03.子猫の牙

 コウキの白い指がページを捲る。


 紙が擦れる微かな音だけが響く室内は、薄暗い印象があった。


 実際は、蛍光灯が照らし出す部屋は明るい。暗く感じたのは、重厚な木製の家具が原因だろう。ダークブラウンの落ち着いた色合いが、蛍光灯の明るさを打ち消していた。


 もう一枚捲る。


 紙の縁が指を切り、赤い血が滲んだ。


 溜め息をついて傷に舌を這わせる。それでも読み進める資料を辿る目は止まらなかった。



 ロビンが最初に殺したのは、母親――彼女を殺した理由を、当初の管理人は母親の支配から解放される為としていた。だが、それは本人の口から否定されたことにより、コウキが訂正している。


 次の被害者は、まったく彼と面識のない女性だ。観光で訪れた31歳の女性を切り裂き、丁寧に腑分けして並べたことから、猟奇殺人としてニュースになった。


 被害女性はモデルの経験がある、整った顔立ちを歪ませることなく、穏やかに息を引き取っていたという。


 20歳の大学生、16歳の女子高校生、48歳女性と彼女の連れで孫の3歳になる少年、25歳のOL―――さらに25人の殺害を繰り返した。


 母親を含め32人もの人間を切り裂いたロビンは、公式書類では死刑を執行したと公表されている。


 ロビンの生存を知るのは、限られた極僅かな公安関係者だけだった。


 どの被害者にも共通するのは『美人』と表現される顔立ち、凛とした姿勢のよさ。48歳の女性も写真で確認する限り、一回り若く見える。


「……殺害動機がない?」


 快楽殺人なら理由は簡単だ。


 ”血が見たかった”、”悲鳴が心地よい”、”人を殺した快感が忘れられない”、幾らでも動機があった。己の欲を満たすことに忠実だから、殺した相手の一部や持ち物を『戦利品』と称して持ち帰る輩も珍しくない。


 だが、ロビンの作り上げた死体に欠けた部分はなかった。


 財布など金目のものはもちろん、アクセサリーや買い物した小物まで、何も持ち帰った形跡がない。そして本人が『快楽殺人ではない』と明言する以上、何故殺したのか…動機が存在しないのだ。


 動機のない殺人――ロビンの知能指数の高さは、テストするまでもなく証明された。


 指紋や髪の毛を含め、現場に何も証拠を残さない完全犯罪。


 大通り近くや日曜日の昼頃といった目立つ時間や場所を選びながら、目撃者ひとり現れない。


 天才的な頭脳で、間違った方向へ才能を発揮した結果、警察も公安も彼に繋がる情報を得ることなく、ひたすら死体の回収係に徹してきた。


 ロビン・マスカウェル―――死神と渾名される連続殺人犯として、彼の名が世間を賑わせたのは、自首による逮捕が報道されたからだ。


 作り上げた最後の死体の隣で、腑分けに使用したナイフ片手に座っていた。警察官が声を掛けると「キレイだろ? この死体……最高傑作だ」と笑って見せたという。



 大量の資料は、すでに暗記するほどに読み込んでいる。死体検案書や現場写真を放り出し、コウキは静かに目元を指で押さえた。


「本人から聞き出すしかない、か」


 死体は黙して語らず、資料は他人の偏った見解に塗れて使い物にならなかった。結局、本人から聞き出さなければ何もわからないのだろう。


 腰まで長い三つ編み、青紫の瞳、整った顔立ち、見事な体躯……何不自由なく生活を送れるだけの資産と才能。すべてを血に塗れさせ、貶める必要があったのか。


 何がこの男をそこまで駆り立てた?


 知りたいと思う気持ちを抑えきれず、コウキは椅子から身を起こした。時計の針は、午後1時を指している。まだ特殊刑務所へ彼を訪問できる時間だった。


 机の上に散らばった資料を簡単に纏めるコウキの指が、ぴりりと痛む。落とした視線の先で、先ほど紙で切った傷が再び血を滲ませていた。




「……血の臭いがする」


 顔を出すなり、ロビンは目を細めた。挨拶もなしで呟き、口元に物騒な笑みを刻む表情は、殺人鬼と呼ばれるだけの狂気を秘めている。


「さきほど手を切ったからな」


 平然と答えたコウキに、ロビンが手招きする。


 二重の鉄格子に出来るだけ近づけば、不満そうに首を横に振った。看守に合図をして、手前の鉄格子の扉を開けさせる。


「危険です」


「責任は俺が取る」


 言い切って近づけば、そっと手を差し伸べられた。


 何を望んでいるのか気づいて、さすがに足を止めて迷う。この手を取れと望む彼は、コウキの迷いを見抜いて笑う。そんな態度にむっとしてぎりぎりまで近づいた。


 細いくせに節の目立つ指を持つロビンの手に触れた途端、鉄格子越しに強く引っ張られる。


「Dr.コウキ!?」


「大丈夫だ、近づくな!」


 看守の慌てふためく声に、首を振って叫んだ。


 切れた左手の人差し指をじっと見つめるロビンが、傷口に舌を這わせる。自分も行った治療に似た行為に、ぞくりと肌が粟立つ。


 滲んだ血を丁寧に舐め取り、最後に指先へ軽く噛み付いた。ぴり……と痛んだが、コウキは手を引かずにロビンの出方を見守る。


 噛まれた指先は赤く染まり、まだ左手を握っているロビンが血に濡れた唇で笑みを浮べた。


「怖くないの?」


「……子猫の牙に脅える必要はない」


 今のお前は、爪を立ててじゃれる子猫と同じだ。揶揄るコウキの表現に、ロビンは肩を震わせて笑い出した。


 あっさり手を離すと、コウキの血を纏う唇を手の甲で拭う。


「気に入った、本当に……『稀有なる羊』だよ」


 機嫌よさそうな彼が、三つ編みを編み直す。それがひとつの癖なのだと脳裏に記録しながら、コウキは気に入られている己の立場を幸運だと割り切ることにした。

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