06.雨止んで

 しとしと長雨が続く窓辺で、青年は思わし気に溜め息をついた。


 整った顔と腰まで届く三つ編み、珍しい青紫の瞳は、女性達を虜にするアイテムだ。しかし彼にとって、己の容姿は『神に与えられた武器』のひとつでしかなかった。


 ふた目と見られない顔よりマシ……その程度の価値しか感じない。


 振り向き、ちらりと視線を向けた先で、黒髪の美人がソファに横たわっていた。悪夢に魘されているのか、愁眉を寄せて泣き出しそうな表情をしている。


 普段より幼く見える横顔を、穏やかな眼差しで見つめた。


「『稀有なる羊』……まだ『早い』」


 そう、まだ早いのだ。


 彼が今壊れてしまっては、ロビンの計画に支障を来たす。


「……ん…っ……」


 呻いた唇が薄く開き、きつく閉じていた瞼がゆっくり開く。奇跡のような蒼が広がり、気怠げに右手で前髪を掻き上げた。


 ふぅ…と息を吐いた彼は、悪夢を振り払うように一気に上体を起こす。慌てて周囲を見回し、窓辺で外を見つめる男に気づいて安堵の息を吐いた。


 本来なら、彼は人類史上例を見ない危険人物だ。数十人の人間を殺害し、猟奇殺人犯として『死刑』を言い渡された身だった。類稀なる知能指数がなければ、とっくに電気椅子送りになっていただろう。


「……目覚めたか」


 問いかけの形を取っていても、確証に満ちた声。振り返る彼の眼差しは、信じられないほど優しく穏やかだった。


「どうして……」


 どうして、ここに残っている? 何故俺の過去を知っている。そして……思い出させた理由は?


 様々な意味を含ませたコウキの呟きに、ロビンはいつもの笑みを浮かべた。何もかも知られていると錯覚する、自信に満ち溢れた……他人を見下すように傲慢な微笑みだ。


 普通、そんな顔を向けられたら感情がざわめく。苛立ちや怒りが浮かぶのに、どことなく惹かれてしまう。その引力こそが、この男をある種のカリスマに仕立て上げていた。


「以前に渡した聖書は持っているか?」


 頷いたコウキが立ち上がると、ソファがぎしっと乾いた悲鳴を上げる。本棚の中段に差し込んでいた聖書を引っ張り出し、ソファの前の机に置いた。自分から届ける気はないと腰掛けたコウキに、笑顔を崩さないロビンが歩み寄る。


 ふと……コウキが甘い匂いに気づいて周囲を見回した。


 机の上には、昔父親が使っていた灰皿が置かれたままだ。その上に放られた1本の煙草は、半分以上残して火を消されている。


 自分が吸わない以上、ロビンの煙草だろう。そして……、


「部屋が片付いて……?」


 意識を失う前に吐いた記憶がある。しかし饐えた臭いも、足元に吐き出した吐瀉物もない。あの悪夢は、本当に夢だったのか。


 驚いたコウキの「信じられない」という眼差しを、肩を竦めたロビンがやり過ごした。


「キレイ好きなんだ」


 ふざけた口調で嘯いて聖書を手に取る。向かいのソファに腰を下ろし、皮の表紙を左手で確かめるようになぞった。そして誤魔化されてしまう。


「これは……予言だ」


 特別房にいたロビンが前に同じ単語を発したのを思い出す。あれは閉じ込められた状況からの脱出を意味していた。


「それも相当性質の悪い『予言』だぜ」


 視線を聖書に落としたまま、タイトルの金文字のスペルを指でゆっくり追う。まるで何かを懐かしみ、愛おしむような仕草だった。ロビンが聖書を開き、中に刻まれた教えを嘲笑する。


「聖書に『旧約』と『新約』があるのは、1人の天才詐欺師が世界を変えたから」


 旧約聖書はユダヤ教の聖書と置き換えることが可能だ。基本的にイエス…キリスト生誕前を旧約、生誕後を新約と考えるのが一般的だった。聖書の『約』とは『神との契約』の意味があると言われている。


 世界で一番愛読者の多い聖書を、ロビンは淡々と言葉で切り刻んだ。


「彼の一番の嘘は―――父なる神ヤハウェが『人々を救済する』というもの。もし救済する気があるなら、それは神自身の罪を償うだけの自慰行為さ」


 一人満足のマスターベーションを例えに出す辺りが、いかにもこの男らしい。キリスト教徒の両親を持ちながら、自身は神を信じないコウキにアルカイックスマイルが浮かぶ。


 僅かに口元だけを笑みの形に歪めた感情表現は、戯曲を演じる俳優のように大げさなロビンの仕草と対照的だった。


 両手を大きく広げ、天を仰いで嘆くようなロビンのジェスチャー。彼は己の顔を右手で覆って、ゆっくり首を横に振って続けた。


「人々が混乱したのは何故だ? 神が最初の人間達に『知恵の実を食べるな』と禁じた意味を考えた事があるか。バベルの塔を建てる人間の勇気と団結を恐れて、神は言葉を乱した。すべては、神が頂点から転落しない為の自衛に過ぎない」


「大胆な考察だな」


 一言で切り捨てたコウキに、ロビンは天へ向けていた眼差しを戻す。両手を鎖骨の上で重ねるようにして、己を抱き締めた。否、向かいに座るコウキからは自ら首を絞めようとする姿に見える。


「……賢いコウキ、だからおまえを選んだ」


 窓の外の雨は、いつの間にか止んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る