04.禁断の果実

 本職ではないが、医学の心得はある。


「傷は? ……ッ!」


 思っていたより深い傷に、コウキの眉が寄せられた。


 痛みを想像したのか、蒼目が僅かに逸らされる。


 無言で右足の膝下に残る傷を晒したロビンは、ひょいっと手を伸ばして救急箱から消毒液を取り出した。


「見た目ほど酷くないさ」


 けろっと言い放つと、無造作に消毒液を振り掛けた。下に零れる赤い透き通った液体は、血が混じった消毒液だ。それを無言で見つめるコウキを他所に、勝手に物色した救急箱からガーゼを取り出した。


 軟膏を塗って貼り付けるロビンの足に刻まれた傷は、銃創だ。


 殺されたFBI捜査官の最期の抵抗は、しかしロビンにとって蚊に刺された程度の意識しかない。確かに傷口は派手で血が流れ、痛みはあるが……ただそれだけのことだった。


 首を切り裂いた男の無念の死を思いやる気持ちなど、最初から持ち合わせていない。


 包帯を巻こうとしたロビンの手から包帯を取り上げ、コウキは僅かにぎこちない動きで巻き始めた。膝の下に巻かれた白い包帯を固定し、解けないようテープで止める。


「サンキュ」


 礼を言って笑うロビンの顔は屈託なく、その声はあまりに無邪気だった。転んで擦りむいた膝を消毒してもらった子供のような態度と、銃創は似合わない。


 コンコン……まるでノックのような音が響き、2人が目を向けた窓ガラスに水が跳ねる。雨音は激しくなり、外は土砂降りの様相を呈していた。


 水の檻に閉じ込められたみたいだ。


 埒もない己の考えに苦笑したコウキへ、再びソファに落ち着いたロビンが声を掛けた。


「オレがあの部屋から出た理由は――おまえだ」


 窓際に近づいて雨を見ていたコウキが、驚いて振り返る。


 合わさった眼差しに満足したのか、ロビンはケガした右足を上に組み、両手を膝の上に置いた。指同士を絡ませて組んだ両手の中で、親指だけが僅かに動く。以前から見せる彼の癖だった。


「……どういう意味だ」


「おまえに出会わなければ、再び外に出ることなく退屈な日々を送ってただろう。人を『解放』するのにも飽きてたからな……」


 コウキがロビンの管理人になったのは、国家機関からの要請だ。別にコウキ自身が望んだ仕事でない以上、別に責任を感じる必要はない。


 分かっていても、心のどこかで思う。


 俺が断っていたら、もしかして……もう犠牲者を出さなくて済んだのではないか?


「開放?」


 似合わない言い回しに、ロビンは口角を持ち上げて笑みを作った。


「そうだ、至高なる神が救わないモノ達を『肉体のくさびから解き放って』やったのさ。資料を思い出してみろよ、誰もが幸せそうな顔だっただろ?」


 くつくつ喉の奥で含み笑う男の口から、常人より尖った犬歯が覗く。獰猛な獣を思わせる笑みを浮かべたまま、『死神』と渾名されたシリアルキラーは演技がかった仕草で右手を差し伸べた。


「おまえだって感じたハズだ。『神などいない』と……」


 ちらりと視線を床に向けたロビンに、コウキははっとした。そこはさきほど彼が避けて歩いた部位で、特に何の変哲もない床に見える。しかし赤い惨劇を知るコウキにとって、忌むべき場所だった。


 真っ赤な床に倒れた母親と、庇うように上に覆い被さった父親。


「…はぁ、っ……」


 一瞬呼吸が詰まる。崩れるようにして座り込んだコウキを、ロビンは冷めた眼差しで見つめていた。差し伸べていた右手を戻して膝の上で組み直す。


「神はいないが、死神なら存在するよ。誰もが一度は『死』を見ている……可哀想なコウキ、おまえが得るべき愛情を奪った相手をまだ知らないのだろう?」


 まるで過去も、犯人も知っているような口振りで目を伏せたロビン。


 雨音はさらに激しくなる。


 己の乱れた呼吸音と叩きつける水音、鼓膜に響く動悸しか聞こえない。蒼い瞳は光を失い見開かれたまま、赤い唇はキツく噛み締められた。


「『禁断の果実』をしょくす覚悟はあるか」


 甘い声に誘われて顔を上げたコウキの視界はぼやけ、それでも……不思議なほどはっきり見えた。再び差し出された『死神』の手に、そっと…震える指を伸ばす。





 禁断の果実を食せば、もう二度と―――


 楽園には戻れないのに……。

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