05.悪夢のような過去
あの日、雲ひとつない晴れた晩夏の青空が広がっていた。
日曜日に両親が揃って朝食を取り、最初の客は有名大学の名誉教授の肩書きを持つ初老の男性。コウキを大学で引き取りたいと申し出た彼に、母親は興奮した様子で首を横に振った。
ぎゅっと抱き締められ、苦しいながらも嬉しいと感じたのを覚えている。
午前中は庭の芝を手入れし、お昼を一緒に作っていた時だった。外でサーフィンの準備をしている父親に手を振ってキッチンへ戻ったコウキは、玄関の呼び鈴に立ち止まる。
すぐに手を拭きながら歩いてきた母親が笑って、ぽんと頭へ軽く触れた。そして……ドアを開けた瞬間、風船が割れるような音がして彼女が倒れる。
「…ぁ……っ!」
声が出なかった。いや、きっと悲鳴じみた甲高い叫びを発していたのだろう。
「どうした!?」
叫びながら飛び込んできた父親が、崩れ落ちた母の姿に目を見開いて走り寄る。そして再び風船が破裂したような軽い音―――逆光になったドアの向こうに立っていたのは、見知らぬ男だった。
ドアが見えるということは、間にいる筈の父親がいない事を意味していた。足元に赤い花を咲かせながら動かずに伏している両親を、涙も流せずに呆然と見ている自分。
「このガキか……」
部屋の中を見回した男が呟いたことで、狙いが自分だったのだと理解した。頭の半分はパニックになった感情が泣き叫び、残る半分が冷静に状況を判断する。
このまま連れ去られたとしても……殺されはしない。ならば、復讐するチャンスを得る為にも今は!
悲壮な覚悟を決めたコウキへ手を伸ばす男の、にやついた顔が引き攣る。
部屋に、あの『忌々しい軽い音』は響かなかった。代わりに胸に真っ赤な血が広がり、口から血の泡を噴きながら倒れる。コウキへ伸ばされた手は触れることなく、床に落ちた。
―――凍りつく。
駆け込んだ隣人に抱き締められながら、コウキの心は何も感じなくなっていた。
愛らしい笑顔を浮べる子供らしい表情を失い、社会の荒波から庇護してくれる両親を奪われ、心が凍りつくのを……ただ甘受するしかない。
何か話しかけている必死な形相の隣人を他所に、コウキの蒼い視線は窓へ向けられた。
美しく晴れた青空……室内に広がる真っ赤な血の海、そして耳に聞こえるのは潮騒だけ。
突然思い出した記憶に翻弄され、こみ上げた吐き気に口元を押さえる。
優しく背を撫ぜる手に、生理的でない涙が滲んだ。零れ落ちそうな雫を堪えるコウキの耳に、穏やかな声が届く。
「大丈夫だ、すぐに楽になる。吐いちまえ」
声に潜む絶対的な自信と優しさは、この男に似つかわしくないようで……自然と馴染んだ。
彼の肩を滑った三つ編みが床を叩き、背を摩る手に促されるまま床に吐き出したのは―――処理し切れなかった過去の哀しみかも知れない。
吐瀉物に汚れたコウキの口元を白いハンカチで拭うと、ロビンは躊躇いなくコウキの頭を胸に抱き寄せた。ぽんと背中を叩いてくれるリズムが心地よく、ぼんやりとした状態で身を任せる。
黒いシャツを……まるで逃がすまいとするかのように握り、皺が寄るのを視線の端で捉えていた。ロビンの手から離れた白いハンカチが、床の汚物を覆い隠すように広がる。
「……まだ早い。そうだろ? コウキ」
問いかけられた意味は理解できなかった。ただ逆らう気力もないコウキは肯首して目を閉じる。
「もう眠れ」
意識が吸い込まれる。闇に溶けて、暗い光の中を漂うように……。
目を伏せると幼い印象を与えるコウキの整った顔を見つめながら、ロビンは静かに笑みを浮べた。
饐えた臭いがする場に似合わぬ、どこか透き通った……例えるなら、キリストを抱き締める聖母に似た『神々しさ』すら感じさせて。
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