3. 男の話

 それから少しの間、外の風の音とBGMだけが流れる時間が続いたが、口火を切ったのは男の方だった。


 「この店いいですね。とても落ち着きます。よく来るんですか?」


 「私ですか?ええまあ。よくというか、ほとんど毎日ですね。もはや自分の家みたいなものです」


 他に誰もいない店内で「私ですか?」と聞き返した自分に違和感を覚えつつも、飲み始めたワインの手助けもあってか、警戒心のバリアのようなものが次第に解かれ、久しぶりに人と話をすることへの期待感が高まっていることを感じた。


 「そうですか。確かにこういう店なら私も毎日来たいですね」


 男の物腰柔らかく好感溢れるコメントに、店主は素早く反応した。そして、無口な常連客と未知の新参者の会話に好奇心を最大限に掻き立てられ、間に割って入りたいという衝動を抑えることはできなかった。


 「お客さん、家はこの辺りなんですか?それとも職場がこの近くとか?」


 男はいつの間にかカウンター越しに現れた店主の顔をじっと見つめ、二回ほど軽く瞬きをしてから答えた。


 「旅をしているんです」


 「旅?ですか」


 店主はあからさまに驚いた様子で聞き返した。


 たしかに手荷物一つ持たない男の姿は、どう見ても旅をしているようには見えない。店主は、受け入れがたいが受け入れるしかない、という複雑な表情を露わにしていたが、同時に、いつになく興味を持った様子でもあった。


 「そうですか、それはいいですね。いや、ただあんまり身軽な感じでいらっしゃるから、正直少し驚きましたけどね」


 「着の身着のままの旅なんです。ある意味その日暮らし的な感じですかね。幸い、昔の蓄えがそれなりにあるので、それを切り崩しながら旅しているんです」


 「それは羨ましい。私なんてただの雇われ店主ですから、この古びた小さな店とみすぼらしいアパートを行き来するだけの毎日で、旅行なんてもう何年も行ってないですよ。しかも見てください、今日なんてご覧の通り店はガラガラ。長引く不景気のせいか、この前の原発事故のせいか、最近はすっかりお客さんも減ってしまってね。そろそろ潮時じゃないか、店をたたむしかないんじゃないか、なんて話まで冗談交じりにしてますけど、いやこれがなかなか洒落にならなくてね」


 店主は思わず愚痴っぽくなってしまったことをどう評価するか判断を委ねるかのように私を見ると、汚れてもいないグラスを念入りに拭きながら、すぐにまた気を取り直して言葉を続けた。


 「で、何が言いたいかっていうとね?そんなしけた話がしたいわけじゃなくてね。要は、蓄えなんて夢のまた夢ってことなんですよ。いやあ本当に羨ましい」


 内容はともかく、店主の快活で人懐っこい話口調が嫌いではないということなのか、男の口元は微かに微笑んでいるようにも見えた。


 私はいつになく酒が進み、気がつけば赤ワインも残りわずかだった。最後の一口を一気に飲み干してから、もう一杯おかわりを注文し、煙草に火をつけると、男に話しかけた。


 「あの、私はどちらかというと出不精なんであまり旅行はしないんですけど、差し支えなければ教えていただきたいんですが、これまでどの辺りを旅してこられたんですか?」


 「そうですねえ、まあどこからお話をすればいいか。いろいろと見て回っています。津々浦々というんですかね」


 男は少し言葉を濁すような言い方をした。意図的にそうしたのか、それとも種々雑多な記憶をすぐに整理できなかっただけなのかは分からない。いずれにしても、あまり深く聞いてはいけないのだろうか、という思いが私には一瞬よぎった。男もそれ以上話は続けなかった。男はカウンターの壁に並んでいる空のビールグラスをじっと見つめていたが、ふと私の方に振り向き、私に尋ねた。


 「すみません、煙草を一本いただいてもいいですか?」


 「あ、はい、どうぞどうぞ。こんなのでよければ」


 私は、取りやすいように煙草の蓋を開けた状態で男に差し向けた。


 「すみません、ありがとうございます」


 男は煙草を一本抜き取り、口にくわえ、私は火を差し出して煙草の先に灯した。男は前を向き直し深呼吸をするかのようにゆっくりと一服した。


 私が尋ねた旅の話はすっかり流れてしまったかのように思えたが、男は薄暗いパブの照明の中で疎らに漂う煙から、浮かび上がる記憶を少しずつ読み込むかのように、おもむろに語り始めた。

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