側から固定する針金を、ペンチで切ってこじ開け、そして、花井沙和さん(当時三十四歳)と、遥太くん(当時五歳)の遺体を発見したのだ。

犯人は、母子二人の手足を作業用の頑丈な針金で拘束し、暴行を加え、餓死寸前まで衰弱させた後、排泄物の飛沫と臭気が充満する密室に閉じ込めていた。沙和さんは便器の上に倒れ、遥太くんがその亡骸にすがり付き息絶えていた。

沙和さんは、想像を絶する努力で両手を固定する針金を外していた。左手を犠牲にして抜け出したのだが、肉がけずり落ち、完全に骨が露出していた。密室を内側からこじ開けようとしたため、トイレ内部は血だらけになったという。

沙和さんが失血のショックで亡くなった後、遥太くんは苦痛と絶望の中で衰弱し、熱中症で亡くなるまで、しばらく生きていたとみられる。


「おいおい!ひでえ話だな。目ぇキラキラさせて書いてんじゃねえよ」

いつの間にか私の後ろに回り、パソコンの画面をこっそり覗き込んだ疋田が、耳元で大きな声を出し、私は飛び上がった。

「ちょっと、どういう意味?」

「いいんだよ、遠慮しなくて。俺もそういうの好きだぜ」と言って、疋田は口もとを歪めた。「あと、クソが飛び散ってたってのは盛りすぎだな。俺は現場の写真を見てんだ」

私は怒りの爆発をこらえた。「失礼にもほどがあります。編集長に報告します。他の人に代わってもらいます」と警告した。

「まあまあ、まだ取材の最中だ。悪かった」と疋田は言った。「そのままでいいぜ。素敵な文章だ。ホントに」

「あなたの意見は聞きません」と言い渡し、「クズが!」と声に出さずに毒づいた。

男は口を歪めてうなずき、煙草を吸いに外に出ていった。

私はパソコンの電源を落とした。気を削がれ、何か肝心なことを忘れてしまった気がした。

疋田は芸能関係を中心に活動するフリージャーナリストで、今回は現地のコーディネーター兼カメラマンとして臨時雇いで取材に加わっている。一見強面で、剣道か何かの経験があり体格も良い。今から面談に行く相手に不審な点が少しでもあることを考えると、クビを通告するのは尚早だろう。

だが、元警察官。しかも公安刑事だった。“権力の走狗”、四つ足で人の不幸を嗅ぎ回る犬だった男だ。今も公安と繋がっている可能性がある。品性下劣で、一切信用できない。

疋田が戻ってきた。

「それで、今から俺らが行くところ、どんなだか知ってるか」

「治安があまり良くないみたいね」

「まあ、いわゆる部落地域だ。不破さんが面会場所に指定してきた木賃宿はそのど真ん中にある。移動には車を使うが、言動に気を付けてくれ」

「どうしろと?」

「とりあえず俺がいいと言うまで黙ってること。誰かが声をかけてきても振り返るな。俺が走れと言ったら走れ」

私は疋田と視線を合わせた。

「指図じゃない。親切心からの忠告だ。めんどくせえな、ウソじゃない」

「なるほどね」

「本当に行くのか?」

「もちろん。私を指名してきたのよ」

「だが、さっきも言ったように不破さんの様子がおかしい」

「手紙の内容を知ってたんでしょ?」

「ああ、本人にしか分からない事実を知ってる。今回の手紙の筆跡も本人だ。だが、こんな感じなんだ」

疋田は電話をかけるゼスチャーをした。「『もしもし、不破さん?』『えーと、ああはい』『妹さんのことでは無念をお察しします』『は?…ええ、まあ。そうですね』。要するにまあ、ボケ老人と話してるみたいだった」

「あなたが雑な話し方をするから、緊張しただけでしょう?」と私はにらみつけた。

「元レンジャーが?不破さんは陸自のエリートだったんだろう?ビビるようなタマか」

「霧島里子の名前を出したの?」

「言ったさ」

「で?」

「ちょっと元気になった。『カネを用意してくれるお方や!』だと。やり取りは録音もしてある」

「精神的におかしくなってるのかしら」

「そう考えておいた方がいい。あの事件から二年間、行方不明で何をしてたかもわからん。手紙の内容からしても、色々あやふやで、犯人捜しがうまくいったのか疑わしい。今の居場所はまともな人間がいる所じゃない。昼間からアル中や、シャブ射ったヤツらが道端をうろうろしてるドヤ街だ」

「おかしくなってしまったのね」私は疋田をにらみつけた。

不破行基氏は、花井沙和さんの実兄だ。沙和さんが殺された後、勤務先である陸上自衛隊の朝霞駐屯地に事情を話すこともなく、忽然と姿を消した。行方不明になる前に、週刊「深層」の記者、つまり私に一通の手紙を送った。私は社内のデスクで手紙を受け取り、その場で開封した。

手紙が不破氏の直筆であることは確認されている。特筆すべき内容は次の三点だ。

まず第一に明らかにされたのは、妹の夫である花井充さんに対する感謝だ。沙和さん一家の内情を知る立場で、よき夫、よき父親としての充さんの誠実さと献身に触れた上で、必ず無実が証明され、「弟と思う」充さんと再び対面することへの願望を述べている。充さんが、妻子を日常的に虐待していたという警察側の憶測に真っ向反する内容だ。

第二に、アリバイだ。これが核心でもある。不破氏は事件の直前、沙和さんと携帯電話で会話していた。その時、沙和さんは元気で、たわいもない雑談を交わしたそうだ。携帯電話の発着記録も残っていた。沙和さんの電話機は遺体とともに、仮設トイレ内で発見された。

つまり、夫の充さんに犯行は実行できなかった。同じ時間帯、充さんは勤務先である製薬会社に出社中で、さらにその後、三日間にわたり名古屋に出張していたのだ!

犯行時刻、充さんが出張先から戻ることが物理的に不可能だったことは、同行した同僚や、訪問先の企業、病院、宿泊したホテルの監視カメラの映像が証明している。

最後に、真犯人発見に向けた不破氏の決意だ。彼はこのように綴っている。「妹を殺した男は、私が裁きます。ただし、彼にはチャンスを与えるつもりです。耳を削ぎ落とし、腸を引きずり出した後、なぜそのような事態に陥ったのか、どうすれば悔い改めることができるのか、考える時間を、十分彼に与えるつもりです」と。

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