2. 風の夜の来客

 季節はずれの強い風に煽られるかのように、一人の男が店に舞い込んできた。コートの襟を立て、風に飛ばされないようにするためか、帽子を深々とかぶり手でしっかりと押さえていた。男は勢いよく入ったのが何かの間違いだったかのような表情を浮かべたものの、静かに店の中を見回すと、おもむろにカウンター席まで来て立ち止まった。私はいつものようにそのカウンターの片隅でビールを飲んでいた。


 「いらっしゃい。一人ですか?」


 店主は、この新しい客に親しみを込めて歓迎の挨拶をした。男はそれに応えたとも応えていないともいえない素振りで、カウンター越しにビールサーバーやワインクーラーを眺めていた。まるで生まれて初めて見る景色に、好奇心を無理やり押し殺すかのように、ただ黙って立っていた。


 「何か飲みますか?帽子やコートは向こうのハンガーにかけていいですよ?」


 店主は間の取りにくさを感じながらも、相手の様子を見ながら丁寧に案内した。男は後ろに振り向いてハンガーの位置を確認したが、まったく興味はないと言わんばかりに、帽子をさらに深く押さえると、そのままカウンターの席にゆっくり腰を下ろした。


 「ドラフトビールを一つ」


 ふいに発したその男の声は、明瞭で聞きやすかったが、タイミングが微妙だったせいか、店主には音としては聞こえていたものの、理解するまで少し時間がかかった。


 「あ、はい。ビールですね」


 店主は一応確認した上で、棚に並んだパイントグラスを手に取ると、ビールをつぎながら私の方に目をやり、何かバツの悪そうな顔をした。


 男は注文したビールを受け取ると、コートのポケットから裸銭を出して支払い、一口飲んでから小さく息を吐いた。


 私は読みかけていた本を閉じテーブルに伏せ、わずかに残っていたビールを飲み干した。続けて赤ワインを追加注文し、煙草に火をつけようとしたが、ふと手を止め男に声をかけた。


 「あ、煙草を吸ってもいいですか?」


 普段、自分から人に話しかけることはあまりないのだが、不思議なことに、この時は気がつけば自然に言葉がこみ上げてきた。


 男はビールグラスの底から浮き上がる炭酸の小さな泡に、見入るように視線を落としていたが、顔を上げて私の方を向くと「どうぞ」と穏やかに答えた。


 この時初めて間近で男をよく見ることができた。歳は三十代後半から四十代前半くらいだろうか。髭は丁寧に剃られていて、コートしか分からないが小綺麗な身なりをしている。印象的なのは深くかぶった中折れ帽で、最近ではあまり目にしないスタイルだが、この男にはごく自然に馴染んでいるように思えた。


 私は一言「どうも」と返事をして煙草に火をつけた。そして静かに立ち昇る煙を眺めながら次の言葉を探した。しかし「あなたはだれですか?」という朴訥なセリフ以外に発想するセンスがなく、思考は停止したまま、ただなんとなく不自然な愛想笑いを浮かべることしかできなかった。


 店主も普段であれば新しい客には積極的に話しかけるのだが、今回に限ってはしばらく様子をみようとしているのか、あるいは、珍しくどう接すればいいのか迷っているのか、店の奥で仕事をしたまま、すぐにはカウンターに姿を現さなかった。


 この男は、良くも悪くも、どことなく周囲の人間が遠慮してしまう雰囲気を漂わせていた。

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