第3話 その名は特別な意味を持つ




「彰―! おはヨウ蚕業っ!」


「うわっ」


 登校したばかりの教室前で、ドス、と背中にタックルされて、彰はその場でたたらを踏んだ。

 よろけた足を踏ん張って首だけで背後を振り返ると、よく見知った顔がにまにまとこちらを眺めていた。


「草津、お前なぁ」


 心臓が飛び出るほど驚いたので、抗議の意味を込めて相手を軽く睨む。

 短く刈り込んだ頭にそばかすの浮いた頰、八重歯が特徴の草津くさつ弘史ひろしが、にしし、と笑って目を細めた。弘史はにしし、と口を横に広げて笑う。


「朝から湿った顔してるから気合入れてやろうと持ってさあ! 元気出たカイ産業?」


「お前は何、産業を語尾につけないと死ぬ病気なの?」


「やだなー。ジョークだろ、ジョーク!ユーモアだヨウ接工」


「産業は!? 打ち止め早いな! 設定がザル!」


「にしし! 今日もツッコミが冴えてるぜ、彰!」


「嬉しくないぜぇ……」


 クラス一お調子者の弘史は今日も楽しそうだ。

 こいつにかかったら平凡な毎日も彩りのある世界に変わるのかもしれない。

 それはちょっと羨ましいな、と彰は思った。


 最初、彰は弘を空気の読めない天然系おバカだと思っていた。

 いや、今でも半分くらいはそう思っている。

 ただ、どうやら何も考えていないおバカとは違うらしい、ということに、徐々にだが気がついたのだ。


 草津は人を傷つけるようなやり方で笑いを取ったりしない。

 更に笑ってくれるやつ、そうでないやつ、コミュニケーションとして成立するやつ、本気で嫌がっているやつの見極めが早く、許される範囲を絶妙に嗅ぎ分けて冗談を言っているようだった。


 それが分かってからというもの、彰は草津に対してほんの少しだけ尊敬のような念を抱いていた。

 ほんの、少しだけだが。


「あっ、委員長じゃーん! おは養蚕業っ!」


 ぱっと身を翻して草津が駆け出す。

 廊下の向こうに堅物で有名のクラス院長、度会わたらい杳輔ようすけが隙だらけの背中を晒していた。


 い、行くのか草津。大丈夫か、草津。勇者、草津。南無、草津。


 委員長は確かに、草津の冗談で傷ついたりはしない人種だ。だがしかし、何といっても堅物。そういう冗談が好きかといえば、そうでもないわけで。


「んぎゃあああああっ!」


 案の定見事にタックルを躱された草津が、ほっぺたを限界まで引っ張られるの刑に処せられて悲鳴を上げる。

 哀れっぽいその声がコミカルだったのか、周囲で目撃していた生徒達に笑いが広がった。

 向こう見ずといえばそうだが、笑いを伝播させるという狙いがあったのなら草津の勝ちだ。

 単におバカである可能性も多分にあるので過大評価は控えておくべきだが。


 くすくすと笑う生徒達の間に、クラスメイトの水都みと霞花かすかの姿が見えた。

 ショートカットの明るい髪は一見ボーイッシュだが、霞花はその名にふさわしく、女の子らしい女生徒だ。

 派手な美人ではないし、どちらかといえば有象無象に埋もれるタイプの外見だが、彰は彼女が時折見せるしなやかな言動に好感を持っていた。

 女の子特有のグループに属さず、一人でいるのが平気、という不思議ちゃんでもある。


 すぐ隣で霞花と姉妹のように並んで笑っているのは一学年後輩の和澄わずみ日菜ひなだ。

 吹奏楽部のエースでサックス奏者。霞花とは幼い頃ピアノ教室が一緒だったそうでずいぶん懐いている。

 上級生のフロアにも臆せず度々足を運んでくる日菜に、霞花の方はいつもちょっと困った顔で対応していた。


 ふと、彰は一人、周囲とは異なる表情を浮かべる人物に気がついた。

 隈の浮いた陰鬱な顔で煩そうに眉をひそめる、国語教諭の山内やまうち国貞くにさだ

 三十六歳のベテラン教師で学年主任を任されているが担任する学級は持っていない。

 病休明けとの噂もあったが、彰が転校してきた時にはすでにいたので詳しいことは知らなかった。


 騒ぎを聞きつけて何事か、と教室から顔を出したのは寺井てらい隆二りゅうじだ。

 弘史の様子を見ると呆れたように眉を下げ、ニヒルな笑みを口元に浮かべる。

 怪我で退部するまでラグビー部に所属していたという隆二の体は中学生にしては大きく、頑丈そうだ。

 三白眼のせいで強面に見えるからか、同級生には「寺井サン」とサン付けで呼ばれていた。

 名前の通り寺の息子でもあるのだが、隆二の頭の中に詰まっているのは科学と論理だ。つまり、現実主義者だった。

 その姿に似合わず細かいところに気がつく面倒見の良いやつなのだが、そんなことを知っているのは、もしかしたら彰くらいのものかもしれない。


「賑やかだねえ」


 すぐそばで声がして、彰は顔を上げた。

 見るといつの間にそこにいたのか、保険医の緋冴ひさえ素子もとこが隣に立っている。

 百六十八センチの彰より五センチほど高い長身に、明るく染めたウェーブの髪。銀縁の眼鏡と白衣がトレードマークの素子は、別の国の血でも入っているのか、目鼻立ちがはっきりした女性だった。

 二十代後半だと聞いたことがあるが、飄々とした態度と男のような癖のある喋り方が実年齢を曖昧にしている。

 彰と目が合うと、素子が「やあ」と言って笑った。


「最近はどう? この学校にも慣れた?」


「まあ。もう二ヶ月経ちますし」


 頷いて答えると、ふうん、と素子が目をすがめる。


「アイラにも?」


 唐突に問われた言葉に、彰はとっさに視線を彷徨わせた。

 アイラ。

 その名前は、ここでは特別な意味を持つ。


「そういえば最近、寺井と一緒にいるところを見ないな。転校してきたばかりの頃は仲よさそうだったのに。喧嘩でもした?」


「え、いや。喧嘩とかじゃないです。違います」


 畳み掛けるように確信をついてくる素子におろおろと答える。

 嘘じゃない。喧嘩なんかしてない。

 喧嘩じゃないんだ、と彰は教室の入り口に寄りかかるようにしている隆二に目をやった。

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