06.神はいない

「何故お前は……神を否定する?」


 妄信的に信じているわけではないが、完全否定もしない。そんな立場のコウキが訊ねるには複雑な質問は、様々な意味に取れた。


 キリストを否定する発言の真意を問うているようであり、過去の連続殺人の理由を知りたがっているようでもあった。


 少しだけ瞳を細めて思案する様を見せたロビンが、青紫の瞳を左手で覆い隠す。


「神を否定――そうだな、オレも子供の頃は教会へ通った。神父様を尊敬し、素直に教えを請い、神に懺悔して赦しを求めたこともある」


 意外な言葉にコウキが目を見開く。


「ならば…っ」


「だからこそ、だ」


 一言で切り捨てたロビンが左手を顔から外す。相変わらずの作り笑顔を浮かべ、三日月の口元が弧を深めた。


「神は救わなかった―――誰も、何も……そしてこの手もまた然り。救えないならば生きる価値は何だ? 死だけが平等に降り注ぐ世界で、この歪んだ景色を赤く染めることは神の意に沿う行為だろう」




 こつこつと靴音が響いた。


 ロビンはベッドの向こうにあるデスクから1冊の本を拾い上げる。ぱらぱらと無造作に捲る書は厚く、装丁は革だろうか。立派な聖書だ。


 十字架が銀で刻印された書物は、彼の言う『世界一の詐欺師の物語』が記された、人類最高の発行部数を誇る有名な書物だった。


 否定するくせに、常に手元に置いている。


「新約聖書は4つの福音書から成る。マタイ、マルコ、ルカ……そしてヨハネだ。一番有名なのはヨハネの名だろう」


 手にしていた聖書を鉄格子越しに差し出す。


 迷ったが、立ち上がったコウキは鉄格子に近付いた。だが手が届かない距離で立ち止まったことにロビンは笑みを漏らし、座って鉄格子の間から向こう側の床の上に聖書を置いた。


 コウキが拾い上げて、開かれたページを確認する。


 彼が語る通り、ヨハネの福音書の一文が目に入った。


「マグダラのマリア」


「そうだ、マグダレネの女とも呼ばれた彼女は聖人として扱われる。その反面、娼婦であったとも伝えられた。真偽など、伝える人間によって変わってしまうが……キリストを最後の誘惑に誘うのが彼女であるなら、マグダラのマリアは聖女たりえない」


 コウキが眉を顰めるのを見て取り、ロビンは両手を天に差し伸べた。


「ああ……罪深き聖女よ、私に触れてはならない」


 その戒めはキリスト教徒にとってあまりにも有名な言葉だった。


 神に召される直前のキリストが、手を伸ばしたマリアに告げた拒絶に似た一言だ。


 復活した後、再び天へ昇るキリストの口から零れたことを、誰もが神々しさを感じながら聞いたのだろう。


「触れてはならないのではなく、触れることが許されなかった。神が本当に慈愛を説くなら、触れる行為を止めさせたのは何故だ? 聖女として崇められる筈のマリアすら、キリストに手を差し伸べることが許されないとしたら……人間の存在価値など見出せる筈がない」


 再び室内をゆったりと歩き出したロビンが振り返り、足を止めた。


「オレはね、死神は見た。しかし神を感じたことは一度もない。ただの一度も……。聖書をすべて暗記し、毎日祈りを捧げたとしても、神は応えて下さらなかった」


 まるで何かを神に請うて裏切られたように、少しだけ顔を顰める。痛みを耐える子供の表情は僅かな時間だけ、コウキの心に焼きつく鋭さで浮かべられた。


「喪いたくなくて、隣に居て欲しいと願った過去は……もう幻想でしかないのだ」




 それは本音だったのか。


 涙などないのに、泣いているように見えた。


 だからコウキは、ごくりと喉を鳴らして視線を反らす。まっすぐで、恐ろしくて、強大で、世界を欺く賢さとカリスマを持つ魔王のような彼が……初めて等身大の人間だと思えた気がする。


「神を否定するというより、居ない事を誰よりも『知っている』だけだ」


 これが答えだよ……続けて呟いたロビンの声色も表情も、相変わらずの不敵な笑顔で覆い隠されていた。

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