絶対城先輩の妖怪学講座 補講 「鍛冶屋の婆」(7)
***
そして、村上弁護士が逃げるように立ち去って、久美ちゃんもお礼を言って帰った、その少し後のことである。
「お疲れ様でした、阿頼耶、湯ノ山さん」
殺風景な白い壁をべろんとめくり上げ、その後ろから、白衣に眼鏡の青年が姿を現した。先輩の貴重な友人であり、怪異のインチキ演出担当でもある杵松明人さんだ。ずっとスタンバイしていたのに最後まで出番がなかったのが残念なのだろう、いつも優しげな表情が、今日はどことなく寂しそうである。
「せっかく、狼の怒りの演出を考えたのに……。あの弁護士さん、すんなり罪を認め過ぎだよ」
壁紙の向こうに転がる、ビッグサイズの狼の頭を眺めつつ、杵松さんが残念そうにぼやく。それを聞き、あたしは苦笑した。
先輩と杵松さんは、村上弁護士が自分の犯行を認めなかった場合に備え、「利用された狼が怒ってるぞー!」という演出を準備していたのである。ゴム製の壁紙の向こうから狼の顔を押し付けるだけ、という単純な仕掛けだが、壁にいきなり狼の顔がグワッと浮き出す光景は結構なインパクトがあり、実際、昨日のリハーサルを見た時は、あたしは思わず悲鳴をあげた。
「まあ、せっかく準備したのに、って思うのは分かりますけど……でも、久美ちゃんが安心できて良かったじゃないですか。進学費の問題も、あのお金で何とかなるって言ってましたし、終わりとしては文句なしですよ」
「ああ。村上から口止め料もせしめたからな」
あたしに同意しつつ、満足そうに手元の一万円札たちを見下ろす絶対城先輩。そういうことをするから素直に褒められないんですよ、もう。げんなりと呆れていると、先輩は「それはそうと」と話を変えた。
「二十円札を出す時、狼の護符の内側を見たら、面白いことが書いてあったぞ。札の意匠の名前なんだろうが、『せんびき狼』とあったんだ」
「どこが面白いんだい? 千匹狼を描いたお札なんだから、それが当然だと思うけど」
「字が違うんだ、明人。数字の千ではなく、線を引く狼と書いて『線引狼』。時にユーレイ、千匹狼がなぜ千匹なのかは不明という話をしたのを覚えているな?」
「ええ、まあ。何か元ネタがあるんだろうけど、って話でしたよね……って、もしかして?」
「ああ。そういうことだ」
あたしの言葉を聞き終える前に、先輩は深くうなずいた。静かに興奮しているのだろう、静かな声に徐々に熱が込められていく。
「以前聞かせた通り、千匹狼は、山と里、昼と夜といった境界線を守り、秩序を維持する存在だ。この性格を思えば、本来は『線を引く狼』──線引き狼だったのだろう。狼信仰の衰退に伴い、その意味は忘れられ、千匹狼は畏怖の対象から恐ろしいだけの存在になってしまったが、境界を越えたものを罰する役割だけは、辛うじて残ったのだろうな」
「境界を越えたものを罰する……ですか。そう聞くと、ある意味、里を守ってたような存在でもあったんですね」
「ああ。俺にとってのお前のようなものだ」
「……は?」
唐突に意味不明な言葉をぶつけられ、思わず声が裏返る。ええと、いきなり何を言い出すんだこの人は? 面食らっていると、絶対城先輩はあたしにずいっと歩み寄り──わ、顔が近いって──そして先を続ける。
「今日もそうだ。罪を暴かれ、激昂した相手が向かってきても、お前が必ず止めてくれる。だからこそ、俺は相手を問い詰めることができるんだ。助かった。これからも頼む」
「は、はあ、どういたしまし……て……?」
あの変人があたしに感謝を述べているという事実と、顔の近さとかが相まって、うまく思考がまとまらない。かあっと顔が赤くなるのを感じつつ、あたしはおずおず先輩を見返した。
「てか、どうしたんです、急に……?」
「あのな。たまには労え、そして褒めろと言ったのはお前だろうが。忘れたのか」
「はい? 忘れてはいませんが……って、だからですか? 何ですかそれ! あと褒めるタイミングもおかしいし! そして杵松さんニヤニヤしない!」
――絶対城先輩の妖怪学講座 補講 「鍛冶屋の婆」(了)
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