第2章 野に放たれた獣
01.約束の雨
元死刑囚であり、国が管理する『連続殺人犯』――ロビンが逃げ出した。それから数ヵ月後、ふらりと姿を現した彼は、管理人たるコウキに「約束を守る」と提案する。
簡単に逃げることができる特殊刑務所に『満足』していた筈のロビンが外に出た理由とは? そして、気に入られた『稀有なる羊』であるコウキの役目とは……。
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1週間も篭っていた研究室から出れば、空は灰色だった。
ここ数日の天気すら記憶にないコウキは、ぽつりと頬に落ちた空の涙に目を細める。
「……雨か」
傘は用意していない。だが、車を止めた駐車場は大して遠くなかった。
右腕に抱えたファイルをちらりと確認し、コウキは大切な資料を濡らさない為に走り出す。
土砂降りになる直前に鍵を開けて飛び込んだ車内で、前髪を伝う雫を無視して資料を確認した。大して濡れていないことに安心しながら、僅かに表情を和らげる。
セダンの後部座席に用意しているタオルへ手を伸ばそうと顔を上げ……動きを止めた。
ルームミラーに映る、見慣れた人影―――。
「……久しぶりだ、『稀有なる羊』」
その呼び方をする男は、コウキが知る限り世界で1人だけだった。長い三つ編みを指先でくるくる回しながら、楽しそうに笑う姿は変わらない。
「ロビン……っ!」
息を呑んだコウキの反応に満足したのか、彼は喉の奥を震わせて笑った。
「3ヶ月も待たせたが、『野に放たれた獣であっても、約束は守られなければならない』んだぜ?」
以前に彼が口にした言葉をそっくり繰り返す。腰まで届くブラウンの三つ編みも、人を食った笑みも、珍しい青紫の瞳も……何もかも同じだった。
違うとすれば、コウキとロビンの間を隔てていた無粋な鉄格子がない事くらいだろう。
振り返らず、ミラー越しに対峙するコウキへタオルを差し出したロビンが身を乗り出した。
「……さて、『続き』を始めようか?」
その一言で……何かが壊れ、何かが生まれる。
殺戮者として世間を賑わせた連続殺人犯は、ひどく楽しそうな表情で口角を持ち上げた。
渡されたタオルで素直に髪を拭う。濡れた頬や首筋、肩も拭いてからタオルをさりげなくファイルの上に放り投げた。
白いタオルに覆われたファイルには興味なさそうに、ロビンは三つ編みの穂先を弄っている。
「……俺には監視がついている。FBIが動くぞ」
脅しではなかった。
3ヶ月前に予告通りロビンが特別房から姿を消した際、逃がす手引きをしたのではないかと疑われたコウキは取調べを受けていた。もちろん、予告を聞いた以外の関係がないコウキはすぐに開放されたが、代わりに監視が付けられている。
今までにないロビンの執着振りから「会いに戻る」と踏んだFBIの予想は当たっていた。ならば、彼を捕らえる為の網を張っているFBIが動くのは確実だ。
忠告めいた一言に、彼はくつくつと意味深に笑った。
「監視ならとっくに眠らせたさ。折角の逢瀬なのに、無粋な観客は必要ない……そうだろ?」
ロビンという男をある程度知っていれば、「眠らせた」という単語の意味は明白だ。
明日にでも死体が発見され、組織によって秘密裏に処理される筈。国家権力と云う性質の悪いスポンサーを持つ組織では、捜査員の処理など日常茶飯事だろう。
表沙汰にならないと踏んだからこそ、ロビンもあっさりと犯行を自供している。
「『……血の臭いがする』」
呟いたコウキは、既視感がある言葉に唇を噛んだ。
あれはそう……資料で指を切ったコウキへ、ロビンが放った一声だ。顔を見るなり向けられた言葉、滲んだ血を舐め取った舌と噛み付かれた感触まで思い出し、己の記憶力の良さを呪った。
「そうだろうな」
「捜査員の返り血」
舌打ちしたい気分で、責める響きを滲ませたコウキが蒼い瞳で睨みつけたミラーの中、殺人犯は首を横に振って否定した。
「返り血を浴びるほど派手じゃない」
背後から近付いて首の後ろから細身の刃を突き刺した。ほとんど血を流すことなく息絶えた1人目、ペアを組むFBIの片割れが死に際に向けた銃弾を足に受けたのは、本当に予想外だったのだ。
自分でも笑えるほど、勘が鈍っていた。
だが、それらをコウキに告げる気はない。
彼は『稀有なる羊』――ロビンの知能についてこれる唯一に近い存在だった。コウキと話すならば、もっと有意義な価値ある会話を楽しみたい。
「ケガ……?」
信じられないと眉を顰めたコウキが、少し考えて鍵を回した。エンジンが掛かった車内で、しかしロビンは平然としている。
犯罪者と研究者である管理人が同乗する車は、雨に煙る街へ静かに滑り出した。
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