絶対城先輩の妖怪学講座 補講 「鍛冶屋の婆」(2)
***
「なるほど。庭に狼が出たわけですか」
林立した本棚に囲まれた応接スペースに、バリトンの効いた声が静かに響いた。
声の主の風体は、白のワイシャツに黒のネクタイ、その上に黒の羽織という奇妙なものだ。顔のつくりは端正だが、ひょろりと背が高く、前髪が目に被さるほど長い上、肌が青白いおかげで、幽鬼のような印象を与える。ここ、
「まあ、さすがにもう怪しさにも慣れましたけどね。昨日今日の付き合いでもないし」
「うるさいぞユーレイ」
ぼそりと漏らしたあたしの独り言を聞き付け、絶対城先輩がこちらを睨んだ。聞こえてましたか、すみません。先輩の座るソファの傍らに立ったまま、あたしは小さく頭を下げた。
ちなみに「ユーレイ」ってのは、あたし、
「普通に名前で呼んでくれればいいのに……」
「うるさいと言っている。今は貴重な怪異の体験談を採取している最中だ。静かにできないならどこかに消えろ。……ああ失敬、愚昧なサンプルがご迷惑を。では、その続きをお聞かせください」
ドライな言葉をあたしに浴びせると、先輩は応接セットの向かいに座った二人連れへと向き直った。先輩の視線の先にいるのは、優しげ背の高いスーツ姿の三十代の男性と、セーラー服を着崩した女子中学生だ。スーツの方は弁護士の
しかし、怪奇現象の相談に来るのはたいがい学生だったのに、学外の人がわざわざやってくるなんて、珍しいこともあるもんだ。先輩も有名になってきたのかな、などと思っていると、久美と名乗った少女が口を開いた。
「続きも何も無いって」
先輩を睨み付けながら、少女が短く言い放つ。顔立ちは整っていたが、明るく染めた髪や中学生にしては派手目なメイク、そして敵意をむき出しにした態度のおかげで、あまり可愛くは見えなかった。もったいない。
「私がびっくりしてる間に、狼はどっかに消えちゃったんだよ。ちょっとしてから庭を見に行ったけど、もうどこにもいなかったし……。それだけだっての」
「それだけって、大変なことじゃないか。もし襲われたらどうなってたと思うんだい?」
ぞんざいに語る久美ちゃんを咎めるように、その隣の村上さんがおずおず口を挟んだ。がっしりした体格なのだが、その割に気は小さいのか、どこか頼りなさげな口調である。
「次の日に訪ねた僕が、久美ちゃんの様子がおかしいのに気付いて尋ねたから良かったけど、久美ちゃん、最初は誰にも言わないつもりだったんだろう? 駄目だよ、それは」
「うるさいなあ。おっさんは祖母ちゃんの弁護士だったかもだし、信用されてたみたいだけど、それだけだろ? 何で祖母ちゃん死んだ後も、いちいち関わってくるのさ。だいたい、『神棚のお札は孫の久美に』って祖母ちゃんの遺言に書いてあったの、おっさんが一番知ってるだろ? 弁護士だったら遺言守れよ」
「だから、何度も言ってるじゃないか。大事なお客様だった方の家族が呪われてるんだよ? そんな状況なのに、遺言に従いましたからこれでお終い、なんて言えると思うかい?」
「思うし。何でそんな世話焼くのさ」
「だって、これはもう僕の性分だからね……。放っておけないからこそ、こうして、大学の後輩から聞いたこちらへも──ええと、お名前は何でしたっけ?」
「絶対城です。絶対城阿頼耶」
「そうでした。その絶対城くんのところに相談に連れてきたりもしてるんじゃないか」
「そんなこと誰も頼んでないよね?」
「放っておけないんだから仕方ないだろ」
面倒くさそうに語る久美ちゃんに対し、村上さんが切り返す。何度も繰り返したやりとりなのだろう、どちらも言い慣れている。村上さんも大変ですね、とつぶやけば、先輩はそれをきっぱり無視し、「つまり」と声を発した。
「こういうことですね。まず、久美君が、亡きお祖母様の大事にしていた護符を、遺言に従って受け継いだ。そのお札には狼が描かれており、それ以来、夜な夜な遠吠えが聞こえるなど、おかしなことが起きるようになった、と」
「遠吠えだけじゃありません。先日は」
「本当に狼らしきものが現れた」
村上さんの言葉の先をさらっと奪いつつ、絶対城先輩がうなずく。事情を確認するように相談者の二人を見比べると、先輩は村上弁護士へと問いかけた。
「なかなか興味深い事例です。ちなみに、一連の現象の原因について、村上さんはどう考えておられますか?」
「非科学的とは思いますが……その、いわゆる、呪いのようなものかな、と」
不安げに言葉を選びながら、村上さんが応じる。呪いですか、と繰り返す先輩を前に、優しげな弁護士は首を縦に振った。
「そうとしか考えられないんですよ。非科学的な話をしているとは分かっていますし、亡くなられた犬井つるさんを──つまり、久美ちゃんのお祖母さんを悪く言うつもりもありません。しかし、つるさんがずっと持っていたお札が久美ちゃんに渡ってから、狼の呪いめいた出来事が続いているのは確かなんです。しかも、そのお札には狼が描かれていると来た」
「つまり、お札と怪現象に因果関係があると考えてもおかしくない、と?」
「そういうことです。だいたい、狼のお札なんて、見たことありますか? 私も弁護士という商売柄、それなりに見聞は広いですが、あんな変わったお札は初めて見ました」
「あんな、と言われましてもね。どう変わっているのです?」
「そうですね……。まず、狼をかたどったような文字が……いや、あれは記号かな? とにかく、そんな模様がびっしり、縁取りのように周囲をこう囲んでいまして、それに中央にはいかにも恐ろしげな」
「狼が描いてあるんだ。裏も表がおんなじ絵柄。でかい狼が小さい狼に囲まれてるんだよ」
優しげな弁護士の説明を、その隣から飛んできたざっくりした声が遮った。解説を邪魔された村上さんは、叱るような目を久美ちゃんに向けたが、絶対城先輩は今ので満足したようで、「ほう」と興味深げな声を漏らした。
「裏表が同じデザインというのは、確かに変わった事例ですね。ところで、犬井君に一つ聞きたいのですが」
「私のことなら久美でいいし。あと、敬語もやめてくれる? こっちが年下なんだもん」
「了解した。それで久美君、君はそのお札が呪いの原因だとは思っていないのか?」
「……え。そ、そりゃ、そうでしょ? だって、祖母ちゃんがずっと大事にしてたお札に、そんな呪いとか有り得ないと思うし……」
「まだそんなことを? だったら久美ちゃんの体験したことは、いったい何なんだ」
「それは……誰か、暇な馬鹿のイタズラとか」
「家の周りを探しても、遠吠えを響かせるためのスピーカーなんかどこにもなかったんだろう? それに、庭に現れて消えた狼は、どう説明するんだい?」
言いづらそうに視線を背けてしまった久美ちゃんに、村上さんが呆れた視線を向ける。なるほど、久美ちゃんは狼の呪いに困りつつも、お祖母さんのお札が原因とは思いたくないわけか。お祖母ちゃん子だったのかな、と推察しつつ、あたしは黒の羽織の妖怪学徒へ問いかけた。
「妖怪学的に、狼の呪いってあるんですか?」
「あるかないかと聞かれれば、ある。そもそも狼は──この場合は日本固有種のニホンオオカミのことだが、古くから山の神あるいは山の怪異として、広く畏れられていた動物だから、関連する怪異も多いんだ。ニホンオオカミは明治時代に絶滅させられたが、その後も信仰や伝承が残ったケースもある。根強い畏怖を呼び起こす動物だったようだな」
「へえ。そうなんですか」
「ああ。……それに、科学で説明の付かない出来事も、数少ないが実在するからな」
あたしの疑問に答えつつ、先輩はさらりと一文を付け足した。うん、それは知っている。妖怪学で言うところの怪異分類の一つ、本当に不思議な怪異「
「ともかく、そういうわけなので、お祓いをお願いしたいのですよ。絶対城くんはその手のことに詳しく、今まで何度も怪奇現象にまつわる問題を解決してきたと聞いています」
「少々誤解があるようですね。俺は神主でも神官でもなく、単なる妖怪学の徒。お祓いなどできません。できるのは、先人の知恵を引き、怪異への的確な対処法を探すことくらいです」
「それで結構ですとも。ただ、今回は一時的に抑えられても、同じことがまた起きないとも限りません。できれば、お札を手放すよう、久美ちゃんを説得してほしいのですが……」
「え? おいおっさん、何勝手なこと言ってんの? 私、そんなの聞かないし!」
「落ち着け、久美君。ともかく、前例や対応策の有無について、事例を調べますので、少しお待ちを。では、今日はそんなところで」
久美ちゃんを制しつつ、絶対城先輩が会話を打ち切る。すぐに対応してくれないのが意外なのか不満なのか、村上さんは一瞬きょとんとしたが、すぐに「分かりました」と立った。
「久美ちゃん、帰ろうか。もう暗くなるし、家まで送るよ」
「まだ夕方じゃん。一人で帰れるし」
村上さんの誘いを撥ねつけながら、久美ちゃんが席を立つ。ぶっきらぼうな「お邪魔しました」の言葉とともに、先輩やあたしを見回すと、やや乱暴な女子中学生は四十四番資料室から立ち去った。遠ざかっていく足音を聞きながら、村上さんはやれやれと溜息を落とし、そして先輩へと向き直った。
「絶対城くん。さっきは狼の呪いだろうって言いましたけどね。実は僕、そんなの信じてないんです。久美ちゃんを苦しめている狼は、きっと心因性の幻聴や幻覚ですよ」
「え。そうなんですか?」
先輩に投げかけられた意外な言葉に、思わず口を挟めば、村上さんは小さく首を縦に振った。その優しそうな表情は変わっていないが、なぜか突き放したような冷たさが漂っている。あれ、急に雰囲気変わった? 目を丸くして見つめる先で、弁護士は苦笑してみせた。
「本人の前では言えませんが、難しい年頃ですから。それに、大きな声では言えませんが、彼女の家、今、大変なんです。ご両親とも、給料がガクンと下がっちゃって、彼女が高校に進学できるかどうか怪しくてね。そんなこんなで、ストレスが溜まっているんだと思います」
「そ、それは……。大変なんですね……」
「残念ながら、よくある話ですよ。そして、ストレスが幻を見せることも、若者が狼にまつわるイメージにとりつかれやすいのも、心理学では常識です。大学以来、心理学に入れ込んでいますから、多少の知識はあるんですよね」
あたしの同情をさらりと受け流し、村上弁護士が穏やかに笑う。面倒見の良いお人好しかと思っていたが、意外にドライな人でもあるようだ。と、村上さんは傍らの鞄を手に取り、先輩に向き直って口を開いた。
「僕の見立てでは、彼女を苦しめている狼のイメージは、祖母から遺された不気味なお札によるものだと思われます。このままだと彼女の精神が持たなくなってしまう。適当に理由を付けて、お札を手放すよう言ってください。お礼はもちろん、言ってくれれば、口裏を合わせることくらいはしますよ?」
何も言おうとしない先輩に向かって、村上さんが抑えた声で語る。黒の羽織の妖怪学徒は黙って聞き入っていたが、ややあって顔を上げ、バリトンの効いた低い声を発した。
「狼にまつわるイメージの話をされましたね。それはつまり、ベアリング・グールドが『人狼伝説』で語った説のようなものですか?」
「べ、ベアリング……? いや、申し訳ないが、ちょっと分からないですね」
唐突な質問に、村上さんが戸惑いを見せた。まあ、いくら心理学に詳しい弁護士でも、先輩ほどマニアックな知識を持っているわけじゃなかろうし、聞いたこともないような学者や本の名前を尋ねられたら、そりゃ困惑するだろう。そんな村上さんを無表情で見つめると、絶対城先輩は「そうですか」と小さくうなずき、聞き慣れた声でこう告げたのだった。
「とりあえず、お引き取りを」
【次回更新は、2020年1月14日(火)予定!】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます